「魔境」にハマるとどうなるのか?~「分析」の囚人~

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こんにちは。
エンパワラボ の有岐です。
いかがお過ごしでしょうか?

前回までは、「意識の変容」「「魂の成熟」についてのお話でした。
2025年も後半になり、目の前に「お試し」が来てる方が多いかもしれませんよね。

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今の私たちは複雑な世界の中で、善と悪、右と左という2極の選択を見せられています。

人は「言葉」を持ったその時から「2極の世界」の囚人です。
私たちが熱中する、スポーツとか選挙、戦い・・それら全てのベースは何だと思いますか?

「競争」です。

競争の箱の中に閉じ込められています。

💡2極の世界を抜ける秘策については、前回のブログを覗いてみて下さい。

いったい「私たちは、何のために生きているのか?」

よく考えると、私たちは仕事や子育て、目の前の問題や課題に忙殺されて、「こなす」事だけに必死になっています。
そして、その苦しみの砂漠に一滴の水を求めるように「欲」を満たそうとするのです。

そんな「快・不快」の中に生きるだけで、私たちの一生は終わってしまうのでしょうか?

私は学生の頃に「なんで私は生きてるんやろか?」と疑問で仕方ない時期があったんです。
だから、私なりに禅とか、哲学、文学に答えを求めて「人は何故、生まれ生きるのか?」その答えを紐解いてきたんです。

人は今も変わらず「怖れの世界」から抜け出る事ができないでいる。
これだけ宗教の経典や、文学作品、哲学などで、先人が「見える化」してきているのに。

私はこんな風に思うんです。
実際に生きている私たちの『行動』や『感情』、『日常の葛藤』までは、その中に入りきらないからなんだと。

だから、誰にでも通用するような“正解”というものは存在しないのだと思うのです。
だって、「愛」や「幸せ」「絶望」という言葉でさえ、100人いれば100人の解釈がありますもんね。

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私が言う「魂の成熟」という言葉は、地図のようなものだと思ってください。

魂の設計図は「地図」。
そして、人間は「旅人」です。
地図はたしかに方向を示してくれるけれど、実際の旅路は人によって違います。

実際にその道を歩く私たち人間は、その地図の途中で迷い、つまづき、時には後戻りもする。
そこにこそ、理性と感情と身体を持つ、私たち人間が葛藤する、「リアル」があるのだと思うんです。

同じ地図を持っていても、
ある人は晴れた日を歩いているように順調かもしれない。
別の人は雨の中で足元がぬかるみ、思うように進めないかもしれない。
嵐に立ちすくんで一歩も動けない人だっています。

だからこそ、「魂の成熟」というテーマは、実際の人間の行動や感情、つまずきや迷いを抜きにして、やっぱり語る事ができないと思うんです。

複雑な経典や難しい哲学、厳しい修行・・・
私たちは、何とか「檻」から出る為に「方法」を探します。
でも今度は、その「知識の魔境」にとらわれてしまうんです。

この「魔境」が真実から人を遠ざけ、分離と分裂を生み出します。
脱出のために得たはずの知識が、「魔」となる。

心理学や哲学、マインドフルネス、文学もそうです。
私たちは、「自分を理解する」しようと模索するんだと思います。

人とはどういう仕組みで出来ているのか、
自分はどんな「正しさの眼鏡」をかけているのか。
そして、その「正しさ眼鏡」を通して、どんな風に自動反応をしているのかを観察者になって観ようとします。

でもやっぱり何も変わらない現実がある。
頭で思考がグルグルしている。

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それは逆に、「観る」という事に囚われて
「思考の枠」に縛られているんです。

私たちは、誰かに裏切られた時、
「人は信用できない」という思いができます。

屈辱や、嫉妬、心配や不安・・・「人は信用できない」
そんな心から生まれるのが、「これが正しい」という観念です。

そして実は、その生まれた観念が、また同じような「裏切り」を引き寄せます。
さらに孤独を感じた私たちは、その不安や孤独感、不足感を「何とか満たしたい」と渇望するのです。
安心してホッとできる何かをもとめる。

結婚して家庭を作ること
いい学校や会社に入ること

「この人となら、私は安心できる。
この場所なら、私はやり直せる。」
私たちは「信用できるもの」を求め、それを維持しようとします。

でも真実は、
「人」も「場所」もあなたを「安心」にとどめておいてはくれないんです。
形あるものは全て、いつもいつも変化するのが「宇宙の力の法則」だからです。
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「教え」とは、「道具=ツール」です。
自分の経験から気づき、智慧を受け取る。

その時に、出来事から、「感情」、「意味づけ」「思い込み」を冷静に切り離すのに必要なのが、教えの「剣(つるぎ)」なのです。

例えば、挨拶した人が返さなかった。
「無視された?」と嫌な気持ちになった時、
「自分は思い込みで判断しているのではないか?」
そう自分に「問い」をかけて下さい。

人間関係では、相手に対して自分の思いが発生します。それは、他者も同じです。
もしかして、そもそも聞こえなかったのかもしれないし、他の事に意識が行っていたのかもしれない。
なのに、主観で判断して心を反応させているのです。

心が反応したら、もう

「放っておく」。


生きている限り、人間の身体は「目・耳・鼻・口」が外側を向いて作られています。つまり、反応から逃れられないようになっているのです。。
どんな聖者だって、洞窟に1人きりで生活していない限り、「反応」から逃れる事は不可能です。

