②「理性」の限界から「実存」の深淵に直面
理性崇拝・理性信仰が「世界大戦」で「人類レベルの原罪」に直面した~人類は二度の世界大戦で、それまでの楽観的・進歩主義的考えに対して、人間には如何ともし難い「原罪」「業」があることを自覚させられます。戦後、デンマーク語で書かれたキェルケゴールの実存主義がドイツ語に翻訳され、「キェルケゴール・ルネッサンス」を生み出し、キリスト教神学においても「自由主義神学」から「新正統主義神学」へと大きな転換が生じます。奇しくも唯物無神論の極致であるマルクス主義も、第一次世界大戦中にレーニンのロシア革命を通して現実化しており、第一次世界大戦が大きな転機になったことがうかがえます。
キリスト教思想史の4つのポイント~思想史的には、イエス教からキリスト教を成立させたパウロ(パウロ教)、キリスト教神学を確立したアウグスティヌス(カトリシズム)、近代民主主義・近代資本主義の原点ともなったルター(プロテスタンティズム)、楽観的な進歩主義・自由主義を根本からひっくり返したキェルケゴール(実存主義)の4人を押さえておけば、キリスト教の変遷がよく分かります。
「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデーを発見することが必要なのだ。いわゆる客観的真理などを探し出してみたところで、それが私に何の役に立つだろう。・・・私に欠けていたのは、完全に人間らしい生活を送るということだった。単に認識の生活を送ることではなかったのだ。かくしてのみ、私は私の思想の展開を客観的と呼ばれるものの上に、否、断じて私自身のものでないものの上に基礎づけることなく、私の実存の最も深い根源とつながるもの、それによって私が神的なものの中にいわば根を下ろして、たとえ全世界が崩れ落ちようとも、それに絡み付いて離れることのないようなものの上に基礎づけることが出来るのだ。」(キェルケゴール、1835年の手記より)
「近代経済学」も合理的「経済人」モデルの限界にぶつかった~「限界革命」以後、計量経済学が急激に発達しましたが、合理的「経済人」モデルで全て説明できるわけもなく、複雑系経済学で「限定合理性」が提唱されたり、「経済学の巨人」ガルブレイスが『不確実性の時代』を著すなど、「不確実性」が次第に取り上げられるようになりました。
【東京都立大学文系前期2020年度出題】
「人間の思考は、特定の刺激に対して適切な反応パターンを即座に選択し、しかもその選択パターンを組み合わせ、その結果をシミュレートし、そのパターンを無限に複雑化する。知性と概念もまた、この適応のツールとして成立したのである。
このように考えるならば、二〇世紀フランスの哲学者、アンリ・ベルクソンが『創造的進化』においてそう語るとおり、人間は「ホモ・サピエンス(知恵ある人)」である以前に、「ホモ・ファーベル(工作する人)」であることになる。人間とは生存するために道具と人間関係を考案し続けることを自然によって宿命づけられた存在なのである。
概念とは、生命がその適応のために世界を静止した姿で切り取る一つのツールであり、したがってその道具によって生きて流動する本体、つまり世界や生命それ自身を完全に把握することはできないとベルクソンはいう。だとすれば、人間という生命体がその適応のために創り出した技術によって、人間存在を完全に規定したり、人間社会を最終的に包摂することもできないはずである。あえてそれをなそうとすれば、それは手段がそれ自体目的化し、道具が本体を規定し、被造物が創造主に成り代わる倒錯を呼び出すことになろう。
近代とはまさにこの倒錯を本気で成し遂げようとした時代であったといえる。適応の道具として生まれたにすぎない科学が、その原因であり、その土台である自然や宇宙、ひいては人間存在を解明し尽くすことを目指した。それと同時に、生物の適応の結果として生まれた工業技術が、その生物としての条件から人間を解放し、生きものとしての人間をそれとは違った何かに作り替えたいと願った。両者はともに、自然をその静止した姿のうちにとらえ、生きた躍動を機械的な反復のうちに凍結しようと欲したのだといえよう。」(古賀徹『デザインの哲学は必要か』「序にかえて」)
【東京大学文科前期2013年度出題】
「近代科学とは、一七世紀にガリレオやデカルトたちによって開始され、次いでニュートンをもって確立された科学を指している。近代科学が現代科学の基礎となっていることは言うまでもない。近代科学の自然観には、中世までの自然観と比較して、いくつかの重要な特徴がある。
