「科学のドグマからの脱却」青山学院大学人間科学部教育学科2024年

「科学のドグマからの脱却」青山学院大学人間科学部教育学科2024年

記事
学び

(1)問題


① 現在「古典論」と言えば,自然科学の分野では「ニュートンカ学」を指す。ニュートン力学のもっている意味は,少くとも「古典的」な––そこから逸脱するのは,量子力学と相対論的力学である––範囲では,実に明瞭であった。すなわち,この自然界に生起するすべての現象は,質量をもった点(「質点」)とその運動に還元できるのであり,同時に,その質点の運動状態は,厳密に一義的に,ニュートンの運動の第二法則と呼ばれるF=m・Aによって規定される,ということであった。この法則に外れる現象はあり得ない,という確信と,自然現象を構成要素の運動に還元しようとする着想とが合体すると,自然現象は究極的には,第二法則に一義的に規定された構成要素の振舞い〈behaviour〉として記述することができる,という論理が生れてくる。もちろん,われわれ人間は,無知と無能力のために,この世界に生起するすべての現象を支えるすべての構成要素を知らないし,またそれらの構成要素の運動状態を規定する条件(換言すれば, F=m・Aという一般式に与えられる個別的な条件)を知らない。しかし,それを知り得る存在にとっては,そしてそうした存在は発案者の名を冠して「ラプラスの魔」と呼ばれるが,その「ラプラスの魔」にとっては,この自然界に生起する現象は,過去,現在,未来の別なく,完全に知ることができる。古典的な因果的決定論は,こうしたコンテクストのなかから生れてきたものである。

② すでに述べたように,人間は全能ではない。だから,われわれは,現象のもつ表面的な特性に従って,自然現象を分類し,生物学,化学,物理学,といったカテゴリーや,そのサブ·カテゴリーのなかで,特異な法則や規則性を一般化している。それはそれで仕方がないと言える。だが,原理的に言えば,そうした法則性は,現象的,偶然的,表面的なものであって,究極的には,ニュートンの運動の第二法則さえあればよい。

③ もし,こうした態度––ときに多少の諧謔(かいぎゃく)(注)をこめて,「物理学帝国主義」などと呼ばれる。生物学や化学などは,本国たる物理学の植民地的出店に過ぎない,というわけである––が正しいとすれば,科学の統一は,結局,物理学の手で行われるものであり,分化現象は,植民地の増加をこそ示すものであっても,科学の本質にとって妨げでもなく,瑕瑾(かきん)(注)ともならない。

④ (中略)もちろん,多くの科学者は,「物理学帝国主義」を漠然と否定したり,漠然と肯定したりしている––実際上は,すべての現象を完全に物理学に還元することができないとはだれでも認めている。けれどもまた一方では,のちに述べるように,物理学的原理に還元され得ないような何らかのもの,というのは,科学の眼から見ると,どこか怪し気な観が残るのを免れない。したがって,この辺の見解はどうしても「漠然」たる根拠にしか基づかない––が,そこでは,位階構造の上位に属する現象を,下位に属する術語や法則で完全に記述することができるか否かで,見解が分れることになる。しかし,「物理学帝国主義」を否定する人でも,専門の科学者である限り,実は,「物理学帝国主義」とその論理構造は変っていないとも言える。なぜなら,たとえば,その人の扱うレヴェルが高分子だとすれば,彼の高分子を扱う目的は,決してそれ自体にあるのではなく,最終的には,遺伝や発生,進化や免疫といった,高分子的現象よりはるかに上位の現象,つまり一言で言えば「巨視的」な現象を,高分子レヴェルの術語や法則類で完全に記述することにこそあり,その目的のために高分子レヴェルまで分析の段階を降りてきているはずだからである。ということは,科学者は,ある意味ですべて,自分の「専門領域」に関する「帝国主義」者なのである。そしてその論理の裏には,「分析」という自然科学特有の道具が,絶対的な価値をもって君臨している。

⑤ もちろん,自然科学が,そうした論理にのみ依存しようとすることに対して,繰り返し批判があった。とくに,生命現象において,そして,そこにもう一つ付け加えれば心理現象において,その批判は著しかった。(中略)生気論〈vitalism〉でいう「生命特有の原理」は,結局,分析によって下位レヴェルの概念とその従うべき法則に一つずつ置換され,「いやそれでも何らかのXが残る」といっても,それは,もはや,科学の分析には関わらない神秘的なものか,やがては科学の分析が明らかにしてくれるものか,のどちらかであり,前者であれば,科学はもはや口出しをすることはできず,後者であれば「生気論」は,「無知の表白」にほかならない。このようなわけで,生気論的発想は,何か怪し気である,という印象を科学の世界はもつのである。

