2ちゃんねるを作ったことで主に知られるひろゆきさん、論破王との異名もなんだか浸透してきましたね。
ひろゆきさん自身「論破しているつもりはない」とよく言っていますが、優越感からそう言っているわけではなく、もちろん本心からの言葉だと思います。
というのも、彼が人気を博しているその論法は、ディベートだからです。
どういうことか説明していきますね。
日本でディベートというと、証拠や論理を用いて「自分の意見を主張する」ものだと誤解している人がよくいます。
しかし本来は、事実に基づき論理を組み立てて、「立場の正当性を主張する」ものです。
1番わかりやすい例は、裁判です。
検察「被告はこのようなことをやって、法律ではこうなっていて、だから有罪。」
弁護側「前例にはこのようなものがあり、その時の解釈はこのように行われたため、無罪である。」
これがディベートの形です。
検察「万引きされまくってみんな鬱陶しいと感じてるから死刑!」
弁護側「でもめっちゃ責められて可哀想だし、超泣いてるから反省してる証拠でしょ?無罪!」
こんな裁判、嫌ですよね。笑
極端な例ではありましたが、ディベートとは、意見交換の場ではなく、事実に基づいて論じるものだということです。
実際、ひろゆきさんも自分の感想を交えることはありませんよね。
「なんかデータあるんすか?」「それってあなたの感想ですよね?」
こんな名言(?)たちは、ひろゆきさんがディベートスタンスであるから生まれたものだと言っていいでしょう。
ディベートは、ひとつの物事に対して立場をとって、その正当性を事実に基づいて主張するものです。ひろゆきさんはそれを行なっているだけなのです。
なのにも関わらず、
論破王、などとあだ名がついてしまう。
これは、日本にディベートの感覚、つまりは、事実のみをもとに話し合う感覚が、あまりに少なすぎることを象徴しています。
仮に日本がディベート大国だったなら、論破王ではなく、多くの有意義なディベートを行うという意味で、「議論王」とかになるんじゃないかなと思います。
何故このような話をしたかというと、
日本人は感想や、個人の意見をベースに物事を考えたり、話すことが多い、ということをお伝えしたかったのです。
そして、
それは大きなストレスを生むのです。
何故かというと、話し合いのベースとなる部分が確定的でなく、多様解釈が可能になると、当然そのあとの話し合いも解釈が多様になることができてしまい、決定打をいつまでも生まないのです。
話し合いがなかなか解決せず、「うーん、どっちも正しい」みたいな曖昧な状態が続いた経験は、多くの人にあるのではないでしょうか。
もしかしたらしばらく時間が経って、あれは根本的におかしかったね、なんて話になったこともあるかもしれません。
そう、根本がおかしいと余計な話し合いをしなきゃいけないし、決まらないのでストレスになるのです。
これはなにも、議論のような場だけの話ではありません。
友達と何かを話す時にもそうですし、自分一人で物事を考える時にもそうです。
まじめに話す時は、感想ベースだと、ストレスがたまります。IQも低いままです。
論理的に考えているつもりでも、根本が間違っていたり、浅いと、ただのエゴイストになってしまったりします。
感想ベースの人は事実把握能力が低い場合があるので、話の流れと微妙に違う話をしてしまうこともあります。(ちなみに現代医療では、このクセを利用して精神疾患のように扱ったりもします)
よって、悩んだときや、苦しいと感じる時、まじめなシーン、決断しなくてはならない時などには、「思考のベースとなる部分は、ふわふわではないかな?」ということを念頭に組み立ててあげると、解決しやすくなったり、気持ちが楽になったりします。
以上のようなことが常にできるだけで、常に感想だけで生きている人よりかなり生きるのが楽になります。
ちなみに感想ばかりで考えてしまうというのは、脳のイメージである情報空間のみが活発に働いているからであり、現実に起きている物理空間の現象をありのままに捉えられないということです。
物理空間の現象をありのまま受け入れることが出来るとラクになっていき、それだけ考えられるようになることを仏教用語では解脱と言います。
なので、瞑想は悟りを開き解脱するためのものなので、ラクに生活を送るにはかなりおすすめです。