第一の特徴は、機械論的自然観である。中世までは自然の中には、ある種の目的や意志が宿っていると考えられていたが、近代科学は、自然からそれら精神性をし、定められた法則どおりに動くだけの死せる機械をみなすようになった。
第二に、原子論的な還元主義である。自然は全て微小な粒子とそれに外から課せられる自然法則からできており、それら原子と法則だけが自然の真の姿であると考えられるようになった。
ここから第三の特徴として、物心二元論が生じてくる。二元論によれば、身体器官によって捉えられる知覚の世界は、主観の世界である。自然に本来、実在しているのは、色も味もいもない原子以下の微粒子だけである。知覚において光が瞬間に到達するように見えたり、地球が不動に思えたりするのは、主観的に見られているからである。自然の感性的な性格は、自然本来の内在的な性質ではなく、自然をそのように感受し認識する主体の側にある。つまり、心あるいは脳が生み出した性質なのだ。
真に実在するのは物理学が描き出す世界であり、そこからの物理的な刺激作用は、脳内の推論、記憶、連合、類推などの働きによって、秩序ある経験(知覚世界)へと構成される。つまり、知覚世界は心ないし脳の中に生じた一種のイメージや表象にすぎない。物理学的世界は、人間的な意味に欠けた無情の世界である。
それに対して、知覚世界は、「使いやすい机」「嫌いな犬」「美しい樹木」「愛すべき人間」などの意味や価値のある日常物に満ちている。しかしこれは、主観が対象にそのように意味づけたからである。こうして物理学が記述する自然の客観的な真の姿と、私たちの主観的表象とは、質的にも、存在の身分としても、まったく異質なものとみなされる。
これが二元論的な認識論である。そこでは、感性によって捉えられる自然の意味や価値は主体によって与えられるとされる。いわば、自然賛美の抒情詩を作る詩人は、いまや人間の精神の素晴らしさを讃える自己賛美を口にしなければならなくなったのである。こうした物心二元論は、物理と心理、身体と心、客観と主観、野生と文化、事実と規範といった言葉の対によって表現されながら、私たちの生活に深く広く浸透している。日本における理系と文系といった学問の区別もそのひとつである。二元論は、没価値の存在と非存在の価値を作り出してしまう。
二元論によれば、自然は、何の個性もない粒子が反復的に自然法則に従っているだけの存在となる。こうした宇宙に完全に欠落しているのは、ある特定の場所や物がもっているはずの個性である。時間的にも空間的にも極微にまで切り詰められた自然は、場所と歴史としての特殊性を奪われる。近代自然科学に含まれる自然観は、自然を分解して利用する道をこれまでにないほどに推進した。最終的に原子の構造を砕いて核分裂のエネルギーを取り出すようになる。自然を分解して(知的に言えば、分析をして)材料として他の場所で利用する。近代科学の自然に対する知的・実践的態度は自然をかみ砕いて栄養として摂取することに比較できる。
近代科学が明らかにしていった自然法則は、自然を改変し操作する強力なテクノロジーとして応用されていった。しかも自然が機械にすぎず、その意味や価値はすべて人間が与えるものにすぎないのならば、自然を徹底的に利用することに躊躇(ちゅうちょ)を覚える必要はない。本当に大切なのは、ただ人間の主観、心だけだからだ。こうした態度の積み重ねが現在の環境問題を生んだ。
だが実は、この自然に対するスタンスは、人間にもあてはめられてきた。むしろその逆に、歴史的に見れば、人間に対する態度が自然に対するスタンスに反映したのかもしれない。近代の人間観は原子論的であり、近代的な自然観と同型である。近代社会は、個人を伝統的共同体のから脱出させ、それまでの地域性や歴史性から自由な主体として約束した。つまり、人間個人から特殊は諸特徴を取り除き、原子のように単独の存在として遊離させ、規則や法に従ってはたらく存在として捉えるのだ。こうした個人概念は、たしかに近代的な個人の自由をもたらし、人権の観念を準備した。
しかし、近代社会に出現した自由で解放された個人は、同時に、ある意味でアイデンティティを失った根無し草であり、誰とも区別のつかない個性を喪失しがちな存在である。そうした誰とも交換可能な、個性のない個人(政治哲学の文脈では「負荷なき個人」と呼ばれる)を基礎として形成された政治理論についても、現在、さまざまな立場から批判が集まっている。物理学の微粒子のように相互に区別できない個人観は、その人のもつ具体的な特徴、歴史的背景、文化的・社会的アイデンティティ、特殊な諸条件を排除することでなりたっている。
