放課後の教室には、まだ午後の光が残っていた。
窓際の席で、柚(ゆず)はノートを開いたまま、
鉛筆の先をじっと見つめている。
「……どうして、
こんなに胸がざわざわするんだろう。」
今日もクラスの話題についていけなかった。
みんなが笑っている輪の中で、
ただ笑顔を作ることに必死だった。
突然、涙が出そうになるときがある。
――自分でも、理由がわからない。
そんなときだった。
ピアノの音が静かに流れ始めた。
新が練習している。
柚は思わずその音に耳を傾けた。
音の一粒一粒が、
心の奥のざわめきを撫でるようだった。
気づけばノートを閉じて、
そっと音楽室へ足を運んでいた。
「……また来たの?」
新が振り返って、少しだけ笑う。
「ごめんなさい、邪魔?」
「いや。なんか、来ると思ってた。」
淡い夕日が新の横顔を照らす。
柚はピアノの隣の椅子に座り、
ポツリとつぶやいた。
「……自分の気持ちが、よくわからないの。」
「うん。」
「悲しいのか、寂しいのか、悔しいのか。
どれも少しずつ混ざってて……
ただ、苦しいの……。」
新は鍵盤の上に手を置いたまま、少し考えてから言った。
「じゃあ、“心の実況中継”やってみようか。」
「……実況中継?」
「うん。今、自分が感じてることを、頭で整理するんじゃなくて、
そのまま“声”にしてみる。
たとえば、“今、胸が苦しい”とか、“涙が出そう”とか。
心がどんな表情をしてるかを、そのまま実況してみるんだ。」
柚は少し戸惑いながらも、目を閉じた。
「……胸が、ぎゅってしてる。
泣きたいような、
でも泣いたら負けみたいな気がしてる。」
「うん、いいね。ほかには?」
「手が冷たい。
誰かに“がんばったね”って言ってもらいたいのに、
それを言わせたらダメな気がしてる……。」
新は静かに頷き、短く音を鳴らした。
まるで、柚の言葉に伴奏をつけるように。
「それが、“心の実況中継”。
頭じゃなくて、感じてることをそのまま言葉にする。
そうするとね、感情が少しずつ“形”になって、
心の奥で暴れてたものが落ち着いてくるんだ。」
柚は深呼吸をした。
胸の奥で、ほんの少し空気が流れ始めたような気がした。
「……なんか、少し軽くなった。」
「でしょ。心って、
話を聴いてほしいだけのときが多いんだよ。」
新の声が、まるで夕暮れの風みたいにやさしく響く。
帰り道、柚は空を見上げた。
西の空がオレンジ色に染まっている。
さっきまで重かった胸の中に、
少しだけ“静けさ”が宿っていた。
(心って、ちゃんと聴いてあげると、泣き止むんだ……)
柚はそっと、ノートを開いて書いた。
今日の心の実況中継
・胸がぎゅっとしていた
・誰かに「がんばったね」って言ってほしかった
・少し泣きそうだったけど、今は空がきれいだと思える
ページの端に、小さな音符を描きながら、
柚は思った。
“今日の私は、ちゃんと生きてた”って。
その夜、ピアノの音が頭の中で何度もリピートした。
あの音はたぶん、
心の奥で泣いていた自分に
「もう大丈夫」と言ってくれたのだと思う。
「心の実況中継」――
それは、心を否定せずに見つめる勇気。
「新、ありがとう」