⑥ しかし,そうした印象が成り立つためには非常に大きな暗黙の前提があることを忘れてはならない。それは,「科学的である」ということの定義として,「分析的である」ということをとっている,という点である。「分析的である」という表現をもう少し正確に言い直せば,「現象を,ただ現象としてとらえるのではなく,その現象を,それを成り立たせている何らかの要素群に分解し,その要素群が,時間-空間のなかでどのように振る舞うか,その有様を記述することによって,もとの現象を説明する」ということになろう。科学の専門領域は,結局,その「構成要素」をどこに求めるかによって決ってくる。その意味で,最も微細な物質構造にまで分析の段階を降りて行く物理学,なかんずく素粒子論が,「帝国主義」を主張することは,あながち理に外れたことではないのである。

(中略)

⑦ しかし,問題はまさしく,そこから生れてくる。その問題を見てとるためには,いったん科学の外に視点を移して科学を眺めなければならない。ヨーロッパの近代科学が,分析による還元主義〈reductionism〉を尖鋭化して行った過程は,それなりに歴史がある。それと同じ論理構造を求めて歴史を遡(さかのぼ)れば,おそらくギリシアのデモクリトス,エピキュロスによって代表される「原子論」〈atomism〉にたどりつく。近代の市民社会の生成とともに,「個人」という概念が確立され,社会も「個人」の集合として把握されるに至って,すべての思想の前線に「個体主義〈individualism(〈individuum〉というラテン語は〈atom〉というギリシア語の直訳形と言ってもよい)が拡散するに従って,時あたかもP·ガッサンディらの手で紹介されたエピキュロスの「原子論」的発想は,いわば,そうした歴史の流れと完全に並行して形成されつつあった近代科学の基本前提として機能することになった。したがって,すでに述べたように,自然現象を分析し,より原理的な要素の振舞いとして記述しようとするときに,その分析のメスをどこで止めるか,という点に並行して,科学はしだいに分化,専門化への道をたどることになったのである。

⑧ けれども,なるほど,そうした歴史的な一種の必然性があるからとはいえ,いやむしろ,そのような歴史的な過程に縛られているのだからなおのこと,「科学的である」ということをドグマティック(注)に「分析的である」と定義しておいてよいのだろうか。それから外れるものをすべて「非科学的」として斥けることが正しいのであろうか。自然科学といえども,歴史の所産である。社会の,時代の,思考の準拠枠に従って,変化し,変動する人類の知的営みの一部であることは,他の領域と本質的に変らない。われわれは,その意味で,また歴史の子である。だから,「科学的」=「分析的」というドグマ(注)から逃れられないとも言える。しかし,また,歴史の子は,未来の歴史の母でもある。とすれば,われわれは,「科学的」に対して,「分析的」以外の定義を(それは必ずしも「分析的」との二者択一を迫るようなものである必要はない)与えることもできるのではないであろうか。そしてそうしたまったく新しい論理構造のなかに科学を位置づけたとき,専門化や分化に伴う弊害も,まったく新しい視点から見直すことができるのではないか。

⑨ そうした問題意識を整理するには,医学はまことに好便である。(中略)医学は「科学的」であるか。またあり得るか。この問は,決して見かけほどナンセンスではない。とくに「科学的」という言葉の定義をすでに見たような形で与えておくことを前提とする限りでは。なるほど,科学の発達とともに,人体に関する科学的知見は,驚くほど増大した。たとえば,皮膚の感覚受容器に対する機械的刺激がどのようにして神経のネットワークを経て中枢や反射弧に伝えられるか。刺激の伝達というマクロな現象は,カルシウム·イオンのポンピングとか,それによる電位差など,よりミクロな概念によって把握される物質の振舞いから記述される。そうした知見が,実際の医療にどのように利用されるか,ということは,一応ヌキにして,マクロな現象を,分析によってミクロな世界へ還元しようとする「科学」の論理は,医学においても,つねに,徹底的に行われる。病原体と病気との関係も,そうした論理の適用の結果でもあるし,免疫などの抗原·抗体反応を高分子レヴェルで解明することも,まさしくその結果の一つである。かくして医学は,立派に科学的ではないか。