だが、そのようなものとして人間を扱うことは、本当に公平で平等なことなのだろうか。いや、それ以前に、近代社会が想定する誰でもない個人は、本当は誰でもないのではなく、どこかで標準的な人間像を想定してはいないだろうか。そこでは、標準的でない人々のニーズは、社会の基本的制度から密かに排除され、不利な立場に追い込まれていないだろうか。実際、マイノリティに属する市民、例えば、女性、少数民族、同性愛者、障害者、少数派の宗教を信仰する人たちのアイデンティティやニーズは、周辺化されて、軽視されてきた。個々人の個性と歴史性を無視した考え方は、ある人が自分の潜在能力を十全に発揮して生きるために要する個別のニーズに応えられない。
近代科学が自然環境にもたらす問題と、これらの従来の原子論的な個人概念から生じる政治的・社会的問題とは同型であり、並行していることを確認してほしい。
自然の話に戻れば、分解して個性をなくして利用するという近代科学の方式によって破壊されるのは、生態系であることは見やすい話である。自然を分解不可能な粒子と自然法則の観点でのみ捉えるならば、自然は利用可能なエネルギー以上のものではないことになる。そうであれば、自然を破壊することなど原理的にありえないことになってしまうはずだ。
しかし、そのようにして分解的に捉えられた自然は、生物の住める自然ではない。自然を原子のような部分に還元しようとする思考法は、さまざまな生物が住んでおり、生物の存在が欠かせない自然の一部ともなっている生態系を無視してきた。
生態系は、そうした自然観によっては捉えられない全体論的存在である。生態系の内部の無機・有機の構成体は、循環的に相互作用しながら、長い時間をかけて個性ある生態系を形成する。エコロジーは博物学を前身としているが、博物学とはまさに「自然史(ナチュラル・ヒストリー)」である。ひとつの生態系は独特の時間性と個性を形成する。そして、そこに棲息(せいそく)する動植物はそれぞれの仕方で適応し、まわりの環境を改造しながら、個性的な生態を営んでいる。自然に対してつねに分解的・分析的な態度をとれば、生態系の個性、歴史性、場所性は見逃されてしまうだろう。これが、環境問題の根底にある近代の二元論的自然観(かつ二元論的人間観・社会観)の弊害なのである。自然破壊によって人間も動物も住めなくなった場所は、そのような考え方がもたらした悲劇的帰結である。」
(河野哲也『意識は実在しない――心・知覚・自由』)
【東京大学文科前期2016年度出題】
「ホーフスタッターはこう書いている。
反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいただく人々によって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けたものであるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想にとりはかれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。
(リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』田村哲夫訳)
この指摘は私たちが日本における反知性主義について考察する場合でも、つねに念頭に置いておかなければならないものである。反知性主義を駆動しているのは、単なる怠惰や無知ではなく、ほとんどの場合「ひたむきな知的情熱」だからである。
この言葉はロラン・バルトが「無知」について述べた卓見を思い出させる。バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う。実感として、よくわかる。「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内面をみつめて判断する。そのような身体反応をてさしあたりの理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。その人においては知性が活発に機能しているように私には思われる。そのような人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えているからである。知性とはそういうのことを言うのだろうと私は思っている。個人的な定義だが、しばらくこの仮説に基づいて話を進めたい。
