「「膜」と「核」の概念がもたらす現代政治上の弊害と情報技術による解決」慶應義塾大学法学部2023年

「「膜」と「核」の概念がもたらす現代政治上の弊害と情報技術による解決」慶應義塾大学法学部2023年

記事
学び

(1)問題




【問題】

次の文章は,鈴木健『なめらかな社会とその敵』からの抜粋である。この文章の内容を「膜」と「核」という概念を用いて四〇〇字程度で要約せよ。また,その上で,「膜」と「核」がもたらす現代政治上の弊害を新しい情報技術によって克服しようとする場合,どのような解決策があり得るかを,その限界も含めて,述べよ。



①   複雑な世界を複雑なまま受け入れることは,あまりにも難しい。それは人間には認知限界があるからである。



②   もし人間がありとあらゆる膨大な情報を無制限に処理できるのであれば,複雑な世界を複雑なまま扱うことができるかもしれない。だが,脳という有限のリソースを使っている以上,認知能力には限界がある。複雑なままでは理解できず,理解できないと対応もできない。理解して対応して胸をなでおろすためには,世界を単純なものとしてみなすのは避けようがない。意識とはそもそもそうした目的のための装置であり,そうやって認知コストを下げているのである。



③   責任を誰かに帰すること,すなわち帰責性も同じ理由から要請されている。たとえば交通事故が起きたときに,その原因を遡っていけば,道路の設計の問題なのかもしれないし,運転手の問題かもしれない。運転手が意識をそらす理由が歩行者にあったかもしれない。その歩行者がそこにいた理由も別にあるだろう。複雑な世界を複雑なままとらえようとすると,責任を一カ所に押し付けることなど到底不可能になってしまう。それでも社会をまわすために,事故を防止するために,誰かに責任を押し付ける必要性が生じてしまう。



④   ある個人が責任を引き受けようとしたり,あるいは人に責任をとらせようとすると,すべての問題は責任をもつ人がどう選択するかという点にかかってくる。そして選択がその人の自由意志で行われないとそもそも責任を問えないので,現実がどうであれ自由意志という幻想が生まれることになる。過剰に要請される自由意志が引き起こすのは,責任を問われたときのことを逆算する思考と,それによる逆説的な選択の狭さである。このようにして責任を押し付けること,引き受けることは,自己と他者の間に境界を引き,自由なき自由意志の感覚を生み出してゆく。



⑤   認知コストや対策コストの問題から,私たちは複雑な世界を複雑なまま観ることができず,国境や責任や自由意志を生み出してしまう。逆にいえば,認知能力や対策能力が脳や技術の進化によって上がるにしたがって,単純化の必要性は薄れ,少しずつ世界を複雑なまま扱うことができるようになってくる。人類の文明の歴史とは,いわばそうした複雑化の歴史である。インターネットやコンピュータの登場は,この認知能力や対策能力を桁違いに増大させる生命史的な機会を提供している。これらの情報技術を使って,この複雑な世界を複雑なまま生きることができるような社会をデザインし,その具体的手法のいくつかを提案することが本書の目的である。



⑥   アラン·ケイ(計算機科学)の言葉を借りるならば,「未来を予言する最良の方法は,未来を発明すること」なのである。しかし,そのためには,「敵と味方を区別する」戦争を人類史からなくすことがいかに困難か,その理由をリアリストの立場から冷徹に分析する必要がある。



⑦   理想主義者の解決策がいずれも敗北してきたのは,歴史が証明してきたことである。大草原で空を見上げたり,宇宙から国境のない地球を見下ろしたときに,あるいはロックスターのライブに熱狂しながら,人々のマインドさえ変えれば簡単に実現できそうだと思えることが,現実には一度も達成されたことはないのだ。インターネットとコンピュータが社会に登場してきたのは,ごくごく最近のことである。厳密にいえば,インターネットが発明されたのは一九六九年,コンピュータが発明されたのは一九三六年だが,多くの人々が利用するようになったのは一九九五年以降のことにすぎない。社会的に登場してからわずかな時間しか経っていない。



⑧   その意義づけの作業は,過去に対しても未来に対しても,まだはじまったばかりである。



⑨   インターネットは,はたして新たな概念を構築し,力強い思想を生み出すことができるのだろうか。本書はその試みのひとつである。



(中略)



⑩   本書が挑戦するのは,膜と核という二つの社会現象がインターネットによって打ち破られるのか,もし可能だとして一体どのような方法で可能なのかという問題である。インターネットがもつオープンな特性は,資源の囲い込みを嫌い,あらゆるものをシェアしていこうとする。



⑪   だが現実社会はまだまだ資源の囲い込みに満ちあふれている。これを【膜】の現象と呼ぼう。また,インターネットの自律分散性は,中央集権的な制御を排除する。だが現実社会では,中央集権的な組織に満ちあふれている。これを【核】の現象と呼ぼう。この膜と核の二つが,水の流れのようによどみがない権力や貨幣を実体化させ,静的で,どうしようもなく横暴なものへと変質させてしまう。