⑩ しかしながら,それで全部というわけにはいかない。もともと,病気はギリシア語ではパテーマ〈pathema〉と呼ばれた。病理学〈pathology〉の語源である。パテーマとは「苦しみ」とか「苦しみを受けること」とかいった意味に関わる語である。ちなみに,キリストの受難やそれを扱った楽曲,劇などがパシォン〈passion〉と呼ばれるのも,ペーソスやパセティクといった語が「悲哀」の含意をもつのも,語源が同じだからである。病気とは,まさしく苦しみである。
⑪ しかし,それでは苦しみとは一体何だろう。苦しみは,傍の人がそれと指せるような,つ
まり「客観的」なものではない。百日咳の咳込みは,見ていてもいかにも苦し、そうだ。自動車事故による骨折や挫傷はいかにも痛そうだ。しかし「苦しい」のと「苦しそうだ」とは違う。「痛い」と「痛そうだ」とは違う。「苦しみ」や「痛み」は「客観的」にはなり得ない。だれも,咳込んでいる百日咳の小児の苦しみを苦しむことはできない。ベッドの上で呻吟する事故負傷者の痛みを痛むことは,たとえ患者の最愛の妻や母親であっても他人にはできない。「他人の苦しみを自分の苦しみとする」という言葉は,表現としては判るが,論理的に不可能である。「他人の苦しみを自分の苦しみ」として本当に感じる人があるとすれば,もはやその人の感じている「苦しみ」は,決して「他人の」ものではなく,まさしく「自分の苦しみ」にほかならない。

⑫ 「苦しみ」「痛み」は,主観的なものである。どれほど「苦しみを共にする」こと,つま
り〈sympathy〉(同情)があったとしてもそれは変らない。とすればそもそも,「苦しみ」や「痛み」は「科学」の対象にはなり得ないのではないか。
⑬ そんなことはない。痛みの作用機序(注)はかなり判っているではないか。だが,ちょっと待っていただきたい。受容器としての神経細胞の膜の透過性が,刺激によって突然変化を起す,するとイオンの平衡状態が崩れて,膜の内外に電位差が生ずる,…… 痛みは,そうした形で「科学的」に記述され説明される。だが,それが「痛み」なのだろうか。明らかにそうではない。「痛み」は主観の側の感覚の現象である。しかし前述のごとき「痛みの説明」は客観的物質現象である。われわれは,たとえ前述のごとき客観的現象が起っていなくても,主観の現象としては「痛んで」いる,という可能性を永久に排除できない。客観的には,その人の「痛み」は絶対に知り得ないものだからである。

⑭ それゆえ,医学は,「科学的」であり得る部分もあるが,しかもなお,永遠に,従来の歴史的規定の枠内での「科学的」ではあり得ないところが残ることは明らかである。神経,筋肉,器官,細胞,ミトコンドリア,DNAなど,それぞれの分析段階に応じて,相対的にミクロな知見が積み重ねられ,それぞれの領域における専門的な理論体系ができ上がって行く。その理論体系は,そのレヴェルよりも少くとも一段階高次のレヴェルでの概念や法則を詳細,かつできる限り完全に記述·説明できるものである。だから,医学は科学的でないとはもちろん言えない。それにもかかわらず,医学は,その出発点において,患者の苦しみを取り除くという大前提を忘れるわけにはいかない。それを忘れたとき,医学は医学としての存立基盤を失うからである。そして,「苦しみ」は,科学的分析からは決して検出されない。「苦しみ」は,人間という一個の全体的な存在の主観的側面としてある。もし·「先後関係」という概念を使うとすれば,つねに「苦しみ」が先にあり,その科学的分析(「その」という指示形容詞が「苦しみ」そのものを直接指すことができないのは,すでに述べたことのなかに明らかであろう)は後である。

⑮ 「苦しみ」は,主体という人間の形成する全体的な「場」の一つ一つにおいて,はじめて登場する。足を一本とり出して,針で突ついて「痛いですか」ときくことはできない。しかし,切り取ってしまってもうないはずの右足のつま先が「痛みますか」と人にきくことは,場合によっては十分意味がある。痛みや苦しみは,時間-空間のキャンバスのなかに分析された物質要素の振舞いを詳細に描き上げることで済むものではない。

⑯ そして,このことは,あたかも医学においてのみ本質であるかのように見えるかも知れないが,しかし,実は,科学全般の,あの「分析の論理」について多かれ少かれあてはまる。現象のレヴェルを降りれば,降りただけ何かが失われる。医学の場合,どうしても「苦しみ」を感ずる「場」としての一個の全体的人間という現象のレヴェルから,下降することができない,という実際上の足かせをはめられている特殊事情がある。それゆえにこそ,医学者は自らの分科〈Fach〉に専門としての分析的な眼と頭とをもつと同時に,全体的な人間という統合的な視点を不可欠なものとして要求される。医学界の現状が,この要求をどこまで満たしているかはまた別の問題である。だが,科学一般もまた,同じ掣肘(せいちゅう)(注)の中に本来あるはずなのだ。

