【物語:第1章】
十二月の葉山は、透明なガラス細工の中に閉じ込められたように静かだった。逗子駅から京急バスに揺られ、海岸回りのルートを辿る。車窓を流れる相模湾は、夏場の喧騒を嘘のように洗い流し、深く沈んだ藍色を湛えている。「森戸神社」のバス停で降りると、潮の香りが鼻腔を鋭く刺激した。それは磯臭さというよりは、もっと鉱物的で、研ぎ澄まされた冬の匂いだった。
森戸大明神の境内へ足を踏み入れる。頼朝が創建したという古社は、海に突き出すようにして鎮座している。参道の松並木を抜けると、視界が一気に開けた。午後四時過ぎ。太陽はすでに高度を下げ、水平線に向かって墜落しようとしている。「森戸の夕照」――かながわの景勝地にも選ばれたその光景を求めて、僕はここへ来た。
本殿の裏手、海岸へと続く石段の上に立つ。息を呑む、というのはこういうことなのだろう。空はすでにマジックアワーの支配下にあった。頭上の群青色は、西の空へ向かうにつれて鮮烈な茜色へと溶け出し、水平線との境界では燃え尽きるような金色に輝いている。沖合七百メートル、名島と呼ばれる岩礁に立つ赤い鳥居が、逆光の中で黒いシルエットとして切り取られていた。その隣には裕次郎灯台。さらに遠く、海の向こうには富士の稜線が淡い墨絵のように浮かび上がっている 。
僕は愛用のミラーレス一眼を構えた。冷え切ったボディの金属が、手袋越しの指先にも伝わってくる。ファインダーを覗き、露出を調整する。波の音だけが、規則的なリズムで鼓膜を叩く。シャッターを切ろうとした、その瞬間だった。
フレームの右端、千貫松と呼ばれる岩場の陰に、白と赤の色彩が入り込んだ。 巫女だった。白い小袖に、鮮やかな緋袴。黒髪は後ろでひとつに束ねられ、白い和紙の丈長と紅白の水引で飾られている 。彼女は海に迫り出した岩場に立ち、沖合の鳥居に向かって何かを祈るように――いや、違う。ファインダーの倍率を上げる。彼女は、祈っているのではなかった。竹箒を片手に持ち、もう片方の手で自身の二の腕をさすりながら、小さく足踏みをしていたのだ。 寒そうだ。神聖な風景の一部として切り取られた彼女は、次の瞬間、人間味あふれる「寒がりな女の子」へと解像度を変えた。 「……っくしゅ」 波音に混じって、小さなクシャミが聞こえた気がした。聖なる夕陽と、俗世のクシャミ。そのあまりにアンバランスな取り合わせに、僕はファインダーから目を離し、思わず吹き出してしまった。心が、ふわりと温かいもので満たされる。 その時、彼女がふとこちらを振り向いた。夕陽を背負った彼女の顔は逆光でよく見えないが、驚いたように目を見開いている気配がした。風が吹き抜け、彼女の長い黒髪と、緋色の袴の裾を激しくはためかせた。
【物語:第2章】
日が沈むと、世界は急速に熱を失っていった。境内の石畳は、昼間の太陽の記憶などとうに忘れ去り、底冷えする氷の板へと変貌していた。彼女――アルバイト巫女の舞は、社務所の脇で竹箒を握りしめていた。足の指先の感覚はもうない。白足袋一枚でこの石畳の上に立ち続けるのは、一種の拷問に近いと彼女は思っていた 。
(巫女さんって、もっと優雅な仕事だと思ってたのに……)三箇日に向けた事前の掃除と準備。憧れの袴姿になれたのは嬉しかったが、現実は甘くなかった。袴の脇にある「振八つ口」からは容赦なく海風が吹き込み、下半身を冷やす。背中に貼ったカイロ一枚では、この葉山の海風には太刀打ちできない 。まかないで食べた豚汁の温かさも、もうとっくに消え失せていた 。
