「クリムト・アライブ」に昨年の夏に行ってきたんですけれども、
高さ7メートルの暗い空間に、巨大なスクリーンが広がっていて。《接吻》をはじめとするクリムトの作品が、壁一面に次々と映し出されていく。
絵を「見る」というより、「浴びる」という感じで。
スゴイ体験をさせていただきまして、、凄いスゴイと技術力!と思いました。。
こんにちわ、れいです。
と、いうことで、
今日は、きょねん、この「クリムト・アライブ」で体験しておもったことなどを書こうと思います。
クリムトは、女性の身体や肖像を数多く描いた画家として知られています。
生涯独身でしたが、モデルたちとの関係から多くの子どももいたそうです。
偉大と呼ばれるアーティスでよくあるはなし、、ですね。
ちょっと、ズレてしまうので、、戻しますね。。
彼の作品には、官能、神秘、装飾、女性、が何度も現れる。
"アニマ"という考え方がありますが、これは、「男性の無意識の中にある、
うちなる女性像」といちおう定義があります。
僕は、男なので、クリムトの描く、ふくざつな表情ともいえる女性を見ると
アニマの普遍性みたいなものを考えてしまうわけです。
クリムトはやっぱり、現実の女性を見ているようで、自分の中にあった理想や憧れ、あるいは欠けていたものを重ねている。そう、思いました。
そのことは、あるいみで、普遍的なテーマでもあるので、
恋愛でもおちいる場所です。
ただ、「接吻」という作品に描かれたとされる、エミーリエ・フレーゲという女性の存在だけは、すこし違うのかなと思いました。
クリムトとエミーリエが出会ったのは、クリムトの弟エルンストとエミーリエの姉ヘレーネの結婚をきっかけにした、家族ぐるみのつながりの中だったとされています。
エミーリエはのちに姉妹でファッションサロンを営み、自分の仕事と名前を持って生きた女性でした。
二人は長く特別な関係を続けましたが、結婚することも、一緒に暮らすこともなかった。
この関係がなぜこんなにも心に残るかというと、そこに「崇拝」じゃない気配があるからなんですよね。芸術家とミューズ、という一方向の関係ではなく、互いに刺激を与え合う、創造的な結びつき。
クリムトにとってエミーリエは、理想を投影する相手ではなく、現実にそこにいる一人の人間だったんじゃないかと思います。
有名な《接吻》という絵画は二人の男女が
金色に包まれ、抱き寄せられている。
一見、とても幸福な場面に見える。
ただ、恍惚とした表情をあらわにしながら、
お互いをお互いに失い"あわないように"している、
緊張感、というのを僕は感じました。
もちろん、これは私自身の見方です。でも恋愛に悩む方の話を聞いていると、愛されることと、自分でいることは、いつも完全には一致しないんだなと感じることがあります。
クリムトは1918年に脳卒中を起こし、そのまま亡くなります。
最期の言葉は「エミーリエを呼んでくれ」だったそうです。
恋愛の相談を受けていると、こういう問いが浮かぶことがあります。
「彼のことが好きなのか、それとも彼に重ねている何かが好きなのか」
残酷なようで、でもすごく大事な問いで。
相手の中に、安心を見ているのかもしれない。承認を見ているのかもしれない。選ばれること、孤独が埋まること。そういうものを恋愛の形で求めてしまうことって、誰にでもあると思う。
それは弱さじゃない。人間の、ごく自然な心の動きです。
ただ、一度でもこの問いを自分に向けてみると、苦しさの正体が少し変わることがある。「彼がどう思っているか」だけじゃなくて、「私はこの恋に、何を託しているのか」というところまで、見えてくることがあるから。
《接吻》の女性が、なぜあの表情をしているのか。
愛の中でさえ、人は自分自身を見失いたくない。そんな気持ちが、あの顔に滲んでいる気がします。
もしいま、彼への気持ちと自分自身の願いが混ざり合って見えなくなっているなら、ぜひ一度、話しかけてみてください。