「柳田国男の「山人」論に見る可能性」慶應義塾大学文学部推薦入試2020年度総合考査I

「柳田国男の「山人」論に見る可能性」慶應義塾大学文学部推薦入試2020年度総合考査I

記事
学び

(1)問題




次の文章は、柄谷行人『世界史の実験』の一部です。これを読んで、以下の設問に答えなさい。

【設問1】傍線部(1)に「それはナショナリズムを唱えることではなく、むしろその逆である」とありますが、それはなぜですか。著者の主張に基づいて説明しなさい。

(二四〇字以上、三〇〇字以内)

【設問2】傍線部(2)に「それらに共通点があることは確かである。しかし、重要なのはむしろ、それらの差異である」とありますが、著者がこのように考える理由は何ですか。著者の主張に基づいて説明しなさい。(二四〇字以上、三〇〇字以内)

【設問3】波線部(a)を英語、ドイツ語、フランス語、中国語のいずれかに訳しなさい。

【設問4】波線部(b)を英語、ドイツ語、フランス語、中国語のいずれかに訳しなさい。



何か妖怪



①   柳田国男が民俗学に向かった時期、「怪談」が流行し、また、「妖怪」のブームがあった。しかし、彼が民俗学に向かい、「山人」に関心を抱いたのは、そのためではない。また、それは先住民が山に残っているという観点からだけでもなかった。彼は一九〇〇年に大学を卒業したあと、農商務省・法務省の役人として、実際に「山」にかかわったのである。



②   この時期に妖怪のブームを起こしたのは、柳田ではない。『妖怪学』を書いた井上圓了である。近年、井上圓了といえば、妖怪の研究者で、漫画家水木しげるの大先輩のような人だと考えられている。しかし、彼は明治初期には、井上哲次郎と並ぶ哲学者であった。そして、彼が「妖怪学」という講座を開いたのは、哲学を民衆に説く方便として、である。妖怪といっても、お化けの類ではなく、今なら人が幻想と呼ぶものに相当する。例えば、国家は共同幻想だというかわりに、国家は妖怪だというようなものだ。



③   とはいえ、圓了はいわゆる妖怪を徹底的に調査し、文学的装飾なしにそれを記録した。現在、日本の漫画・小説などで引用される妖怪はほとんど、圓了の著作にもとづいている。彼は、妖怪が幻想であることを人々に説いてまわった。その意味で、彼は啓蒙主義者であった。しかし、妖怪を全面的に斥けたのではない。



④   彼の考えでは、妖怪にはいくつかの種類がある。いわゆる妖怪は仮象であり、自然科学によって真相を解明できる。しかし、そのような仮象が除かれたあとに、人は真の妖怪(真怪)に出会う。それは、この自然世界そのもの、カントでいえば物自体である。実は、圓了は明治の浄土真宗から出てきた宗教改革者だった。そして、彼は仏教的認識を、哲学として、さらに、それを妖怪学として語ろうとしたのである。彼は大学を出た後、どこにも属さず、自分で学校(後に東洋大学)を創設した。型破りの人物であり、むしろ彼自身が妖怪であった、といえる。



⑤   圓了が妖怪を捜し回ったのはなぜか。妖怪が真の仏教的認識(真怪)を妨げるからだ。しかし、真の仏教的認識を妨げているのは、現に存在する寺院仏教である。それこそが否定すべき妖怪なのだ。つまり、圓了の妖怪論は、仏教における宗教改革にほかならなかった。ところが、彼の意図を超えて、妖怪論がブームとなったわけである。



⑥   一方、柳田国男は圓了の妖怪論を嫌った。それは妖怪についての見方が違ったからである。ただ、ある意味で、類似したことを考えていたともいえる。圓了は、妖怪を真の仏教的認識(真怪)から堕落した形態だと見なした。一方、柳田の見方では、妖怪とは、かつて神的な存在であったのに、仏教のような宗教が到来したために追われて零落した存在である。

⑦   柳田はそのような考えを、ハイネの『流刑の神々』から学んだといっている。《我々が

青年時代の愛読書ハインリッヒ・ハイネの『諸神流宙記』などは、今からもう百年以上も前の著述であったが、夙つとにその中には今日大いに発達すべかりし学問の芽生めばえを見せている》(「青年と学問」『柳田國男全集27』ちくま文庫)。ハイネの考えでは、ヨーロッパのゲルマン世界にキリスト教が入ってきたために、森に遁れた従来の神々が妖怪になった。柳田はそれを日本に応用して、『一つ目小僧』を書いた。つまり、「一つ目小僧」などの妖怪は、仏教に追われて隠れた古来の神々だというのである。