「反知性主義」という言葉からはその逆のものを想像すればよい。反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋(がっさいぶくろ)から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聴かされても、私たちの気持ちがあまり晴れることがないし、解放感を覚えることもない。というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。正解をすでに知っている以上、彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的マナーである。「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。彼らは「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と私たちに告げる。そして、そのような言葉は確実に「呪い」として機能し始める。というのは、そういうことを耳元でうるさく言われているうちに、こちらの生きる力がしだいに衰弱してくるからである。「あなたが何を考えようと、何をどう判断しようと、それは理非の判定に関与しない」ということは、「あなたには生きている理由がない」と言われているに等しいからである。
私は私をそのような気分にさせる人間のことを「反知性的」と見なすことにしている。その人自身は自分のことを「知性的」であると思っているかも知れない。たぶん、思っているだろう。知識も豊かだし、自信たっぷりに語るし、反論されても少しも動じない。でも、やはり私は彼を「知性的」とは呼ばない。それは彼が知性を属人的な資質や能力だと思っているからである。だが、私はそれとは違う考え方をする。
知性というのは個人に属するものというより、集団的な現象だと考えている。人間は集団として情報を採り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行う。その力動的プロセス全体を元気づけ、駆動させる力の全体を「知性」と呼びたいと私は思うのである。
ある人の話を聴いているうちに、ずっと忘れていた昔のできごとをふと思い出したり、しばらく音信のなかった人に手紙を書きたくなったり、凝った料理が作りたくなったり、家の掃除がしたくなったり、たまっていたアイロンかけをしたくなったりしたら、それは知性が活性化したことの具体的な徴候である。私はそう考えている。「それまで思いつかなかったことがしたくなる」というかたちでの影響を周囲にいる他者たちに及ぼす力のことを、知性と呼びたいと私は思う。
知性は個人の属性ではなく、集団的にしか発動しない。だから、ある個人が知性的であるかどうかは、その人の個人が私的に所有する知識量や知能指数や演算能力によっては考量できない。そうではなくて、その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。
個人的な知的能力はずいぶん高いようだが、その人がいるせいで周囲から笑いが消え、疑心暗鬼を生じ、勤労意欲が低下し、誰も創意工夫の提案をしなくなるというようなことは現実にはしばしば起こる。きわめて頻繁に起こっている。その人が活発にご本人の「知力」を発動しているせいで、彼の所属する集団全体の知的パフォーマンスが下がってしまうという場合、私はそういう人を「反知性的」とみなすことにしている。これまでのところ、この基準を適用して人物鑑定を過ったことはない。」(内田樹「反知性主義者たちの肖像」)
【センター試験2010年度本試験出題】
「*1フロイトによれば、*2人間の自己愛は過去に三度ほど大きな痛手をこうむったことがあるという。一度目は、コペルニクスの地動説によって地球が天体宇宙の中心から追放されたときに、二度目は、ダーウィンの進化論によって人類が動物世界の中心から追放されたときに、そして三度目は、フロイト自身の無意識の発見によって自己意識が人間の心的世界の中心から追放されたときに。
しかしながら実は、人間の自己愛には、すくなくとももうひとつ、フロイトが語らなかった像が秘められている。だが、それがどのような像であるかを語るためには、ここでいささか回り道をして、まずは*3「ヴェニスの商人」について語らなければならない。
