先日のブログでは、安部元監督の事件をきっかけに、AI時代に失われつつある「事情」と「間」について書きました。
その後、Xで、こういった投稿を目にしました。
青少年の教育課程にAI教育を取り入れてくれないかな
正直に言うと、この言葉を見たとき、少し違和感がありました。
「それを教育に任せれば解決するのか」
「本当に、AI教育という言葉だけで届く問題なのか」
そんなことが頭をよぎりました。
この点について、もう少し深掘りして、私の意見を述べたいと思います。
確かに、今回の件で問題があったのは、AIそれ自体ではありません。
問題は、AIを使う側にあります。
報道から見える範囲ではありますが、家庭問題という非常にセンシティブな領域について、具体性や背景が十分に含まれないままAIに相談され、そこに対して一般的な回答が返されたように見えます。
つまり、非常に具体性・背景等が欠落した、感情的なプロンプトであった可能性があります。
このことから、おそらく投稿された方は、
「このようにプロンプトが粗くならないよう、教育すれば改善できる」
というロジックをお持ちなのだろうと思います。
その考え自体は理解できます。
しかし、はっきり言うと、それだけで改善するとは思えません。
多少の訓練による改善は見込まれるでしょう。
AIに聞くときは背景を書く。
5W1Hを入れる。
感情だけでなく、状況も説明する。
目的を明確にする。
そうした教育には意味があります。
ただ、それだけで完全に解決するのは難しいと思います。
なぜなら、こうしたプロンプトを発することになる思考の型、つまり考え方の癖のようなものは、簡単には変わらないからです。
私は、それを体型のようなものだと考えています。
多少太らせたり、痩せさせたりすることはできる。
整えることも、鍛えることもできる。
しかし、根本的な骨格そのものを、短期間の教育でまったく別物に変えることは難しい。
人にはそれぞれ、物事の捉え方の癖があります。
すぐに結論へ飛ぶ人。
感情が先に出る人。
相手の事情を想像する前に、自分の痛みを言葉にする人。
何が起きたかよりも、「どうすればいいか」だけを急いでしまう人。
そうした思考の型が、そのままAIへの問いに出ます。
だから、AI教育を取り入れればよい、という話だけでは足りないのです。
では、この現況を嘆くしかないのか。
それは違います。
だからこそ、AIが存在しているとも言えます。
毒を以て毒を制す、という言葉があります。
もちろん、AIは毒でも薬でもありません。
ただ、AIによって問いが浅くなる危険があるなら、逆にAIを使って問いを整えることもできるはずです。
AIが短絡的な回答に接続してしまうなら、その前に、こちら側でフィルターを置けばよい。
人任せにしてはいけない。
学校がやってくれる。
制度が整えてくれる。
誰かが正しいAI教育をしてくれる。
そう期待するだけでは足りません。
AIを活用できる我々が、AIと人間の間に入り、クッションになればよいのだと思います。
私の目標は、ここにあります。
教育だけではカバーしきれない世界・領域において、私のスキルを活用して、少しでもクッションになりたい。
子どもが感情のままに短い言葉をAIへ投げる前に、
少しだけ状況を整理する。
「何が起きたのか」
「本当はどうしたいのか」
「今すぐ行動すべきなのか」
「一度、間を置いた方がよいのか」
そうした問いを、AIに聞く前に整える。
私は、そのための活動をしていきたいと考えています。
そして、その一つとして、ココナラで子ども向け・保護者向けのAI活用相談サービスを始めます。
単にChatGPTの使い方を教えるだけではありません。
AIに聞く前に、どう問いを整えるか。
子どもがAIに飲み込まれず、自分の考えを失わないためにはどうすればよいか。
親や大人は、どのように声をかけ、どのようなルールを作ればよいか。
そうしたことを、一緒に考えたい。
教育では届きにくい場所に、技術でクッションを置く。
私は、次世代のために、その役割を担っていきたいと考えています。