⑧   柳田は各地で山人を探索しようとしたが、見出したのは、天狗や妖怪のような伝承だけであった。ゆえに、それらは村人の「共同幻想」として片づけられた。しかし、柳田はそこにこそ、山人、あるいは固有信仰を見ようとしたのである。



⑨   山人を追求する過程で、彼は「山の人生」、すなわち、山地に生きる民の生態について、より詳細な知識を得た。例えば、『山の人生』では、マタギやサンカ、焼畑農民、その他の漂泊民について書かれている。むろん、彼らは山人ではない。したがって、柳田は彼らを、山人と区別して山民と呼んだ。なお、音声上紛らわしいので、以後、山民を山地民と呼ぶことにする。

⑩   私の考えでは、山人は原遊動民であり、山地民はいちど平地に定住した後に遊動民と

なった人たちである。山人と山地民の違いは、彼らの平地民に対する関係において明瞭になる。山地民はかつて平地に定住したことがあるだけでなく、また、その後も何らかのかたちで平地と関係する。そして、彼らの平地民に対する態度はアンビヴァレント(両価的)である。すなわち、敵対性と同時に依存性、軽蔑と羨望が混在する。



⑪   一方、山人は平地民によって、しばしば天狗や仙人として表象される。それは畏怖すべきものではあるが、敵視されるようなものではない。彼らは平地民に対して、特に善意がないとしても、悪意もない。要するに、山人は自足的であり、平地民に対して根本的に無関心なのだ。ゆえに、山人に出会うことは至難である。



⑫   柳田はまた、山人を探る手がかりを、日本の植民地統治下にあった台湾の原住民に求めた。彼らはもともと中国・東南アジアの山岳地帯から移動してきて、一度平地に定住した人たちである。彼らが大陸から侵入してきた漢族に追われて山に遁れたのは、一六世紀である。したがって、柳田はついに山人の存在を確認できなかったが、山地民の中に、その痕跡を見出した。



⑬   例えば、彼が農商務省の役人として調査のために訪れた宮崎県椎葉村で見た焼畑・狩猟民がそうだ。彼らはすでに農業技術をもっている。それは、彼らがかつて平地にいたことを証すものである。彼らはたえず平地民と交易している。このように、山地民は、平地民と深い関係をもつ点で、原遊動民である山人とは違っている。だが、山地民も遊動性をもっており、そのことが、平地の定住民にないような社会的特質を与えている。

⑭   椎葉村で柳田が驚いたのは、《彼等の土地に対する思想が、平地に於ける我々の思想と

異って居る》ことである。柳田にとって貴重だったのは、彼らの中に残っている「思想」である。柳田は農政学者として協同組合について理論的に考えてきたが、ここに、「協同自助」の実践を見出した。それは「ユートピヤ」の実現であり、「一の奇蹟」であった。「富の均分というが如き社会主義の理想」が実現されていたからだ。



⑮   彼らの場合、共同所有と生産における「協同自助」は、焼畑と狩猟に従事するということ、つまり遊動的な生活形態から来るものである。そこに、遊動的な山人の名残りが濃厚にあるといえる。柳田に感銘を与えたのは、そのことである。彼が「山人」について書き始めたのは、椎葉村を訪れたあとである。したがって、彼が「山人」に関心を抱くようになったのは、妖怪や天狗のような怪異譚のためではない。柳田が驚いたのは、農民の協同組合を要とする彼の農政理論において目指していたものが、現にそこにあったからだ。それから間もなく執筆した『遠野物語』の序文に、柳田はこう記した。《国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神やまのかみ山人やまびとの伝説あるべし。願わくは之を語りで平地人を戦慄せしめよ〉。この激越な序文は、椎葉村での認識から来ている。したがって、これは、当時ブームとなった妖怪、すなわち、お化けの類によって平地民を戦慄させることではありえない。妖怪といっても、それは、マルクスが『共産党宣言』の冒頭で書いたような妖怪である。「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている――共産主義の妖怪が。旧ヨーロッパのあらゆる権力が、この妖怪を退治するために神聖な同盟を結んでいる」。



⑯   ちなみに、つぎのような事実がある。マルクス(一八一八~一八八三)はハイネ(一七九七~一八五六)と一八四三年から二年ほど、亡命先のパリで親しくつきあった。ハイネが『流刑の神々』(一八五三年)を構想したのは、この時期である。また、一八四八年にマルクスはエンゲルスとともに『共産党宣言』を刊行した。その意味では、二つの異なる「妖怪」は同じ源泉をもつといったもよい。



