#26 托鉢(たくはつ)

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占い師 導与です。
今日は運気を呼込む方法の一つ「 托鉢 」について。



托鉢

現代でも地域によっては托鉢をする僧侶と出会うことが珍しくないところもあるが、大多数の方にとっては、托鉢をする僧侶と出会う機会などほとんど存在しないのではないかと思います。

偶然に托鉢中の僧侶と出会うことがあっても、
見慣れていないがためにどうすればいいのかわからないとの戸惑いが多いのでは・・・
京都へを旅行へ行くと見れるかも?
托鉢をする僧侶と出会ったら、不思議に思いすれ違うことだろう。

あれは、修行をしているのだろうか?
托鉢というものだろうか?
近寄ると危なかったりするのだろうか?
手に持っているお椀のようなものにお金を入れるのだろうか?
いくらくらいが相場なのだろうか?

などなど、いろいろな疑問が頭をよぎったり、瞬時にそれらの解答を得ることなどできるはずもなく、「わからないものには手をださない」という防衛反応によって、ただすれ違って終わるのでは?

托鉢僧
ちなみに托鉢をする際は、頭に網代笠(あじろがさ)、足に脚絆(きゃはん)、手に頭鉢(ずはつ)と鈴(れい)を持っている。
そして衣を腰のあたりでたくし上げ、歩きやすいように裾を上げている。

托鉢とは何か
そこで、世間一般から見れば謎の行為にも見える托鉢について、要点を簡単にまとめてみたい。
そもそも托鉢とは、僧侶が鉢(お椀のようなもの)を手に持って外を回り、金銭や食料などをいただく行為をいう。


そしてその目的は、大きく2つある。
1つは、いただいたものを生活の糧にすること。
いただいたお金やお米などを、寺院管理や食材などに充てるのである。
おそらく、托鉢の目的と言えばほとんどの方がこの理由を思い浮かべるのではないか。
むしろこれ以外に理由があるのかと訝るかもしれない。

しかしじつはもう1つ、とても大きな目的があるのだ。
それが、善行・修行としての意味合いである。

 托鉢の目的は大きく2つある
 1.生活の糧をいただくこと
 2.善行・修行のため

施す側にとっての修行(ここ重要)
托鉢は修行だとされているが、その真意を知る人は少ない。
僧侶にとって修行であるという認識は間違いではないのだが、逆に施しをする側、つまりお布施(お金等)を出す側にも、修行という意味合いが生じる行為なのである。

どういうことか。
托鉢の2つ目の目的、善行・修行というのは、要するに僧侶に施しをすることで功徳を積むということなのである。

布施とは僧侶のためであると同時に施主のための行為でもあるのだ。
布施という「与える行為」をするためには、相手が必要となる。
その相手役となるために、僧侶は托鉢をしているという側面も、じつはあるのである。
そうなの!? と驚くような理由であるが、これが托鉢をするもう1つの大きな理由にほかならない。

 托鉢は僧侶と施主、両者にとって修行となる行為
お礼の問題と喜捨

托鉢中の僧侶は、お布施をいただいても「ありがとうございます」というようなお礼を言わないことが少なくない。
なぜかと言えば、お礼を言ってしまうと、まるで自分(僧侶)のための行為に限定するような意味合いとなってしまうことを危惧しているからである。

布施をする方が、自身の修行の一環として布施行、喜捨行をしているというのが、布施の認識の一側面としてある。

したがって、それは僧侶を利する行為であるとともに、自分を利する行為でもあるというのが、布施というものを俯瞰した際の認識となっている。

現代日本で行われている托鉢は、僧侶の修行としての意味合いや、寺院を維持するための収入という側面が大きいのは事実。
そうした意味での托鉢だってもちろん間違いではないのだが、一般の方が布施行をするため(徳を積んでいただくため)の手伝いと考えることも、布施の一側面であることを忘れてはいけないと、僧侶は思っているというわけだ。

もし「ありがとうございます」と僧侶がお礼を述べた場合、布施を修行として行っている施主にしてみれば、自分は布施行をしているのであってお礼を言われる筋合いはない、とまで考えるかもしれない。
布施は喜捨とも呼ばれるが、喜んで捨てるとは、執着を捨てるということである。

執着のなくなったものは清浄なものであり、それを施すのが布施行である。
いただいたことに対してお礼を述べるよりも、清浄な行為に対して互いに礼拝し合うようなほうが、布施の在り方としては相応しいのかもしれない。
 僧侶がお礼を言わないことが多いのは、いただくことがメインではなく、捨てることがメインの行為だから

