ここ最近ね、「自己肯定感」って言葉をよく聞くようになったんだけどさ。
ああ、今日も結論もオチもないよ。
で、「私、自己肯定感低いんですよね」とか言う人、いるやん。
いや、別にディスりたいわけじゃないよ?必要な概念だとは思う。
でもさ、なんか違和感あるんだよね。
この「感」ってなんなん?って。
なんでわざわざ“感じ方”に変換するんかな。
たとえばさ、「自己肯定」って言葉だけなら、「自分を認める」っていう“状態”とか“行為”の話になるじゃん?
でも、そこに「感」がつくと、一気に“気分”になる。
「なんとなく自分を好きでいられるかどうか」みたいな。
で、これ何が起きるかっていうと、めちゃくちゃ曖昧にならない?しかも、比較できるようになるんだよね。
「あなたの自己肯定感は高いですか?」って聞かれた瞬間、なんかテスト受けてる気分になるのおかしくないか(笑)
で、他人と比べ始めるわけよ。
あの人は高そう、この人は低そう、自分はどうだろう…みたいな。
いや、それ誰が決めてんの?って話なんだけど。でも成立しちゃうんだよね。
で、さらにもう一段深く掘ると、責任を全部“内面”に押し込められることにもなるよね。
「うまくいかないのは環境のせいじゃないよ」
「あなたの自己肯定感が低いからだよ」
…これ、言い換えるとさ、
「構造の問題を、個人の気分の問題にすり替えてる」ってことにならないかな。
もちろん、全部がそうとは言わないよ。
でも、そういう使われ方してる場面、結構あるよねって話。
なんでこんな話してるかっていうとさ、結局これ、「意思」の話にすればいいんじゃないの?って思うのよ。
感じるかどうかじゃなくて、「どう在るか」「どう決めるか」。
それだけでよくない?
なんで、わざわざ誰かと比較することになるんだろうね。
「自己肯定感が低い」って、so what?という話でもある。
まあ、ひらたく言えばさ、「自分には価値がない」という感覚の表明で、他人の評価や実績とは無関係に、
「ありのままの自分を認められない」「自分を信じられない」
そういう状態のことなんだろうとは思うけど。
何かに失敗した時だけじゃなくて、成功しても「運が良かっただけだ」とか言って、自分で打ち消してしまうような心理ね。
で、これさ、コミュニケーション上の戦略として使われるパターンもあるよね。
いわゆる「謙遜」とか「予防線」。
「自分なんて……」って先に言っておくことで、
周囲からの期待値を下げておく。そうすれば、失敗した時のショックや批判も和らぐしね。
日本人的には、謙虚さの演出というか、「謙遜」が美徳とされる文化もあるし、それが行き過ぎて、
「自分を低く見積もるのが正しい」みたいな空気もある。
嫌な言い方をすれば、「もっと認めてほしい」っていうサインにも見えるけどさ。
「私なんてダメだ」って言うことで、相手から「そんなことないよ」「頑張ってるよ」っていう肯定的な言葉を引き出したい、みたいなね。
一種の甘えというか、コミュニケーションのきっかけとして機能してる側面もあると思う。
でさ、そもそもなんで「自己肯定」に「感」がついてるんだろうね、って思うことあるのよ。
「感」がついているってことは、それが「客観的な事実」じゃなくて、「主観的な感覚」であることを強調してるわけじゃん。
これが「自己肯定」だけであればね、
自分の行動や存在を「肯定する」という“行為”や“意思”を指すんだけど、「感」がつくことで、
本人が自分の内側でどう感じているか、っていう情緒的なステータスの話になってるよね。
で、僕さ、43歳なんだけど、昔、こんな言葉あった?って思うわけよ。いつ登場したんだろうね。
まあ時代的にさ、「根性論」のガンバリズムだったから、しゃーないといえばしゃーないけど。
昔は『自信』か『根性』しかなかった気がするよ(笑)
僕らの世代が社会に出た頃って、まだ「四の五の言わずにやれ」とか、「自信は後からついてくる」っていう風潮が強かったしね。
心がどう感じているか(感)よりも、どう行動したか、その結果どうだったか、そっちにフォーカスが当たってたと思う。
いや、もちろんね、心のケア的な意味で使うのはいいと思うんだよ。
「自己肯定感が低い」って言葉は、本来は自分をケアするための診断名みたいなものだろうし。
ただ、それが今、
「行動しないための免罪符」になってるような気がするのは僕だけ?
「自分は自己肯定感が低いから、この挑戦は無理だ」
「低いから、こう振る舞っても許されるはずだ」
こんなふうにさ、自分の状態にラベルを貼って固定してしまうことで、本来なら「経験」や「場数」で変えられたはずの可能性を、
言葉の檻に閉じ込めてしまっている側面もあるんじゃないかな。
でさ、一番気になるのがさ、「自己肯定感」という言葉があるせいで、みんな「それを高めなければならない」っていう
強迫観念に駆られてる感じがするんだよね。
「上げよう」「高めよう」って。
でもさ、そもそもそれって上がるもんなの?意識的にコントロールできるものなん?
