《Satoshi's Logic》第4話──
『それでも、俺は選ばなかった』
玄関のドアを閉めた瞬間、家の中は、音を失った。
テレビもついていない。洗濯機の音もしない。
キッチンから、包丁の音もしない。
ただ、時計の秒針だけが、やけに大きく響いていた。
「……ただいま」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からないまま、靴を脱ぐ。
リビングには、陽菜の姿はない。
テーブルの上には、夕飯のメモだけが置かれていた。
冷蔵庫にあります。温め直して食べてください。
たった二行の文字。
だが、そこには感情も、温度も、含まれていなかった。
俺は、電子レンジの前に立ち、ぼんやりと扉の中を見つめる。
この家は、いつから“宿泊施設”になったんだろう。
一緒に暮らしているはずなのに、俺たちは、同じ場所にいない。
陽菜が、リビングに戻ってきたのは、俺が食事を終えた頃だった。
「……おかえり」
その声は、怒ってもいない。優しくもない。
ただ、淡々としていた。
「おう」
俺も、それ以上の言葉を選ばなかった。
本当は、聞きたいことがあった。
・今日は何してた?
・疲れてない?
・最近、何を考えてる?
だが、それらはすべて、“面倒な感情の扉”だと、無意識に避けてしまう。
沈黙が流れる。
陽菜は、ソファに座り、スマホを見ている。
その横顔は、俺の知らない距離にあった。
俺は、思ってしまった。
――もし、今ここで彼女がいなくなっても。――俺は、同じ生活を続けられるだろうか。
答えは、すぐに出た。
……続けられる。
仕事も、生活も、何一つ困らない。
そのはずだ。
だが、その答えが、なぜか胸を締めつけた。
困らないという事実が、「愛していない」という証明のように思えたからだ。
その夜、陽菜は先に寝室へ行った。
俺は、しばらくリビングに残り、
消したままのテレビ画面に映る自分の顔を見ていた。
年相応の疲れた顔。どこにでもいる、普通の男。
その男は、家庭を守ってきたつもりでいた。
だが、誰の心も守れていなかった。
陽菜の沈黙は、責める言葉よりも、ずっと重い。
それでも俺は、その沈黙を壊さなかった。
いや――壊せなかった。
壊したら、自分が“加害者”だと確定してしまうから。
だから俺は、今日も何も選ばなかった。
向き合うことも、逃げることも、謝ることも、抱きしめることも。
すべて、選ばなかった。
寝室のドアの前で、俺は一瞬、立ち止まる。
このドアを開けた先に、もう“夫婦”は存在しない気がした。
それでも……
ドアノブに手をかけた。
静かに開けると、陽菜はすでに眠っていた。
背中を向けたまま。
俺は、その背中を見つめながら、初めて、はっきりと理解した。
俺は、彼女を失う準備をしてはいない。
だが……取り戻す覚悟も、していない。
だから――
俺は、今日も選ばない。
そして、選ばないという選択を、無意識に繰り返している。
《ロキ・ノワールの記録》
人は、壊れる時、派手には壊れない。
静かに、何も選ばなくなった時、人生はゆっくりと崩れていく。
Satoshiは、まだ“悪者”ではない。
だが――何もしない人間は、最も多くのものを失う。
彼は、まだ知らない。
この沈黙が、“最後の猶予”であることを…
ロキ・ノワール:カウンセリング記録 Satoshi'sカルテ4 XX年X月X日
🔮 私に懺悔するなら今のうちよ?🌙