お礼の在り方
たまに、
「せっかくお金を出したのに何の礼もなくて腹が立った」
というような、布施をした際の思いを聞くこともあるのが、それには上記のような事情が関与している。

理解していただくのはなかなか難しいかもしれない。
しかし、僧侶はそのようなインド由来の独特な意味合いの上で托鉢を行っていることを、ちょっと頭の片隅にでも記憶しておいてもらえるいいのではないでしょうか。

ただし、このような特殊な考え方をする布施という概念そのものが、日本にはまったく根付いていない。
意味を理解されていない土地で本意を押し通そうとしても、それは誤解を生むだけになりかねない。

そのような現実を考慮して、現在ではあえてお礼を言う僧侶も大勢いる。
はっきり、「ありがとうございます」と。
あるいは声に出してお礼を言わずとも、無言で頭を下げることでお礼とする僧もいる。
それはそれで日本の托鉢文化として理解すればいいので、一向にかまわないと思う。
また、けっこう多いのが「施財の偈(せざいのげ)」という非常に短いお経を唱えて、礼とするパターンである。

お布施をいただいたら「施財の偈」を唱えて、軽く頭を下げて再び歩きはじめる。
施しをした人にとっては、何が行われてどのような意味があったのか不明で終わる可能性は高い。

托鉢の方法
それで、僧侶の托鉢の仕方にはいくつかの方法がある。

街角や寺院の前などで微動だにせず立ち続ける方法。
一軒一軒お宅の玄関の前に立つ方法。
ひたすら歩き続ける方法。

布施の仕方
具体的に、お金などをどうやって施すかであるが、どういった場合であっても施しの仕方は同じで、僧侶が手に持っている鉢の中に、施す物を入れていただくだけで大丈夫。
現代では施される物のほとんどは金銭であるが、もちろん金額に決まりはない。
お賽銭を入れるときのように考えていただければ何も問題はない。
施しをすると、僧侶は手に持っている鈴(れい)をチリリンと鳴らす。
ただこのあたりは宗派や人によって考え方にだいぶ差異があるようなので、一概には規定できない。

その時、その僧侶の行う作法に数秒、お付き合いをいただきたい。
仮に何の反応もしない僧侶がいたとしても、できれば怒りの気持ちは抱かないでいただきたい。

せっかくの尊い布施が、布施でなくなってしまうから……。
前述したように布施という概念は少々特殊で、施主(施しをする側)が功徳を積むためという考え方も存在するため、何も言わない僧侶がいたとしても、それは傲慢な態度とはちょっと違うのだ。
 お椀のようなもの(鉢)のなかに金銭等を入れていただけるとありがたい
施財の偈
施しをいただいた後に唱える「施財の偈」というものについて、最後に述べておきたい。
「施財の偈」とは、次の短い偈文である。
財法二施(ざいほうにせ)
功徳無量(くどくむりょう)
檀波羅蜜(だんばらみつ)
具足円満(ぐそくえんまん)
乃至法界(ないしほっかい)
平等利益(びょうどうりやく)
これを現代語に訳せば、だいたい次のような意味となる。

「物を施したり教えを施したりすることは、はかり知れない功徳を生む。
そのような尊い行為をする者には、満ち足りた想いが宿るでしょう。
そして施しによって生まれた功徳は、世界をよりよいものへと変化させていく」
この「施財の偈」の内容も、まさに布施の本質を説いている。
こうした言葉を、托鉢僧は最後に唱えている。
意味が伝わらないかもしれないとは思いつつも、それでもこれを唱える。
小さな男の子から施しをいただいた時にも、やはりこの偈文を唱えた。
意味はわからなくても、何かが伝わればいいと思った。
自分の大切なものを人に分け与える行為は、本当に尊いものだ。
それは大袈裟ではなく、本当に世界を変えていく力の源になると思っている。
(お坊さん体験から引用)




いくら自分が貧乏でも、何らかの物をお布施した後の気持ちは清々しい心になり、波動、運氣を上げますからね、
言霊と同じ波動が・・・

でも、寄付した事を人に話すと効果は無くなりますからご注意ください。
密かに心の中でニヤニヤしてください、このニヤニヤは効果を上げます。




ある有名人芸人(話しながらよくつばを飛ばす人関西出身)も
寄付を良くしておられます。
あれだけおしゃべりするのに自分の口から一切言いません、
それは口に出すと効果が出ないからです。
私はマネジャーからの情報で聴きました。
「不思議と次々と仕事が入ってくるんです、不思議なくらいに・・・」と話されていました。

寄付は徳積とよく言いますから。

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