でも、今日は終わらせたくなかった。

でも、今日は終わらせたくなかった。

記事
コラム
どうして私は、陽菜の好きな人が、こんなに気になるんだろう。

カフェを出た頃には、空が少しだけ夕方の色になっていた。

三人で駅まで歩く。

美咲は今日買った小さなポーチを何度も袋から出しては、
「やっぱりかわいい。」とうれしそうに眺めている。

陽菜が笑う。

「さっきから何回見てるの。」

「いいじゃん。気に入ったんだから。」

「なくさないでよ。」

「陽菜、お母さんみたい。」

「誰がお母さん。」

二人が笑う。

凪も笑った。

でも、心のどこかには、
ずっと同じ言葉が引っかかっていた。

「好きな人。」
陽菜の好きな人。

「じゃあ、私こっちだから。」
駅前の交差点で、美咲が立ち止まった。

「今日はありがと。またね。」

「うん、また学校で。」

陽菜が手を振る。

凪も、「またね。」と手を振った。

美咲の姿が人混みの向こうへ消えていく。

そして、二人になった。

急に静かになった気がした。

さっきまで三人で話していたのに。

陽菜と二人になった途端、
周囲の音だけが遠くなったように感じる。

「楽しかったね。」

陽菜が言う。

「うん。」

「凪、ノート買えばよかったのに。」

「あの青いやつ?」

「うん。」

「ちょっと迷った。」

「やっぱり。」

陽菜が笑う。

「凪っぽかったもん。」

また、その言葉。

凪っぽい。

自分でも知らない自分を、
陽菜は知っているような気がする。

「今度、まだあったら買おうかな。」

「じゃあ、また見に行こう。」

「……うん。」

「また」その言葉がうれしい。

でも今日は、それだけでは終われなかった。

二人は駅へ向かって歩く。

凪は何度も口を開きかけた。

そして閉じる。

聞こうかな。

やめようかな。

聞きたい。

でも、聞いたら――。

「凪。」

「え?」

「さっきから静かだね。」

「……そう?」

「うん。」

陽菜が凪の顔を見る。

「疲れた?」

「違う。」

今日は、その言葉がすぐに出た。

「じゃあ、どうしたの?」

凪は黙った。

ここで「なんでもない」と言えばいい。
いつものように。

そうすれば、この話は終わる。

でも、今日は終わらせたくなかった。

凪は小さく息を吸った。

「陽菜。」

「うん。」

「さっきの……。」

「さっき?」

「カフェで美咲が聞いてたこと。」

陽菜が少し考える。

「ああ。」

凪の心臓が速くなる。

「好きな人の話?」

陽菜が普通に言った。

その言葉だけで、また胸が苦しくなる。

「……うん。」

信号が赤になった。

二人は横断歩道の前で立ち止まる。

車が目の前を流れていく。

凪は信号を見たまま言った。

「いるの?」

陽菜が凪を見る。

「好きな人?」

「……うん。」

聞いてしまった。
もう戻せない。

数秒。
陽菜は答えなかった。

その沈黙が、
凪にはものすごく長く感じられた。

知りたい。

でも、名前は聞きたくない。

もし、知らない誰かの名前が出てきたら。

もし、知っている誰かだったら。

もし――悠真だったら。

そこまで考えた瞬間、胸の奥が強く痛んだ。

(……嫌だ。)

その感情だけは、驚くほどはっきりしていた。

陽菜が悠真を好きだったら。

嫌だ。

どうして?分からない。

でも嫌だった。

「いるって言ったら?」
陽菜が静かに聞いた。

凪は顔を上げた。

「え?」

陽菜は少し笑っている。

でも、いつもの笑顔とは少し違う。

凪には、その意味が分からなかった。

「凪は、どうする?」

「どうするって……。」

答えられない。

何を聞かれているのだろう。

「別に……。」

そう言いかける。
そう答えればいい。

でも、言えなかった。

だって、別に、ではないから。

「……分からない。」

やっと出てきたのは、その言葉だった。

陽菜はしばらく凪を見ていた。

そして。
「そっか。」

それ以上、何も言わなかった。

信号が青になる。

二人は歩き始める。

答えてくれなかった。

なのに、
凪はもう一度聞くことができなかった。

聞きたいのに。
聞きたくない。

その矛盾を抱えたまま、二人は横断歩道を渡る。

向こう側へ着いたところで、陽菜がぽつりと言った。

「私もね。」

「え?」

「分からないこと、あるよ。」

陽菜は前を向いていた。

「自分の気持ちなのに。」

「分からないことってあるんだね。」

凪は陽菜を見る。

聞き返したかった。

何が分からないの?

誰のこと?

陽菜の横顔を見ていたら、なぜか聞けなかった。

少しだけ寂しそうで。
少しだけ照れているようにも見えた。

「でも。」

陽菜が続ける。
「分からないままでも、いいかなって最近思う。」

その言葉に、凪はおばあちゃんの畑を思い出した。

まだ早い枝豆。

無理に採らず、一番いいときを待つ。

「……うん。」

凪は小さく答えた。

「私も。」

また沈黙が訪れる。

でも、以前とは違う。

この沈黙の中には、
言えなかった言葉がたくさんある。

凪の言葉。

陽菜の言葉。

まだ形にならない気持ち。

二人の間で、それらが静かに育っている。

やがて駅が見えてきた。

凪は歩きながら、一つだけ気づいていた。

陽菜の好きな人を知りたい。

でも、他の誰かの名前は聞きたくない。

その二つが同時に存在する理由を、凪はまだ説明できない。

ただ、胸の奥で、ずっと名前を持てずにいた感情が、
もう、答えのすぐそばまで来ていた。

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