「あの」不意に声をかけられ、舞はびくりと肩を震わせた。振り返ると、先ほど岩場の近くでカメラを構えていた青年が立っていた。ダウンジャケットにマフラーという完全防備。その暖かそうな格好が、今の舞には酷く羨ましかった。「……はい、なんでしょうか。授与所なら、もう閉まりましたけど」少しトゲのある言い方になってしまったかもしれない。寒さで余裕がなかったのだ。しかし、青年は困ったように眉を下げ、ポケットから何かを取り出した。「いや、これ。さっき、すごいくしゃみしてたから」差し出されたのは、自販機で買ったばかりの缶コーヒーだった。「あったか〜い」の赤いキャップが、薄暗い境内の中で妙に鮮やかに見えた。
「え、あ、いえ、そんな」「僕もずっと写真撮ってて寒くて。二本買っちゃったんで、よかったら」 彼はそう言って、無理やり舞の手元に缶を押し付けるわけでもなく、近くの手水舎の縁にことりと置いた。「お仕事、頑張ってください。景色、すごく綺麗でしたよ。……あなたも含めて」最後の一言は、波の音にかき消されそうなほど小さかった。青年は軽く会釈をすると、逃げるように参道を戻っていく。
舞は取り残された。恐る恐る、置かれた缶コーヒーに手を伸ばす。指先が触れた瞬間、ビリビリとするほどの熱が皮膚を突き抜けた。かじかんだ神経が、その熱に驚いて悲鳴を上げるようだ。両手で包み込む。じわじわと、掌から血液が温められ、手首へ、肘へ、そして心臓へと還流していくのがわかる。スチール缶の硬質な感触と、中身の液体の重み。それは、ただの飲み物以上の質量を持って私の心に沈み込んだ。「……あったか」口から漏れた白い息が、夜の闇に溶けていった。彼の言った「綺麗でしたよ」という言葉が、コーヒーの熱と共に身体の中で反響する。冷え切っていた世界に、ぽっと灯りがともったようだった。
【物語:第3章】
大晦日の夜、森戸大明神は光と音の渦の中にあった。参道には夜店が並び、普段は静かな境内が、初詣を待つ人々の熱気で膨張している。焼きそばのソースの匂いと、甘酒の甘い香りが潮風に混じって漂っていた。舞は授与所の窓口に座っていた。目の前には、お守りや破魔矢を求める人々の手が、千手観音のように伸びてくる 。「家内安全のお守りを二つ」「はい、千六百円になります」「こっち、おみくじ!」「少々お待ちください」計算し、金銭を受け取り、授与品を渡す。単純作業の繰り返しだが、休む暇はない。開け放たれた窓口からは容赦なく寒風が吹き込むが、背中には不思議と汗をかいていた。焦りと緊張の汗だ。
指先が乾燥し、お札の薄い紙がうまくめくれない。小銭は参拝客の手から手へ渡る間に冷やされ、まるで氷の欠片のように冷たい 。(あぁ、もう。指サックしたい……)そんな不敬なことを考えていた時だった。少し酒の入った年配の男性客が、お釣りの渡し方に難癖をつけてきた。「遅いよ、お姉ちゃん」という言葉が、疲れた心に刺さる。泣きそうになるのを堪えて頭を下げた。
ふと顔を上げた時、雑踏の向こう、参拝の列に並ぶ見覚えのあるダウンジャケットを見つけた。あの時の彼だ。
彼は一人だった。周りの騒がしさから切り離されたように、静かに本殿を見上げている。手にはカメラはない。今日は撮影ではなく、参拝に来たのだ。舞の手がふと止まる。彼が賽銭箱の前に立ち、太い鈴緒を握った。ガラン、ガラン。重厚で、どこか懐かしい音が夜空に響く。そのあと、彼は二回手を叩いた。柏手の音が、パン、パンと乾いた音を立てて私の耳に届く。彼は何を祈っているのだろう。
祈りを終えた彼が、ふとこちらを向いた。目が合う。授与所の列に並ぶわけでもなく、彼は遠くから私を見つめ、小さく頷いた。ただそれだけの動作。 けれど、その一瞬で、私を取り巻いていた焦燥感や疲労感が、すうっと浄化されていくのを感じた。彼の眼差しは、あの温かい缶コーヒーと同じ温度を持っていた。