山人の歴史学

⑰   柳田国男は長期にわたって多くの仕事をしたが、一貫して抱いていた主題は山人である。彼はそれについて、主として、『遠野物語』(一九一〇年)や『山の人生』(一九二六年)で語ったが、その後はほとんど語らなくなった。そのために、山人への彼の関心は、若い時期のロマン派的な関心であり、また、それらの仕事が照明したのは、山人の有り様よりも、それを表象する村人の「共同幻想」(吉本隆明)であると考えられるようになったのである。



⑱   しかし、柳田は、常民あるいは農民大衆の心性を探求したことは事実であるが、山人を彼らの共同幻想に還元したりはしなかった。その逆に、彼は歴史的な実在としての山人を生涯追い続けたのである。(a)柳田は、山人は日本の先住民で、稲作を行う人々が到来したあと山地に逃れた者であるとう仮説を立て、それを実証しようとした。ところが、それを示す史料は神話しかない。例えば、国つ神が天つ神に追われたというような。ゆえに、柳田はそれを民俗学的な調査によって果たそうとしたのである。彼は次のように述べた。



そこで最終に自分の意見を申しますと、山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅し

たという通説には、私もたいていは同意してよいと思っておりますが、彼等を我々のいう絶滅に導いた道筋についてのみ、若干の異なる見解を抱くのであります。私の想像する道筋は六筋、その一は帰順朝貢に伴う編へん貫かんであります。最も堂々たる同化であります。その二は討死うちじに、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新来の百姓を征服し、好条件をもって行く行く彼等と併合したもの、第五は永い歳月の間に、人知れず土着しかつ混淆こんこうしたもの、数においてはこれがいちばんに多いかと思います。

こういう風に列記してみると、以上の五つのいずれにも入らない差引残、すなわち第六種の旧状保持者、というよりも次第に退化して、今なお山中を漂泊しつつあった者が、少なくともある時代までは、必ずいたわけだということが、推定せられるのであります。ところがこの第六種の状態にある山人の消息は、きわめて不確実であるとは申せ、つい最近になるまで各地独立して、ずいぶん数多く伝えられておりました。

それは隠者か仙人かであろう。いや妖怪か狒々ひひかまたは駄法螺だぼらかであろうと、勝手な批評をしても済むかも知れぬが、事例は今少しく実着でかつ数多く、またそのようにまでして否認をする必要もなかったのであります。(「山の人生」『柳田國男全集4』ちくま文庫)



⑲   この中で、最も謎めいて見えるのは、道筋「その四」である。おそらくこれは、柳田のいう「固有信仰」の問題と関連すると思われる。柳田が固有信仰について考えるようになったのは、山人説を引っ込めたあとである。しかし、それで山人説をあきらめたわけではなく、もともと山人の問題に含まれていた可能性の一つに論点を移しただけだといえる。それについては後述する。



⑳   柳田は「山人」が実在すると考えたが、それを実証することはできなかった。彼が見出したのは「山民」(山地民)だけである。そのため、彼は初期から唱えていた説を引っ込めるほかなかった。その後の柳田は、非農業民を無視し、もっぱら平地の農民を「常民」として扱うようになったと批判されている。また、日本人の民族的・文化的多数性を無視するようになったと批判されている。



21   このような見方に私は賛同できない。柳田は「山人」あるいは「やまにある古い日本」を放棄したわけではない。南方熊楠などの学者らに批判されて、渋々引っ込めただけである。柳田は初期にこう述べた。《現在の我々日本国民が、数多あまたの種族の混成だということは、実はまだ完全には立証せられたわけでもないようでありますが、私の研究はそれをすでに動かぬ通説となったものとして、すなわちこれを発足点と致します》(「山の人生」同前)。彼はこの「発足点」を一度も放棄しなかったといってよい。



22   柳田は一九三五年に「一国民俗学」を唱えた。しかし、それは(1)ナショナリズムを唱えることではなく、むしろその逆である。この時期、柳田の弟子を中心とする、民俗学の学者らが、日本の大陸侵攻に呼応するかのように、「比較民俗学」を唱え始めた。そこには、各民族文化の多様性を保持しながら統合するという「大東亜共栄圏」のイデオロギーがあった。それは国際性を掲げるナショナリズムにすぎない。柳田が急に「一国民俗学」を唱えるようになったのは、それに異議を唱えるためである。



23   赤坂憲雄は『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫)で、柳田が山人を否定することによって「一つの日本」を作ろうとしたと批判し、それに対して、日本文化の多様性を強調した民族学者の岡正雄の意見を持ってきた。岡の考えでは、日本民族・日本文化は、この列島に渡来してきた者によって複合的・重層的に形成された。《日本国有文化は、南中国、江南地域、インドネシア方面から渡来したいくつかの農耕民文化の分厚い地盤の上に、支配者文化が被覆してできあがった混合文化であるといってよい》(『岡正雄論文集異人その他』岩波文庫)。



