「現実は自分が作っている」ってまるで“結果”のように語られますけど、その現実を受けた「その時こうしたいと言う“行動”こそがしたい事」なんじゃないのか?と思うんですよね。
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で、その行動によってまた次の現実が作られるのです。
だから永遠に「今」と言うか。
目の前に作られた現実ですら通過点でしかないのです。
成長の観点からは、「螺旋階段を上り続ける」とよく例えられます
つまりその現実は過去の結果であり、未来の始まりなのです。
そこで立ち止まるものではないのです。
その時、
「そこで何かの行動に移す“それこそがしたい”ために、その現実が作られた」
のではないか? とそうも思うのです。
で、その時、実は「No」と言いたいのにあいまいにして「Yes」と言ったらまた似たような出来事が起こる。
だって、本当は「“No”と言いたいと言う行動」が本心だったら、Yesと言ってしまったら先には進まないはずです。
次のページには行けない。とでも言うか。
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「その時“No or Yesと言いたい”本心のためにその現実が作られた」のであれば、目の前に作られた現実を「結果として受け入れましょう」だけでは説明がつかないような気がするのです。
その時己がどうしたいか。
どうするのか。
「これがしたいと言う経験がそこにある」
その「行動」のために現実が作られるのではないでしょうか?