ヴェニスの商人――それは、人類の歴史の中で「*4ノアの洪水以前」から存在していた商業資本主義の体現者のことである。海をはるかへだてた中国やインドやペルシャまで航海をして絹やコショウや絨毯(じゅうたん)を安く買い、ヨーロッパに持ちかえって高く売りさばく。遠隔地とヨーロッパとのあいだに存在する価格の差異が、莫大な利潤としてかれの手元に残ることになる。すなわち、ヴェニスの商人が体現している商業資本主義とは、地理的に離れたふたつの国のあいだの価格の差異を媒介して利潤を生み出す方法である。そこでは、利潤は差異から生まれている。
だが、経済学という学問は、まさに、このヴェニスの商人を抹殺することから出発した。
年々の労働こそ、いずれの国においても、年々の生活のために消費される
あらゆる必需品と有用な物資を本源的に供給する基金であり、この必需品
と有用な物資は、つねに国民の労働の直接の生産物であるか、またはそれ
と交換に他の国から輸入したものである。
『国富論』の冒頭にあるこのアダム・スミスの言葉は、一国の富の増大のためには外国貿易からの利潤を貨幣のかたちで蓄積しなければならないとする、*5重商主義者に対する挑戦状にほかならない。スミスは、一国の富の真の創造者を、遠隔地との価格の差異を媒介して利潤をかせぐ商業資本的活動にではなく、勃興しつつある産業資本主義のもとで汗水たらして労働する人間に見いだしたのである。それは、経済学における「人間主義宣言」であり、これ以後、経済学は「人間」を中心として展開されることになった。
たとえば、*6リカードや*7マルクスは、スミスのこの人間主義宣言を、あらゆる商品の*8交換価値はその生産に必要な労働量によって規定されるという労働価値説として定式化した。
実際、リカードやマルクスの眼前で進行しつつあった産業革命は、工場制度による大量生産を可能にし、一人の労働者が生産しうる商品の価値(労働生産性)はその労働者がみずからの生活を維持していくのに必要な消費財の価値(実質賃金率)を大きく上回るようになったのである。労働者が生産するこの*9剰余価値――それが、かれらが見いだした産業資本主義における利潤の源泉なのであった。もちろん、この利潤は産業資本家によって搾取されてしまうのではあるが、リカードやマルクスはその源泉をあくまでも労働する主体としての人間にもとめていたのである。
だが、産業革命から二百五十年を経た今日、*10ポスト産業資本主義の名のもとに、旧来の産業資本主義の急速な変貌が伝えられている。ポスト産業資本主義――それは、加工食品や繊維製品や機械製品や化学薬品のような実体的な工業生産物にかわって、技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態であるという。そして、このポスト産業資本主義といわれる事態の喧騒(けんそう)のなかに、われわれは、ふたたびヴェニスの商人の影を見いだすのである。
なぜならば、商品としての情報の価値とは、まさに差異そのものが生み出す価値のことだからである。事実、すべての人間が共有している情報とは、その獲得のためにどれだけ労力がかかったとしても、商品としては無価値である。逆に、ある情報が商品として高価に売れるのは、それを利用するひとが他のひととは異なったことが出来るようになるからであり、それはその情報の開発のためにどれほど多くの労働が投入されたかには無関係なのである。
まさに、ここでも差異が価値を作り出し、したがって、差異が利潤を生み出す。それは、あのヴェニスの商人の資本主義と同じ原理にほかならない。すなわち、このポスト産業資本主義のなかでも、労働する主体としての人間は、商品の価値の創造者としても、一国の富の創造者としても、もはやその場所をもっていないのである。
いや、さらに言うならば、伝統的な経済学の独壇場であるべきあの産業資本主義社会のなかにおいても、われわれは、抹殺されていたはずのヴェニスの商人の巨大な亡霊を発見しうるのである。
産業資本主義――それも、実はひとつの遠隔地貿易によって成立している経済機構であったのである。ただし、産業資本義にとっての遠隔地とは、海のかなたの異国ではなく、一国の内側にある農村のことなのである。
産業資本主義の時代、国内の農村にはいまだに共同体的な扶助の原理によって維持されている多数の人口が滞留していた。そして、この農村における過剰人口の存在が、工場労働者の生産性の飛躍的な上昇にもかかわらず、彼らが受け取る実質賃金率の水準を低く抑えることになったのである。たとえ工場労働者によってその実質賃金率が上昇しはじめても、農村からただちに人口が都市に流れだし、そこでの賃金率を引き下げてしまうのである。