24   しかし、岡正雄はそのような説を、柳田を批判するために立てたのではない。それは本来、柳田の「発足点」を受け継ぐ考えであった。だからこそ、彼は一九二五年、まだ二七歳の新進学徒であった時期に、柳田に抜擢されて雑誌『民族』を共同編集しえたのである。その後、岡はウィーンで学び、帰国後、国策機関である民族研究所を設立した。それは日本の戦時体制(大東亜共栄圏)に合致し、かつ、ナチズムとつながる「比較民族学」を広布するためであった。柳田はそれを拒否して「一国民俗学」を唱えたのである。



25   さらにいえば、戦時下に柳田が『先祖の話』の中で、「固有信仰」を強調したとき、それも好戦的・排外的ナショナリズムを意味するものではまったくなかった。その逆に、外地で戦死した若者たちは先祖(神)になれず、さまようほかない、ということを意味していたのだ。柳田にとって、靖国神社などは、明治の国家神道にもとづく虚構でしかなかった。要するに、柳田はこのような侵略戦争は固有信仰に反すると考えていたのである。



原無縁と原遊動性

26   私は柳田国男が「山人」に固執したことを強調した。通常は、そう考えられていない。むしろその逆に、柳田の学問は、常民=定住農耕民に準拠しているということで、批判されてきたのである。そのような批判を強めたものとして、一つには、網野善彦の史学がある。しかし、網野自身は柳田学を標的としたわけではなかった。むしろ、柳田が初期に開いた可能性を受け継ごうとしたといったほうがよい。



27   網野の学問は、講座派マルクス主義の中から生まれ、且つそれと格闘しつづけることによって形成されたものである。講座派の観点では、前近代の日本社会では、領主(武士)と農民という生産関係が主要であり、その他のことは副次的な派生物とみなされる。それに対して、網野が重視したのは、交通(交換)の次元である。彼は農業共同体の外にいた、芸能的漂泊民、漁撈民を評価した。そこに天皇制国家を越える鍵を見ようとしたのである。そして、そこから政治的・観念的上部構造をとらえなおした最初の仕事が、「中世における天皇支配権の一考察」(一九七二年)であった。



28   ここで網野は、「中世における天皇支配権」の基盤を非農業民に見ようとした。この新たな視点は以来、日本の歴史学を揺るがし活気づけた。同時に、それは常民=稲作農耕民の立場に立つと目された柳田民俗学への批判をもたらした。それはまた、つまり、脱領域性、多様性、遊動性を唱導する、この時期の「現代思想」――ドゥルーズ=ガタリがいう「ノマドロジー」に代表される――と共鳴するものでもあった。



29   だが、一九九〇年代、冷戦の終わりとグローバル資本主義の下で、状況が変わってきた。例えば、以前はラディカルにみえた「ノマドロジー」が、新自由主義に適合するイデオロギーと化したのである。今でも「ノマドの勧め」という類のビジネス本を見かける。最初は孤立していた網野史学が、学界を越えて広く社会的に受け入れられるようになったのも、こうした変化のためである。例えば、企業からも歓迎されるようになった。晩年の網野善彦がそれに深い違和を感じていたことは疑いない。



30   しかし、このような問題が生じた理由の一端は、遊動民あるいはノマドがすべて同一視されていることにある。英語でも、nomadoは遊牧民だけでなく各種遊動民を意味する(2)それらに共通点があることは確かである。しかし、重要なのはむしろ、それらの差異である。柳田国男が山人と山地民を区別したのは、そのためである。別の言い方でいえば、前者は定住以前のノマドであり、後者は定住以後に生まれたノマドである,遊牧民や芸能的漂泊民は、その意味で山地民に類似する。



31   このタイプのノマドは、現存する国家に対抗するとしても、国家それ自体を否定するものではない。むしろ新たな国家を作り出すだけである。例えば、網野は南北朝時代、後醍醐天皇が非農業民や″悪党″と結託することによって武家政権に対抗したことを重視した。が、このような遊動民(悪党)は暗黙裏に、国家とつながっている。ゆえに、たとえ現政権が打倒されても、べつの天皇制政権ができあがるだけである。したがって、ここに天皇制を揚棄する鍵を見出すことはできない。さらにいえば、このような遊動性・脱領域性によっては、資本主義に対抗することができない。なぜなら、資本こそそのような性質をもつからだ。