シャン、シャン。遠くの神楽殿で、奉納の舞を舞う本職の巫女さんの鈴の音が聞こえた 。その音は水のせせらぎのように涼やかで、熱り立った境内の空気を清めていく。資料で読んだことがある。鈴の音には、空気を清め、人の心を本来の状態に戻す力があるのだと。彼の視線は、私にとっての鈴の音だったのかもしれない。私は背筋を伸ばした。腰板が背中に当たり、私を支えてくれる。 「はい、次の方どうぞ」私の声は、さっきまでよりもずっと澄んで、明るく響いた。
【物語:終章】
シフトが終わったのは深夜二時を回っていた。着慣れない装束を脱ぎ、ジーンズとニットに着替える。解放感と共に、祭りの後のような寂しさが押し寄せてくる。髪を解くと、丈長で締め付けられていた頭皮がじんわりと弛緩していくのを感じた。私は裏口から海の方へ回った。どうしても、もう一度海が見たかったからだ。
防波堤のそば、千貫松の岩場に、その人影はあった。彼は海を見ていた。ダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、少し背中を丸めて。「……風邪、ひきますよ」私が声をかけると、彼は驚いて振り返り、それから照れくさそうに笑った。「あけまして、おめでとうございます」「おめでとうございます。……まだ居たんですか?」「初日の出、撮ろうかなと思って。まだ数時間ありますけど」「ここからは初日の出は見えませんよ。太陽は山側から昇るから」「あ、そうなんですか? うわ、失敗した」彼は本気で悔しそうな顔をした。その様子がおかしくて、私は久しぶりに声を立てて笑った。
私は彼の隣に並んだ。海は真っ暗で、波の音だけが響いている。けれど、目が慣れてくると、星明かりを受けて白く泡立つ波頭が見えてくる。「巫女さん、大変ですね」「大変です。寒いし、足痛いし、変なお客さん多いし」私は素直に愚痴をこぼした。巫女装束を脱いだ私は、ただの女子大生だ。「でも」 彼は海の方を向いたまま言った。「似合ってましたよ。すごく」「……コスプレみたいで恥ずかしいですけど」 「いや、そういうんじゃなくて」 彼は言葉を探すように少し沈黙し、それから私の方を向いた。夜明け前の薄い光の中で、彼の瞳が真っ直ぐに私を捉える。「凛としてて、でも一生懸命で。その姿を見てると、なんかこう、背筋が伸びるというか。……好きだな、と思いました」
ドクン、と心臓が跳ねた。それは告白というにはあまりに淡々としていて、けれど感想というにはあまりに熱を帯びていた。海風が吹き付ける。寒いはずなのに、頬が熱い。
「……巫女が、ですか?」わざと意地悪く聞き返す。彼は少し困った顔をして、それから視線を私の目に戻した。「巫女姿の、あなたが」
その瞬間、世界から音が消えた気がした。波音も、遠くの参拝客のざわめきも。ただ、彼の瞳の中に映る自分だけが鮮明だった。私はポケットの中で握りしめていた、まだ温かい使い捨てカイロを取り出した。「これ……あげる。お返し」彼の手にそれを乗せる。彼の手は冷たかった。カメラを握り続けていたその手は、凍えるように冷たかった。けれど、その冷たさが今は愛おしい。 彼が私の手を、カイロごと包み込むように握り返した。
東の空が、ほんのりと白み始めている。葉山の山並みの向こうから、新しい光が世界を照らし出そうとしていた。冷たい風の中で、繋いだ手のひらの熱だけが、確かな現実としてそこにあった。巫女装束を脱いでも、私は私だ。そして彼は、そんな私を見つけてくれた。
「……初日の出、見えないなら、一緒にあっちの海岸まで歩きませんか?」 私が言うと、彼は嬉しそうに頷いた。私たちは歩き出した。
新しい一年と、新しい恋の朝に向かって。
新年をイメージした恋愛物語でした。
実際、自分も巫女姿は好きです。
あと、中国ドラマはよく観ています。
それは、登場する女性の古装姿が好きなこともあります。笑
アニメの犬夜叉とかも。笑