ワンピースのルフィみたいに「ギア3!」みたいにさ(笑)
いやね、本来の自信ってさ、泥臭い試行錯誤とか、不格好な成功体験の積み重ねの中で、後からついてくるものじゃないの?
誰かに言われたからじゃなくて、自分で何かをやり切ったときに、自分で自分に「よくやった」って言える、
その結果として生まれるものだと思うんだよね。
いや、わからないよ。知らないよ。
でもさ、「感(フィーリング)」だけを先に整えようとするのって、
ガソリンが入ってないのに、燃料計の針だけ無理やり動かそうとしてるような、そんな空虚さを感じることがあるのよ。
まあ、僕は営業出身っていう背景もあるから、
余計そう思うのかもしれないけどさ。
営業って、結局数字の世界じゃん?
数字が上がってないのに、自己肯定感が上がるかって言われたら、上がらない。
ストレートに言えばさ、数字が出てないのに自己肯定感もクソもないし、数字が上がったら上がったで、その瞬間にはもう次の一手を考えてる。
「よっしゃ、自己肯定感上がったぜ!」なんて、思う暇もない。
昨日まで絶好調だったやつが、たった1件の解約でどん底まで落ちることだってある。
そんなもん、結局「感」でしかないんだよね。
で、パートナーシップで成果が出たとしても、自己肯定感が爆上がりするかっていうと、そうでもない。
どっちかというと、「ホッとする」んだよ。
「ちゃんと期待に応えられてた…」っていう安堵の方が大きい。
だからさ、
自分で自分のことを「自己肯定感が高い」とか「低い」とか、考えたことすら、あんまりないんだよね。
で。ここで、僕が思う最大の矛盾があるのよ。
僕の疑問はね、
「自分で自己肯定感低いな、って自覚してるってこと?」
ってところなんだよね。
つまりさ、「私は自己肯定感が低い」と自覚して、それを発言できている時点で、
ある種の「客観視」と「自己主張」が成立してしまってる。
えーとね、
「本当に」自分の存在価値をゼロだと思い込んでるなら、
それを言葉にして他人に投げることすら、しないんじゃないかと思うのよ。
まあ「自覚している」というよりは、「私は調子に乗っている人間ではありませんよ」っていう、
ファイティングポーズを取ってるようにも見える。
「私は自己肯定感が低いという自覚があります」って言うことで、周囲に対して、
「だから優しく扱ってください」
「強い言葉を投げないでください」
っていう“取扱説明書”を配ってるようにも見える時がある。これは一種の生存戦略だよね。
冷静に考えるとさ、本当に自己肯定感が“死んでる”状態なら、
それをメタ認知して「低いな」って分析する余裕なんてないと思うんだよ。
むしろ、
「自己肯定感という物差しで自分を測って、その数値が低いことを認識して、それを他者に伝える」
このプロセスを踏めるってこと自体が、かなり高度な知的能力だし、
同時に「自分への関心(=ある種の愛着)」がある証拠でもあるよね。
結局さ、多くの人が言っている「自覚」っていうのは、深い絶望というよりは、
「今の自分に満足していない」っていう不満を、
それっぽい言葉でパッケージングしてるだけなんじゃないかな。
ちょっと厳しい?
まあね、43歳の中年新入りのオッサンの視点として、一滴くらい共感も混ぜておくとさ、
そうやって“お芝居”をしてでも自分を守らなきゃいけないくらい、今の世の中がハードってことかもしれないよね。
で、話戻すけどさ。
「自己肯定感」があるなら、「自己否定感」って言葉もあってよくない?って思うんだよ。
言葉の構造的にはおかしくないじゃん。でも、流行らない。
そりゃそうでさ、「自己否定」って言葉、重いんだよね。
「自分は間違っている」「価値がない」っていう、かなり強いエネルギーを感じる。
で、「自己否定」って言い切ると、それはもう“思想”とか“決断”みたいに聞こえる。
でも「自己否定“感”」って言い換えると、それがただの“嫌な気分”に格下げされる。
「自己否定感」って言葉が広まらないのは、
それを認めると、
「自分は自分を嫌っている」っていう現実に、真正面から向き合うことになるからだと思う。
だから、
「肯定感が低いだけなんです」って言っておけば、
「本来あるはずのものが、ちょっと足りてないだけ」
っていうニュアンスで、自分を少し守れるんだよね。
でもさ、
「今の自分じゃダメだ」っていう自己否定をバネにして、猛烈に努力して、自分を書き換えていくっていう物語も、確かに存在してきたわけじゃん。
まあ、
「自己肯定感を高めよう」っていうビジネスは成立するけど、「自己否定を直視しよう」っていうのは、生々しすぎて売りにくいよね(笑)
結局のところ、
「自己肯定感」っていう言葉は、「自分と戦うことを避けるための緩衝材」みたいに見える時がある。
でもさ、
健全な「否定」を持ち続けることが、前に進む力になることもあるんじゃないか?