反応する事は、当たり前です。
でも、それを放置するんじゃなくて、出来事や言葉、行為で自分が反応したら、
「意味づけ」「思い込み」「感情」に気づいて、あとは放っておくんです。

すると・・・
同時にそこに、自分や相手に対する「赦し(ゆるし)」が徐々に生まれてきます。
それが、本来「重たい感情を手放す」ということです。

困った状況になった時、「あの人はこうだ」「この人はこうする」と
判断すること自体を辞めるのです。

心が反応したら、もう
「放っておく」。

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私たちの経験、特に苦い経験は、「魂の成熟」の為の完璧な設計図です。

「手放し」とは、
分析、やり方、ツールを「使う」のではないのです。
なぜなら、道具は道具にしか過ぎません。

あなたの経験が魂に刻まれ、広く深く成熟することで、
「物事の本質」を見抜く力が自然についてきます。
その繰り返しによって、「牢獄の輪」はただ消滅していきます。

私たちを苦しみの牢獄に閉じ込めている「マトリックス」は、
自分以外の「何か」や「誰か」がそれを開放することは、
決してないのが真実です。

◆「意味づけ」分析の世界は「魔」になる。

ここからが今日の本題です。

「学んだ教え」や「得た気づき」そのものが、逆に「私の正しさ」「私の成長」へとすり替わってしまう段階があります。
心の作用による「とらわれ」です。

知識や技、学びが深まると、心がこれまで味わったことのない境地や理解に触れます。
それを「特別な力」と思ったり、

内観が進むと、
「自分にはこういう劣等感がある」
「心の奥底に、孤独や見放しの傷がある。」
そして、人を見ては
「鏡」のあの人の中には、こういうものがある、だから・・・・

ラベルを貼りすぎると、かえって現実をありのままに見る力が鈍ります。
それが「魔境にとらわれている状態」です。
仏教ではこれを「見取我(けんしゅが)」や「慢」とも呼び、
智慧でなく、「思考の枠」にとらわれた状態
と解説されます。

それにとらわれていたとしても、そこは
「修行がここまで進んできた証」
でもあるとも言えるんじゃないでしょうか。

とらわれに落ちることもまた道の一部。私たちは「言葉」から逃げる事は出来ない。
それなら、「思考の枠にとらわれたな」と気づく。
この繰り返しでいいんじゃないでしょうか。

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英語が堪能な人を見ると、「あんな風に話せたらいいのにな」と思いますよね。
私がまだ学生の頃、こんな経験があるんです。
世界中から集まった学生がひと夏、イギリスのブライトンの大学寮で過ごす機会がありました。
勿論、英語がスラスラ話せる人もいれば、まだほとんど話せない学生もいました。

しばらく一緒に暮らすうちに、人間関係が出来てきました。
そこで気づいたことがあったんです。それは、若かった私にとって、
初めての大きな気づきで、語学よりも留学で得た一番大きな経験でした。

それは、「言葉は、道具である」という事。
「使うもの」だという事です。

まだ英語に慣れていない、ある生徒がいました。
スラスラと話せる生徒がたくさんいる中で、しばらくすると、なぜか彼女の周りに人が自然と寄ってくるようになりました。

私は堪能に話せると友達が出来るんだろうと思っていたので、不思議に思ったわけです。
ペラペラと話せる人ではなく、なぜ彼女なんだろうか?
その違いは何だろうと考えたわけです。

それが、「言葉は、道具である」という事です。
狡猾に話す表面的な言葉ではなく、その人が
「何を話すのか」つまり、「口から何がでているのか」
それが大切だったことが、やっとわかったんです。


🌿🦉🌿
国が違えば、それだけの数の「当たり前」の価値観の数があって当然。
誰一人として同じ顔はないなら、それだけの数の「当たり前」があって当然。

「何言ってんの?」と思われるかもしれません。
でもその「当たり前」で、私たちは争っているんです。

「観念」とは、
自分の生い立ちの背景によって、自分が影響で作って来た「ものさし」。
だれもが「私の当たり前」のベースの中で、その「私に正しさ」に、疑問も持たないで生きています。

「だって普通は・・・」って言いません?
それって「誰」にとっての普通ですか?
私たちの中にある「思い込み」に気づかずに、それに動かされて生きているんです。

毎日に忙殺される毎日の中で、私たちは自分というパソコンにどんなアプリケーションが入っているのかに気づく時間もない。
「なんで、こんな忙しくて、くたくたになる毎日を繰り返して、生きる事になっているのか?」
「なぜ」
そんな疑問を持つ時間さえないことに気づいていない。

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「思考の枠の囚われ」の外に出る。

それは、
下肚(したばら)にある「下丹田(力)」、正中線中心にある「中丹田(魂)」、そして額にある「上丹田(あの世につながる精神)」

これら3点は繋がっています。
お互いを監視し合っています。

「真実を見極める眼」は、まずは「胆力」。
そして不可欠なのが、「心を一点に止める力」。
この両方が整うと、運と縁は自然に集まってきます。

本日も長くなってしまいました・・・
いつも読んで頂き、ありがとうございます。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
氣功師の有岐でした。
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