32   しかし、網野には、もう一つのタイプのノマドについての考えがあった。それは定住以前の遊動狩猟採集民にかかわる。彼は『無縁・公界・楽』(一九七八年)の最後で、それを「原無縁」という言葉で語っている。



さきに、最も未開な民族には、アジールが見出し難いといったが、人類の最も原始的な段階、野蛮の時代には、「無縁」の原理はなお潜在し、表面に現われない。自然にまだ全く圧倒され切っている人類の中には、まだ「無縁」「無主」も、「有縁」「有主」も未分化なのである。この状況は「原無縁」とでもいうほかあるまい。



33   さらに網野は、文明以前には「原無縁」としてあった無縁の原理が、国家成立後も脈々と続いていること、それが日本の「無縁・公界・楽」の根底にあること、また、西洋における自由・平等・友愛の思想の根底にあることを示唆している。さらに、本書は『共産党宣言』と似た、つぎのような予言で終わっている。



原始のかなたから生きつづけてきた、「無縁」、その世界の生命力は、まさしく「雑草」のように強靭であり、また「幼な子の魂」の如く、永遠である。「有主」の激しい大波に洗われ、瀕死の状況にたちいたったと思われても、それはまた青々とした芽ぶきをみせるのである。日本の人民生活に真に根ざした「無縁」の思想、「有主」の世界を克服し、吸収しつくしてやまぬ「無所有」の思想は、失うべきものは「有主」の鉄鎖しかもたない、現代の「無縁」の人々によって、そこから必ず創造されるであろう。



34   重要なのは、定住農民に依拠したと見なされる柳田国男が終生追求した「山人」こそ、まさに網野がいう「原無縁」に対応するということである。私自身はそれを、「原遊動性」と呼んでいるのだが、それは定住以後には失われ、また忘却されたものである。それについて実証的に語ることはできない。



35   現在残っている遊動民は、すでに定住したことのある人たちである。例えば、カラハリ砂漠のブッシュマンは、かつて定住したところを追われた人たちである。レヴィ=ストロースが書いているブラジルの遊動民(ナンビクワラ族)も、かつて定住していたことが判明している。つまり、今われわれが出会うのは、原遊動民ではない。彼らは一度定住したのち、山、砂漠、ジャングルのように、人が来ない厳しい環境に逃れた人たちである。本来の遊動民は、もっと恵まれた環境にいたはずだ。だから、現在の遊動的狩猟採集民と異なるのは当然である。



36   原遊動民について考えるためには、現存のさまざまな狩猟採集民の観察にもとづいて推測するほかないが、それには限界がある。したがって、柳田は最終的にそれを「固有信仰」の問題として語り、網野もまた、それをポエティックに語った。しかし、私は、原遊動民がいかなるものかを理論的に把握することは可能だと考える。マルクスは『資本論』の序文でこう述べた。「経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらなければならぬ」。原遊動性に関する考察に必要なのは、この「抽象力」である。次節でそれを論じよう。(柄谷行人『世界史の実験』(岩波書店、二〇一九年)より。原文に一部修正を加えたところがある)



柳田国男.jpg



(2)解答例




【設問1】



日本人が「山人」に代表される非農業民などの民族的・文化的多数性から構成されていると考えた「発足点」を柳田は一度も放棄しなかった。一方、柳田の弟子を中心とする民俗学の学者らが唱え始めた「比較民俗学」は各民族文化の多様性を保持しながら統合するという「大東亜共栄圏」のイデオロギーがあり、それは日本の戦時体制に合致し、かつ、ナチズムとつながる「比較民族学」を広布するためであった。こうした国際性を掲げるナショナリズムを柳田は拒否して「一国民俗学」を唱えた。さらに、侵略戦争は固有信仰に反すると考えており、「一国民俗学」は好戦的・排外的ナショナリズムを意味するものではなかったから。(283字)



【設問2】



柳田国男は定住以前のノマドである山人と定住以後に生まれたノマドである山地民を区別した。遊牧民や芸能的漂泊民は後者に類似し、これは国家に対抗するがそれ自体を否定するものではなくむしろ新たな国家を作り出す。前者のノマドは網野善彦のいう「原無縁」にあたり、これは「無縁」「無主」と「有縁」「有主」が未分化な人類の最も原始的な段階の状況である。柳田国男が終生追求した「山人」こそ「原無縁」、筆者のいう「原遊動性」に対応し、それは定住以後には失われ、忘却され、実証的に語ることはできないが、この原理が国家成立後も脈々と続いており、これは西洋における自由・平等・友愛の思想の根底にあることを示唆しているから。(296字)



【設問3】【設問4】省略



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