そうも考えられると思うんだよね。
「今の自分は、まだ何者でもない」
「この成果では納得できない」
そういう自己否定って、プロフェッショナルにとっての“飢え”そのものだと思う。
「これでいい」と思った瞬間に成長は止まるし、「これじゃダメだ」っていう否定があるからこそ、
次の一手や、より高い精度を引き出せる。
自分を疑うっていうのは、思考停止に陥らないための武器でもある。
「自分の判断は間違ってるかもしれない」
そう思えるからこそ、プランBを用意したり、多角的に検証したりできるわけでさ。
自分の中に「敵」を持てる人は、やっぱり強いよ。
まあ、今の時代はあんまり好かれないけどね、この“ハングリーさ”ってやつは。
でも、
「今の場所は自分の居場所じゃない」っていう強烈な違和感とか、
そういう自己否定が、人を動かして、環境を変えさせる力になることもある。
歴史上の成功者だって、強烈な劣等感や自己否定を抱えてたって話、よく聞くじゃん。
それを打ち消そうとするエネルギーが、とんでもない努力を生んだ、みたいな。
自己否定ってさ、ある意味“核燃料”みたいなもんだと思うんだよ。
扱いは難しいけど、使いこなせたら、とんでもない推進力になる。
「最初から自分に満足してる人」の人生に、どれだけドラマがあるんだろうね。
「今の自分を認められない」っていう苦しみがあるからこそ、
そこから這い上がって、何かを成し遂げて、自分を書き換えていく物語が生まれる。
今の時代が「自己肯定感」って言葉で優しく包み込もうとしてるのは、この“痛み”に耐えられる人が減ってきてるからかもしれないね。
でもさ、あえてその痛みを受け入れて、燃料に変えられる人だけが、
他の人が見たことない景色を見られるんじゃないかな。
これは、たぶん昔から変わってないと思うよ。
で、最後に。
「自分を否定できる」ってことはさ、裏返せば、「自分にまだ期待してる」ってことでもあるんじゃない?
何が言いたいかっていうと、「今の自分じゃダメだ」っていうその苦しみ、
それを“上昇気流(エネルギー)”に変えちゃえばいいんじゃない?って話。
「このままでいい」「今のままの自分でいい」
っていう甘い言葉に、足止めされるくらいなら、さ。
その拘束具、外してみたら?
思ってる以上に、力、出るかもしれないぜ?
…まあ、外さないほうが楽だろうけど(笑)
追伸。
ああ、それとさ、精神論とか根性論とか、ガンバリズム?
みんな、大嫌いじゃなかったっけ?
都合がいい時だけ『感』をつけて気分(ムード)の問題にすり替えるの、どっちがマシなんだろうね。
だからさあ、「感」やめない?
「フィーリング(Feeling)」に逃げるんじゃなくて、「状態(Being)」と「行動(Doing)」で返していこうぜ。
「で、今日なにやるの?」
余談。
まあ、僕なんかアホでポンコツだからさ、
自己肯定感なんて(考えたことすらないけど、あるなら)ゼロだからよ。
いや、0っていうのはいいぞ。0だから。その下、ないからな。
え?マイナスあるって?あっ、そら、わからんわ。うん、その場合は精神科行きな。
まあ要するにさ、僕の場合はな、あまりにも超絶理想としている憧れが高すぎてな、自分のことをミジンコ以下とか思ってしまうくらいだよ。
でもさ、それでいいんだよ。
自分に言い訳つけて動けなくなるくらいなら、その方がよっぽどマシだろ。
だからよ、
毎日、頭の中でその憧れの“戦略家”様に電話かけてるんだぜ。
孫子様ならどう見る?リデル・ハート様なら?ランチェスター様なら?カエサル様なら?
この局面、どう切る?攻める?守る?視点は?視座は?視野はどこまで上げる?
相手の大将の立場なら、お前はゴーサイン出すのか?って激詰めされる(笑)
で、ときどき向こうからもかけてきてくれるんだよ。
クラウゼヴィッツ様ならさ、「この局面ならこう考えてみたらどうだ」って、ヒントくれたりするわけよ。
…まあ、頭の中で天才同士がぶつかることもあるけどね。
複数人出てくるとヤバくてね、議論して答えが出ない場合はさ、当然振られるわけよ。
「あとは、お前が決断を下せ」って。
「ぐぬぬぬッ…」
笑う?おかしい?
それはお前自身じゃないだろ?って?
ああ、そうかもね。
僕自身ではないかもしれないね。自分というものを持ってない――
「偽物」かもしれないね。
でもさ、
曲がり角の先が見えないなら、とりあえずそこまで行くしかないんじゃないかな。
その先を見るためには、ね。
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