「こうあるべき」「こうすべき」など、社会で生きていく上で私たちが自然と縛られてしまっているものってありますよね。
年を重ねれば重ねるほど、その縛りがきつくなっているような気さえします。
そして、いつしか「こうあるべき」「こうすべき」にとらわれていることすら気づかない自分がいたりします。
本来全然違う個性を持った人々が互いに理解しあい共存することはほぼ不可能に近いと思います。
だからこそ、「こうあるべき」「こうすべき」という一定の不文律を持ってある意味強制的に統制を図ることは、ある程度価値のあることかもしれません。
しかし、「個性を伸ばす」という意味では「こうあるべき」「こうすべき」という縛りは、出来る限り排除できた方が望ましいと思いますし、同じように感じている方は多いのではないでしょうか?
ただ、実際にその呪縛から逃れようとすると本当に難しいことに気付きます。一度その呪縛から逃れられれば一気に「突き抜けられる」のに、なかなかそうはいかなくて悩んでしまっている方は多いですよね。
では、そもそも、そういった呪縛はどこからやってきたのでしょうか?
私は、学校教育が大きな原因になっているように思います。
私自身「学校の勉強は全然役に立たなかった」という愚痴を聞くことはよくあるのですが、社会で生きているほとんどの人が学校教育の影響を強く受けているように感じます。
例えば、「授業中は静かにする」「先生の教えを受けて学ぶ」「暗記中心」「考えることは大事」などなど、体に染みついた習慣に心当たりはありませんか?
また「嫌々でもやらないといけないことはやる」ということが良いことだと感じたりしていませんか?
こうした指導が完全に間違っているとは思いませんが、個々人の個性を度外視した画一的な教育によって「こうすべき」「こうあるべき」の呪縛を生み出してしまっているように思います。
そして、いざ社会に出ると「悩み」の原因になっていることが少なくありません。
例えば「授業中は静かにする」というのは、人の話を聞く姿勢の基本だと思いますが、「静かにしていればいい」「聞いていればいい」と理解されていたりします(「わきまえる」という表現をする人もいるかもしれませんね・・・)。
しかし、伸びる人というのは、「能動的に」人の話を聞く能力が高いと思います。
人の話を聞くことよりも、得た情報で自分が話をすることや自分の思考を深めることに重きを置いている人がこれにあたります。
「先生の教えを受けて学ぶ」ということも同様です。
教えてもらうことが当たり前になっていると、自ら学びを深めることが習慣になりにくいのです。
伸びる人は、教えなくても勝手に成長していることがあります。
1教えたら次会った時5や10の理解に到達していて感動すら覚える時があります。
「暗記中心」もそうですね。
学校の定期試験はかなりの割合で授業でやったことを覚えてさえいれば点数が取れたと思います。
しかし、レベルが高い課題になればなるほど暗記だけでは太刀打ちできなくなります。
学校で教わったやり方ではうまくいかない。
でも、上手くいかなくなったとき、助けてくれる人はいない。
そんな状態が悩みの種になっていませんか?