『正しさの檻』第五章:偽物と本物の境界

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小説
内定承諾から数ヶ月が過ぎた。
MARIは春休みを謳歌している――つもりだった。

ワインレストランのバイトで稼いでは、その日のうちに浪費する。
勢いで恋人と別れたのは、あの場の熱に浮かされていたから。
SHIHOの「それくらいの覚悟があれば活躍できるんじゃない?」という言葉を真に受けたのもある。
でも、本当のところは、彼氏と別れることで、何かが変わると信じたかったのかもしれない。

その結果、今の自分はどうだろう。
酒に逃げ、軽薄な男たちに囲まれ、なんとなく楽しく過ごしているだけ。
SHIHOや彼のような「本物」の世界に入る前に、学生のうちにできることを楽しんでおくべきだ――
そう思うことで、自分を正当化していた。

「どうせ入社したら大変な日々が待ってるんだから、今ぐらい自由でいいでしょ?」

MARIはそう言い訳しながら、自堕落な時間を積み重ねていった。

不安の影
春が近づくにつれ、不安が膨らんできた。
SHIHOや彼のような「本物」の人間と肩を並べる日が、刻一刻と迫っている。
彼らの世界に入るには、もっと自分を高めなければならないはずなのに、MARIは何も変わっていない。
いや、むしろ堕落している。

だが、SHIHOにはこの不安を打ち明けられなかった。
彼女に弱さを見せれば、すぐに見限られるような気がした。

そこで、MARIはもう一人の「本物」、彼に頼ることにした。
彼は男だ。男なら、私の魅力を使えばどうにかなる。
SHIHOとは違い、彼には「付け込む隙」があるはず――そう思った。

「少し相談があります。大事なお話なので責任者であるあなたに恥を忍んで連絡しました。SHIHOさんには言わないでいただけますか?」

慎重に選んだ言葉。これなら大丈夫なはず。

数時間後、彼から返信が来た。

「どうかしましたか?お電話かZoomで話しますか?」

MARIはすかさず返す。

「いや、直接お会いしたいです。会社だと気まずいので、別の場所でよろしいでしょうか。」

しばらくの沈黙の後、彼は一言だけ返信してきた。

「では、来週の日曜日に上野駅で。」

彼が日曜日の時間を作ってくれた。
MARIは、満足した。

境界線の向こう
日曜日。
MARIは待ち合わせ場所に早めに到着し、遠くから彼の到着を待った。

15分前。彼はすでにそこにいた。

薄手のトレンチコートの下にデニムジャケット、ブルーのチノパン。
裸足にスウェードのローファー。
独特なスタイルなのに、完璧に似合っている。

スマホをいじることもなく、ただ壁にもたれている。

「着いたよ」なんて軽いメッセージすら送らない。
――そういうところが、「安っぽい男」との決定的な違いだった。

「お疲れ様です!待ちました?」

MARIは余裕の表情を作りながら声をかけた。

彼は軽く笑い、首を横に振る。

「いや、待つのは苦じゃないよ。どうせ君も早く来ていたんだろ?」

――見抜かれている。

彼はタバコを吸える喫茶店を選び、古びた店内に入った。
サンドイッチとコーヒーを注文するその仕草は、どこか洗練されている。

「お洒落ですね?」

MARIの軽い言葉にも、彼はさらりと返す。

「よく言われるよ。」

変に謙遜することもなく、堂々と肯定する。

「だって、どう見てもお洒落なのは自覚してるよ。」

嫌味ではない。むしろ、それが当然であるかのような冷静さ。

「40超えて痩せてて身長があれば、似合う服を選んでサイズを間違えなきゃ、安い服でもお洒落になるじゃん。」

彼は続ける。

「それも自己分析じゃん。スポーツが苦手なのにスポーツを頑張っても得意なヤツには勝てない。自分の強みを伸ばせばいいのに、みんな余計なことして、勝手に挫折するよね。」

真理を突く言葉。MARIは言葉に詰まる。

――この人には何も通用しない。

彼は、相談内容を聞こうともしない。ただ自分のペースを貫いている。

焦ったMARIは、唐突に切り出す。

「実は、友人が内定取り消しになったんです。御社もそういうことがあるのかなと思いまして。失礼ながら私も自分が可愛いので。」

彼はあっさり返した。

「あるわけないじゃん。合格出してるんだし。不安にさせてたなら、ごめんね。」

そして、すぐにこう問う。

「てか、なんでSHIHOちゃんじゃなく俺に聞くの?」

「いや……そのほうがいいのかな、と思って。」

MARIは視線を逸らす。

彼は、ふっと小さく笑った。

「自信がないのに背伸びするから、そうなるんだよ。もっとありのままで生きたらいいのに。」

そして――鋭く切り込んでくる。

「本気で、あの天才に追いつけると思ってるの?」

――はい。
思わず即答していた。

「じゃあ、聞くけど何年で?」

「うーん、五年待ってください。」

「別に俺は待ってないよ。」

彼は軽く笑いながら言った。

「五年の間に、あの天才がさらに覚醒するの、わかってる?」

無理に自信を作って、MARIは言い切った。

「大丈夫です。」

彼は呆れたように微笑む。

「まぁ、本当に覚悟があるなら、ひょっとしたら近づけるかもね。」

MARIは、すかさず畳みかけた。

「これからも、いろいろご助言いただけますか?」

彼は、コーヒーを一口飲み、淡々と言った。

「まぁ、内定者の相談には乗るよ。」

――よし、食いついた。
MARIは満足していた。

だが、その満足こそが、最大の勘違いだった。


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