それゆえ、都市の産業資本家は、都市にいながらにして、あたかも遠隔地交易に従事している商業資本家のように、労働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できることになる。もちろん、そのあいだの差異が、利潤として彼らの手元に残ることになる。これが産業資本主義の利潤創出の秘密であり、それはいかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというあのヴェニスの商人の資本主義とまったく同じ原理にもとづくものなのである。
この産業資本主義の利潤創出機構を支えてきた労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異は、歴史的に長らく安定していた。農村が膨大な過剰人口を抱えていたからである。そして、この差異の歴史的な安定性が、その背後に「人間」という主体の存在を措定してしまう認識論的錯覚を、商品の*11物神化と名付けた。その意味で、差異性という抽象的な関係の背後にリカードやマルクスが措定してきた主体としての「人間」とは、まさに物神化、いや人神化の産物にほかならないのである。
差異は差異にすぎない。産業革命から二百五十年、多くの先進資本主義国において、無尽蔵に見えた農村における過剰人口もとうとう枯渇してしまった。実質賃金率が上昇しはじめ、もはや労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異を媒介する産業資本主義の原理によっては、利潤を生みだすことが困難になってきたのである。あたえられた差異を媒介するのではなく、みずから媒介すべき差異を意識的に創りだしていかなければ、利潤が生み出せなくなってきたのである。その結果が、差異そのものである情報を商品化していく、現在進行中のポスト産業資本主義という喧騒に満ちた事態にほかならない。
差異を媒介して利潤を生み出していたヴェニスの商人――あのヴェニスの商人の資本主義こそ、まさに普遍的な資本主義であったのである。そして、「人間」とは、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった。」(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)
*1 フロイト…オーストリアの精神医学者(一八五六~一九三九)。精神分析の創始者として知られています。
*2 人間の自己愛…ここでは、人間の主体性を賛美する人間中心的な考え方を言います。
*3「ヴェニスの商人」…シェークスピアの戯曲『ヴェニスの商人』をふまえています。
*4 ノアの洪水…ノアとその家族が方舟(はこぶね)に乗り、大洪水の難から逃れる、『旧約聖書』に記されたエピソード。
*5 重商主義…十六世紀から十八世紀にかけて、西ヨーロッパ諸国で支配的であった保護的な経済政策。
*6 リカード…アダム・スミスと並ぶイギリスの経済学者(一七七二~一八二三)。
*7 マルクス…ドイツの経済学者・哲学者・革命家(一八一八~八三年)。資本主義経済を批判的に分析した『資本論』などで知られています。
*8 交換価値…ある商品が他の商品とどれくらいの量的割合で交換できるかという商品価値。貨幣経済では価格として表されます。これに対して、商品が持っている物としての有用性を「使用価値」と言います。
*9 剰余価値…資本主義経済で、労働者が生産過程で作り出した価値から、労働力の価値(賃金)を引いた価値。
*10 ポスト…他の語の上について“~以後”の意を表すします。「ポストモダン(脱近代)」「ポスト冷戦」など。
*11 物神化…ある物に固有の神秘的な力を認めて、崇拝の対象にすること。古代宗教における自然物、資本主義における商品や貨幣、あるいは異性の身体の一部やその所有物などに対する崇拝を言います。マルクスは、労働を介して人間と人間との関係が、商品と商品との関係として現れるため、あたかも商品自体が価値を持っているように見えることを「物神化(物象化)」と呼びました。「物神崇拝・呪物崇拝(フェティシズム)」とも言います。
参考文献:
『キリスト教思想史入門』(金子晴男、日本基督教団出版局)
『デザインの哲学は必要か』(古賀徹編、武蔵野美術大学出版局)
『意識は実在しない――心・知覚・自由』(河野哲也、講談社選書メチエ)
『日本の反知性主義』(内田樹編、晶文社)
『二十一世紀の資本主義論』(岩井克人、筑摩書房所収)