では、まだ興味・関心が強く生じるほどには知識の蓄積が至ってない場合はどうすればいいのでしょうか。ここで重要なことは、どの段階でも将来性・必要性を考えて意義を確認することがやはり必要だということです。例えば、英語の勉強自体はつまらないとしても、「大学受験を考えればやっぱり英語をやっておかなければ」「将来のことを考えると英語ができるようになりたい」といった意義を確認すれば、耐えることができるでしょう。そして、ある程度、知識と理解が深まってくれば、興味・関心も生まれ、それ自体をおもしろく感じることも出てくるのです。つまり、つまらない勉強ほど「自分にとっての意義と価値」を確認する必要があるということです。
人間にとって最も苛酷な刑は「無意味なことを繰り返しやらせること」だと言います。例えば、朝から晩まで穴を掘らせ、掘ったらまたそれを埋め直させる。これを繰り返させていくと、どんな人でもネを上げるというのです。逆にどんなにつらくてもそれに「意義」を見出せれば、人間は耐えていけるとされます。つまり、「問題意識」の出発点は「(自分にとっての)意義と価値(の確認)」にあると言ってもよいでしょう。行動科学的管理論を唱えたアメリカ人学者マクレガーは「人が献身的に目標達成に尽くすかどうかは、それを達成して得る報酬次第である」と述べています。
わずか1年半の教育で国家的人材を驚異的に輩出した松下村塾の吉田松陰は、村塾にやって来る青年に対して、「あなたは何のために学問をしようと思うのですか」と尋ねるのが常であったと言います。実際、外国語学習や留学の準備などでも、「何のためにこれをやっているか」という目的意識が明確であればあるほど、その達成は早いとされます。さらに、松下村塾の教育における最大の特徴は、「自分に引きつけて読む」ということでした。「自分だったらどうするか」という「問題意識」で学ぶ時、きわめて短期間に力が付いてきたというわけです。
これは独創的な業績を生み出してきた京都学派の学風にも通じるところがあります。京都学派には「フィールドワーク」の伝統がありますが、その本質は「自分の足で歩き、自分の目で見、自分の頭で考える」ということです。つまり、どんなに偉い思想家だろうが、大学者だろうがクソ食らえというわけで、「マルクスはこう言ってます、フロムによりますと・・・」などと権威を頼ろうとすると、「アホか、そのオッサンが何やと言うんや!お前はどう思うんや!」で終わりです。それに対して、若手の研究者が「アフリカに行って、原住民の集落でしばらく暮らしてきましたが、彼らはこんなもん食ってました」などと言うと、拍手喝采、「そりゃすごい!」というわけです。外なる権威に合わせるのではなく、内なる価値観、問題意識にこそ重きを置くべきで、「学問の本質」はまさにここにあるのです。ちなみに代表的フィールドワーカーであった今西錦司(ダーウィンの進化論に真っ向から挑戦し、独自の「棲み分け理論」に基づく今西進化論を展開しました)に対する、同じ京都学派の重鎮達の評価を見てみましょう。
「彼はアンチ“文化主義者”で、カント曰く、マルクス曰くといった引用をするインテリにはフンと横を向く。」(桑原武夫~共同研究システムによって「ルソー研究」などで業績を上げ、「俳句第二芸術論」で物議をかもし、人文科学研究所を独創的な研究な場に仕立て上げた人物です。)
「つねに自分の目でたしかめた事実と、みずからの独創的な見解が尊重された。だれがどういっているなどという他人からの借りものの言説はもっとも軽蔑された。」(梅棹忠夫~民族学の第一人者で、情報経済学の提唱者でもあります。)