何も話していないのに。 さっきまで胸の中にあったざわざわが、少しずつ静かになっていく。

何も話していないのに。 さっきまで胸の中にあったざわざわが、少しずつ静かになっていく。

記事
コラム

胸の奥で、何かがゆっくりと、
確実に、名前を持とうとしていた。

一時間目が始まった。

先生の声。

黒板を走るチョークの音。

ページをめくる音。

いつもと変わらない教室。

凪はノートを取りながら、何度か陽菜のほうを見そうになった。

そのたびに、慌てて黒板へ視線を戻す。

(集中しなきゃ。)

そう思えば思うほど、意識してしまう。

昨日まで、こんなことなかったのに。

いや。本当は、少し前からあったのかもしれない。
ただ、自分が気づかないふりをしていただけで。


休み時間になった。

凪が次の授業の教科書を出していると、教室の後ろから笑い声が聞こえた。

陽菜だった。

クラスメイトの美咲と話している。

「それ絶対似合うって。」

「ほんと?」

「うん。陽菜なら似合うよ。」

何の話だろう。

凪は教科書を開いたまま、耳だけをそちらへ向けていた。

「じゃあ今度、一緒に見に行こうよ。」

美咲が言う。

「いいよ。」

陽菜が笑う。

その瞬間。

胸の奥が、ちくりとした。
ほんの小さな痛み。

痛いと言うほどでもない。

でも、確かに何かが引っかかった。

(……何?)

凪は教科書へ視線を落とす。

美咲と陽菜が出かける。

友達なんだから当たり前だ。

陽菜には、凪以外にも友達がいる。

そんなこと、最初から分かっている。

なのに。
「今度、一緒に。」

その言葉だけが、妙に耳に残った。

昨日。
陽菜のおばあちゃんの家から帰る途中。

「凪も、また来る?」と聞いた。

秋になったら、また一緒に行こうと話した。
それがうれしかった。

自分だけが知っている未来みたいで。

でも、もちろん、そんなわけはない。

陽菜には陽菜の時間がある。

凪の知らない陽菜もいる。

そう考えた瞬間。
胸の中に、名前の分からない感情が広がった。

寂しい?
違う。

不安?
少し違う。

じゃあ――。

「凪。」

びくっとして顔を上げる。

悠真が立っていた。

「消しゴム貸して。」

「あ……うん。」

筆箱から消しゴムを出して渡す。

「ありがとう。」

悠真は笑って、自分の席へ戻っていく。

以前なら、
その笑顔だけで、胸がいっぱいになっていたはずだった。

なのに今は・・・。
凪の耳には、まだ陽菜の笑い声が残っていた。

自分でも、そのことが信じられなかった。

昼休み。
凪は一人で廊下を歩いていた。

窓から夏の日差しが差し込んでいる。

さっきの気持ちが、まだ消えていない。

陽菜が誰と出かけたって自由なのに。

美咲だって友達なのに。

どうして素直に何とも思えないんだろう。

また自分を責めそうになって――
凪は立ち止まった。

ふと、おばあちゃんの声を思い出した。

「最初から百点じゃなくていいんだよ。」

そして、陽菜の言葉も。

「誰かのことを考える前に、自分のことも大事にして。」

凪は窓の外を見る。
青い空。

校庭の木が風に揺れている。

少し考える。
答えは出ない。

でも、今日は、答えを決めるのをやめた。

……分からない。
それだけにした。

分からないものを、
無理に悪いものにしなくてもいい。

今はただ。
自分の中に、こんな気持ちがある。

それだけ。

「凪?」

後ろから声がした。

振り返る。

陽菜だった。

「こんなところで何してるの?」

「……ちょっと。」

「ちょっと?」

「考えごと。」

陽菜は凪の隣まで来た。

「そっか。」

それ以上、聞かなかった。

二人で窓の外を見る。

沈黙。

以前の凪なら、きっと焦った。

何か話さなきゃ。

つまらないと思われる。

変な空気にしたくない。

そう思って、どうでもいい話を探したはずだった。

でも今日は、黙っていた。

陽菜も黙っている。

風で木の葉が揺れる。

遠くから運動部の声が聞こえる。

不思議だった。

何も話していないのに。
さっきまで胸の中にあったざわざわが、少しずつ静かになっていく。

「ねえ、陽菜。」
凪が言う。

「うん?」

聞きたいことがあった。

美咲と、どこへ行くの?

いつ行くの?

二人だけ?

いくつもの質問が浮かんだ。

でも、どれも口にできなかった。

「……やっぱり、なんでもない。」

陽菜は少しだけ凪を見つめた。

そして笑った。

「分かった。」

それだけだった。

答えを急がさない。
言葉を引き出そうともしない。

ただ、隣にいる。

だからなのだろうか。
凪は陽菜の隣にいると、
自分でもまだ分からない自分のことまで、
そのまま置いておける気がした。

チャイムが鳴る。

「戻ろっか。」

「うん。」

二人は並んで歩き始める。

教室へ戻る途中。

陽菜が何気なく言った。

「そうだ。」

「なに?」

「さっき美咲と話してたんだけど。」

凪の胸が、また小さく動く。

「駅前に新しい雑貨屋さんできたんだって。」

「……うん。」

「今度見に行こうって話してた。」

「そっか。」

ちゃんと笑えているだろうか。

そんなことを考えた、そのとき。

陽菜が続けた。

「凪も行かない?」

足が止まりそうになった。

「……私?」

「うん。」

「凪、こういうの好きそうだなって思って。」

陽菜は何でもないことのように言った。

「嫌だったら全然いいけど。」

「行く。」

思ったより早く、言葉が出た。

陽菜が少し驚く。

凪自身も驚いた。

今度は言い直さなかった。

理由もつけなかった。

「行きたい。」

もう一度、ちゃんと言った。

陽菜が笑う。

「じゃあ決まり。」

凪も笑った。

さっきまでの胸の痛みが、嘘みたいに軽くなっていく。

そのことに気づいて、
今度は、別の意味で戸惑った。

陽菜が誰かと出かけると聞いて、苦しくなった。

自分も一緒だと分かって、うれしくなった。

こんな気持ちを、凪はまだ知らなかった。

いや、もしかしたら――
知っているのかもしれない。

ただ、その名前を口にする勇気が、
まだないだけで。

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