「普通」は、誰のものなのだろうか

「普通」は、誰のものなのだろうか

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コラム
「普通」という言葉は、不思議です。

誰もが知っているように使うのに、
その単語を耳にしたときに思い浮かべる内容は、
同じではありません。

それなのに私たちは、
まるで共通の基準があるかのように、
「普通はこうするよね。」
「それって普通じゃないよ。」
「私、普通だから。」

そんなふうに、
ごく自然に「普通」という単語を口にしています

ある家庭では、
夕食は家族全員で食べるのが普通。

別の家庭では、
仕事や学校の都合で、
それぞれ好きな時間に食べるのが普通。

ある会社では、
新しいことを始める前に、
関係者全員の合意を取るのが普通。

別の会社では、
新しいことはまずやってみて、
走りながら軌道修正するのが普通。

ある地域では、
近所づきあいが当たり前。

別の地域では、
隣の家の人の名前も知らないことが当たり前。

環境がちょっと違うだけで、
「普通」は驚くほど簡単に姿を変えてしまいます。

それなのに私たちは、
「普通はこうだ。」
と口にします。
もちろん、悪気があるわけではありません。

自分が長い時間をかけて見てきた景色を、
そのまま「普通」と呼んでいるだけなのでしょう。

だから、「普通」は一人ひとりに、
それぞれ違う形で存在します。

みんなに共通する「普通」は、
おそらく存在しません。

それでも、私たちは「普通」という言葉を
普通に使います。

「普通だから大丈夫。」
「みんなそうしている。」
「自分だけじゃない。」

そんな言葉を聞くと、
ちょっと安心して
少し肩の力が抜けることがあります。

逆に、
「普通じゃない。」と言われると、
何かを否定されたような、
そんな気持ちになることすらあります。

もしかすると、
私たちが安心したいのは、

「普通」かどうかではなく、

「自分だけではない」

という感覚なのかもしれません。

誰かと同じ景色を見ている。
同じように感じている。
似たような暮らしをしている。

そう思えたとき、
人は孤独から少しだけ離れられる。

だから私たちは、
「普通」という言葉に、
どこか安心してしまうのかもしれません。

私は、「普通」は最初から
どこかに存在するものではないと思っています。

誰かが決めた基準でもなければ、
世界共通の認識でもありません。

似たような人たちが集まり、
似たような時間を過ごし、
似たような価値観を共有した結果、

あとから、
「これが普通だよね。」
という感覚が生まれる。

「普通」は、
誰かが作ったルールというより、
人と人との間に、
いつの間にか生まれる空気のようなもの
なのかもしれません。

「普通」という言葉を聞くたびに、
少し不思議な気持ちになります。

誰もが知っているようでいて、
誰一人として、
まったく同じ「普通」を持っているわけではない。

それなのに、
私たちはその「普通」という言葉に、
安心したり、不安になったりする。

「普通」という言葉は、
何かの基準を表しているようでいて、

本当は、

孤独になりたくない気持ちを、
そっと包むための言葉なのかもしれません。

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