⑫   たとえば近代の経済システムは,私的所有を認め,資本が資源や労働力を組織化し,企業という膜の中にそれらを囲い込むことによって成立している。ブランドや知識など資本化されにくいものでさえ,複式簿記の財務諸表の中では居場所が与えられている。企業という膜の外側と内側でいえば,それらの財産は,内側からのみ利用可能である。同業他社との間では熾烈な競争が行われ,それらの有効な資源を社会全体で利用することを阻害することもある(ただし,資本主義の本質はむしろ膜を打ち破り,全体として資源利用の効率性向上させる)。



⑬   企業組織の中では,取締役会や執行役などの経営陣という核が制御し,予算や人事などの資源の配分を決定している。本来であれば,その人が社会に与えた価値に対して対価が与えられるべきだろう。だが社員からみれば,会社の利益さえ上がり上司からの覚えがめでたければよく,社会全体の福利には関心がなくなる。強いモラルか,外部からの強力な監視と制裁がなければ,モラルハザードが起きて,社会的には害としかいえない行動に対しても対価は支払われる。



⑭   貨幣は経済システムにおける血液のようなものである。血液が流れることによって財が循環し,新たに財が形成されていく。だが,資本は蓄積されやすい。お金をもっている人のところにはお金がますます集まりやすくなる。



⑮   資本を生み出すのは末端の人々の力のはずなのに,気がつけば人々は資本に制御され,資本蓄積が自己目的化する。貨幣という水の流れは,ときに蓄積された資本の暴力的なパワーへと変容する。資本は貨幣(currency)という水流におけるよどみのようなものであるが,人はいつしか,そのよどみが水流から成り立っていることを忘れ,資本のなすがままになってしまう。



⑯   次に政治に目を向けてみれば,次のようなことがわかる。近代政治では国民国家概念の成立とともに,国境が厳密になり,国民のメンバーシップが明確になってきた。民主主義制度においては,国家は参政権や社会保障のために,国民のメンバーシップを把握する必要がある。そして,国の中の利益を最大化し,そのためであれば他国の領土を侵略することもしばしばであった。国境や国民という膜の内側と外側で,敵と味方を明確に区別するようになる。



⑰   民主主義において国家の執行権力は,基本的には,その国民(より正確にいえば人民)の意志によって支えられているはずである。しかし複雑な権力構造は,国民の意志どおりに執行されることをしばしば拒んできた。議会は異なる社会階級や階層の利害が対立する場となる。執行権力をもたずしては国民からの委任も維持できなくなるため,政党や派閥の間での権力闘争が自己目的化してしまう。



⑱   権力は,ひとりひとりの意志の委任から成立しているはずである。そうした流れが複雑な権力構造の中で断ち切られ,独自の論理で動きはじめる。権力もまた,水流のよどみのようなものであるが,またしても人々は,よどみが委任という水流から成立していることを忘れてしまうのだ。そして,その制御がうまい権力者が政治を制御することになる。



⑲   以上のような,経済と政治の歴史で反復されている問題系は,換言すれば,社会システムにおける膜と核の問題だといってもよい。インターネットやコンピュータという新しい情報技術を用いて,この問題にわずかなりとも変容を迫っていくことはできないだろうか。



鈴木健『なめらかな社会とその敵』(二〇一三年,勁草書房)。試験問題として使用するために,文章を一部省略·変更している。





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(2)解答例






 筆者は資源の囲い込みを膜と呼び、中央集権的な組織を核と呼ぶ。この膜と核の二つが水の流れのようによどみがない権力や貨幣を実体化させ静的で横暴なものへと変質させる。貨幣は経済システムにおける血液である。貨幣の流動性により財が循環し新たに財が形成されていく。だが資本は蓄積されやすく富裕層に集まる。人々は資本に制御され資本蓄積が自己目的化する。貨幣の流動性は蓄積された資本の暴力的な力へと変容する。政治面では国民国家は参政権や社会保障のために国民のメンバーシップを把握する必要から国民を国境で囲い込む。国益を最大化するために他国を侵略する。国境や国民という膜の内側と外側で敵と味方を明確に区別するようになる。議会では執行権力としての政党や派閥という核に社会階級や階層が結集し、派閥間での権力闘争が自己目的化する。以上のような経済と政治の歴史で反復されている問題系は社会システムにおける膜と核の問題である。



 従来、国家は中央集権的に情報を囲い込んで独占することで、国民をコントロールすることに腐心してきた。いわゆる「由らしむべし、知らしむべからず」という故事成語のように、為政者は国民を従わせればよく、細かい情報まで知らせなくてよいという、パターナリズムに基づき、情報を秘匿する政治が行われてきた。しかし、近年「知る権利」などの新しい人権や情報技術の進展を背景として情報公開法が制定されて、情報を囲い込む国家の膜を突き破る動きが起こってきた。また、SNS上の政治的な書き込みは国民の世論形成に大きな役割を果たし、核としての政府に対して、市民は集散的なネットワークで対抗する動きを見せている。これは市民が情報技術を用いて政治権力を監視し、国民の政治参画を促進するという意味で民主主義の進展をさらに推し進める効果を持つ。



 しかし、こうしたネット上の匿名の書き込みは、ユーザーの責任主体としての意識を希薄化させ、健全な政治批判ではなく、罵詈雑言を浴びせるとった個人に対する中傷に陥ることや、ブロバイダーを辿れば発信者を特定することができるため、秘密選挙の無記名投票のような主権者の安全確保が約束されていないなどの問題と限界が指摘される。(917字)



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