自分が心地よく生きる

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コラム
今回は私自身のことを含めて書いてみたいと思います。

眠剤を服用し音楽を聴きながら床に入るも、目覚めてみると深夜2時だったことが頻繁にあります。最近は、特に頻繁にこの様な事がおきてしまいます。
こんな時、以前の自分を思い出しながら「禅語」の心得を「つらつら」と書いてみたりします。

さて、人は大なり小なり「悩み」を抱えていると思います。この「悩み」というものが、普段の生活に影響を与え、大きなトラブルや行動が制約されてしまうなどと、生活の上で問題となってしまう事があるでしょう。では、この「悩み」というものは「どこから生まれる」のでしょうか?
“欲にとらわれず、何事にも執着せず、一点の曇りもない状態”
これを「無」の状態と言います。また「禅」は、これを最も重視しています。
この「空(無)の思想」のベースにあるものは、お釈迦様の基本的な教えである
“無常無我(むじょう・むが)”
人間の苦しみは、この“無常無我”を自覚しないところにあると説いています。
では、この“無常無我”とはどのようなものなのでしょう。
「無常」とは、“生まれたり死んだり(生じたり滅したり)して、常に移り変わる(恒久でも不変でもない)この世(現象世界)のことを意味します。”
「無我」とは、“「自分(我)」も無常なので、我に固執(我執)することを否定、あるいは超越することを意味します。無常である自分(我)に、執着すると苦しみが生じるという、お釈迦様の教えからきています。”
つまり、この世の物事が常に変わらないものだと考えるところから、迷いや苦しみは始まります。だから、自分や自分がもっている物、あるいは自分を取り巻く人はすべて変わることはないと考えてしまう。また、変わらないことを無意識のうちに期待していたりもする。そしてその結果、その期待が裏切られたときに、人は悩み苦しむというわけです。

この世というのは、常に移り変わって実体がない現象世界であるので、恒久的な「楽」があると勘違いして、その「楽」を追い求めたり楽しむことをする自分(我)に執着するのは間違いであり、その執着によって、自分(我)に“苦”が生じる。“苦”を生じさせないためには、我執を超越(否定)しなければならない。
なかなか、説明が難しいのですが、要は「すべての物事は互いに影響し合っている」ということなのです。

ここで、“苦”という言葉が出てきました。仏教の教えでは、その中核に「無常・苦・無我」というのがあります。
これを説明するのは、またまた難儀なのですが次のとおりとなります。
・無常→森羅万象のすべては「常に変化」している。
・苦→森羅万象は苦である。
・無我→森羅万象のすべてには「永遠に固定されたもの、自分(我)は無い」ということ。
(森羅万象:天地間に存在する、数限りないすべてのもの(万物)や事象のこと。「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶ意で、たくさん連なること。「万象」はすべての形あるもの、有形のものの意。)

「無常・苦・無我」とは、要するに、○ 全てのものは常に変化していて一定ではなく(無常)○ 変化性である一切のものは苦であり(苦)○ 全てのものには永遠不滅の実在もない(無我)ということになります。

さて、タイトルにある「自分が心地よく生きる」について、これらのことを踏まえて考えてみましょう。
「心地よく生きる」ためには、たとえば自分が幸せになりたいと思うなら、周りの人達も幸せでなければなりません。そのために他人に尽くすことで、自分(我)の幸福をもたらす。如いては「心地よく生きられる」といったところでしょうか。
自分の考えに固執しない。執着しない。そして、人の幸せのために尽くす。この様な考えを心にとどめておくことで、ずっと心地よく生きられるということです。

ところで、私達にとって“苦”というやつは、とても厄介なものです。そこで、この“苦”について、もう少し掘り下げてみたいと思います。
“苦”は、「一切皆苦(いっさい-かいく)」、「一切行苦(いっさい-ぎょうく)」といった表現も取られます。
果たして本当に全てのものは“苦”なのでしょうか。「一切皆苦」は本当なのでしょうか。これについては時々、議論されます。

結論からいえば「一切皆苦」で正しくなります。
「一切皆苦」を簡単に説明すると、“この世界のすべてが,結局はすべて苦であるということ。”という意味です。
私達の感性では「世界のすべてが“苦”である」と言われても、なかなか理解しがたいものです。「はて?」と疑問符がついてしまうでしょう。なぜなら私達の感性では“楽”もあるからです。
“人生苦もあれば楽もあり”ではありませんが、人間は苦楽の両方を感じています。ですから「一切皆苦」と言われてもピンとこないわけです。
でも、でもです。もしも「執着するなら“苦”である」とするならば、「無常・苦・無我」の関係性やその解釈に疑問が発生してしまいます。なぜなら、前記で説明した様に、“無常”と“無我”は森羅万象の存在としての「あり方」について説いているからです。もしも「執着するなら“苦”である」といったような解釈をするなら、「執着するなら“無常”」「執着するなら“無我”」としなければ論理的にもおかしくなります。
「執着するなら“無常”」「執着するなら“無我”」といった条件付けはありません。執着があろうがなかろうが一切は“無常”であり“無我”なのです。
そういった点から考えてみると、森羅万象が「無常」「無我」である以上、森羅万象は「苦」であるとしたほうが自然な相互関係になるのです。

“人生苦もあれば楽もあり”という言葉でざっくり砕いて説明すると、“楽”は最初から“楽”があるのではなくて、“苦”を乗り越えて努力や我慢した結果の先に“楽”がある。そんな感じです。

なんにせよ、今回のタイトルである「自分が心地よく生きる」というのは、あれやこれと思い悩むのではなく、森羅万象(自然の摂理)に身をゆだねる。
良い表現ではないと思いますが、「開き直って生きる」や「適当に生きる」といった感じでしょうか。
くどくなってしまいますが、自分の考えに固執しない。執着しない。そして、人の幸せのために尽くす。この様な考えを心にとどめておくことで、ずっと心地よく生きられるということなんでしょうね・・・。

そうそう!
書き忘れてました。
これは、あくまで「わたし個人」の趣味というか感化されている「禅語」を、「つらつら」と書き記している訳でして、決して「仏教徒」の勧誘ではありません。
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