⑰ 科学の発展の原動力は,未知のものへの好奇心であったり,実際的な要求であったり,名誉欲であったり,種々様々だろう。だが,その最終的な目標が,ちょうど医学のそれが「患者のために」あるように,「人類のために」というところにないのなら,人類の知的営みとしては,自己破産せざるを得ない。そして,科学は,まさにそこに統合化の視点をもっているはずなのである。

⑱ 具体的なプログラムとしては,「分析と総合」という「科学的」な思考法の前提を疑ってみる作業が必要であろう。それは「分析的である」ことを否定するのではなく,それ以外の自然現象への迫り方を「非科学的」として頭から峻拒(しゅんきょ)(注)してしまわない,という意味である。全体的な現象把握,現象を現象としてそのままとらえる,という方法を,どこかで探さなければならない。というより,その発想を,すべての「分析」の出発点にしなければならない。「分析」は科学の一つの手段ではあっても目的ではないからである。目的を回復するための新しい発想が切に望まれているゆえんでもある。

(中略)

⑲ 分析を方法とする限り,科学内部での専門化は不可避であり,それは否定されるべきことではない。問題の核心は,平凡な結論のようだが,科学的であることと分析的であることとを等置と考えるドグマから脱却し,科学に対して,より柔軟な論理構造の枠組みを許すことにある。そうした柔構造が,結果的に,「人類のために」という科学の目標を,科学の外部にではなく,科学の内部に,改めて設定させることになるだろう。そのときわれわれは,専門分化の弊をのり越えたと言えるのではないか。

(村上陽一郎『近代科学を超えて』(講談社,1986年),一部改変)
(注)
諧謔(かいぎゃく):おどけた滑稽なことば。また,おどけた滑稽なこと。
瑕瑾(かきん):恥,不名誉。
ドグマティック:独断的。
ドグマ:独断。独断的な説。
機序:しくみ,メカニズム。
掣肘(せいちゅう):そばから干渉して自由な行動を妨げること。また,その妨げ。
峻拒:きっぱりと拒絶すること。きびしくこばむこと。
(『日本国語大辞典』第二版 小学館,一部改変)

問1
文章を200字以内で要約しなさい。

問2
下線について,その背景や意義に触れつつ,複数の具体例を挙げながら自分の考えを600字以内で論述しなさい。

ニュートン.png

(2)解答例


問1
科学の分析とは還元主義的な方法を取るが、これは科学を分化・専門化させ、それ以外を非科学的として斥けた。その結果、医学では主観的な患者の痛みや苦しみを理解することができないことになった。分析以外の方法を非科学的として否定せず、全体的な現象としてそのままとらえるという方法を探すことで科学のドグマから脱却し、専門分化の弊をのり越え、人類のためにという科学の目標を科科学の内部に設定させることができる。
(198字)

問2
科学の還元主義を背景とする分析的な科学について、教育と医療で考える。
前者については文系や理系といった枠組みを作り、英語、日本史、化学といった学校教育の科目ごとの学習に直結する。こうした分化・専門化は大学入試に対応するカリキュラムとなっているが、科目間のつながりを見えなくさせる弊害を生む。気候変動を考える場合、大気の組成に関わる地学、自然災害についての地理、CO2を排出する自動車の排気ガスや発電所のしくみや問題などは化学や物理や政治経済で学ぶ。このような細切れの学習では、気候変動の問題の全体像を見えづらくさせるが、文理融合の総合的な学習の時間で扱うことで、科目間の関係が可視化され、この問題に対する生徒の理解がより深まる。
 後者については耳鼻科や眼科、循環器科といった臓器の疾患ごとに病院は分化・専門化し、効率的な医療を実現させる一方、冷え性や疲れやすい体質といった、臓器や体の部分に特化できない患者の悩みに対応できない。これに対して東洋医学は人体の気の流れに病因を求め、患者の体質を改善し、治癒力を高めことで病気を予防し、症状を緩和する。
 このように各要素間のつながりや関係性に着目する方法や東洋医学に代表される部分と全体との調和を図る医療の考え方は従来の科学のドグマから脱却して新しい世界観を提示することで、より本質的な学びにつながり、人類の福祉に貢献することになると考える。
(600字)

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