三島由紀夫が鶴田浩二について執筆した評論の正式タイトルは、
『鶴田浩二論――「総長賭博」と
「飛車角と吉良常」のなかの』です。
雑誌『映画芸術』1969年(昭和44年)3月号に掲載されました。
この評論は、当時「B級の娯楽映画」として一段低く見られがちだった東映ヤクザ映画(任侠映画)の芸術性を、
三島の一流のレトリックによって文学の域まで高め、
世間に「任侠映画が持つ真の美学」を知らしめた歴史的名著です。
三島がこの評論の中で展開した核心的な論点は以下の通りです。
1. 映画館への道中と「名画」との確信
三島は、小雨の降る月曜日の夜にわざわざ阿佐ヶ谷の古ぼけた映画館まで足を運び、
映画『博奕打ち 総長賭博』を鑑賞しました。
そこで受けた衝撃を、以下のように綴っています。
* 「これは何の誇張もなしに『名画』だと思った」
* セリフの端々に至るまで洗練されており、
物語の外の世界(現実社会)への絶対的な無関心が保たれているからこそ、
観客の心にあらゆる比喩や共感を許すのだと絶賛しました。
2. 鶴田浩二が演じる「困惑の男性美」
三島は、鶴田浩二が持つ独特の哀愁や諦念を含んだ表情を分析し、
それを「困惑の男性美」と名付けました。
* しがらみ(宿命)の抽出:
鶴田が演じる主人公は、自由奔放に生きる男ではありません。
社会や組織、義理人情といった
「幾重にも矛盾してのしかかる“しがらみ”」の基本原理に則って生きています。
* 正義の否定:
鶴田の演じる殺人は「いつも悲しみであり、
必然性と不可避性は、つねに『人にわかりやすい正義』に反することになる」と指摘。
彼は分かりやすい正義のための戦争ができない男であり、
だからこそ「その困惑においてだけ、彼は『男』になるのである。
それこそはヤクザの世界であった」と、
組織の論理に引き裂かれる男の美しさを表現しました。
3. 三島自身の思想への結びつき(武士道と任侠道)
三島はこの評論を通じて、任侠映画を単なる娯楽としてではなく、
自身が理想とする「美しく生き、美しく死ぬ」という武士道の行動哲学の現代的な現れとして捉えていました。
* 高度経済成長に沸き、
戦後の平和ボケや偽善にまみれた当時の日本社会に対し、
映画の中の鶴田浩二が見せる「男の我慢の美しさ」や「愚直に掟に殉じる姿」こそが、
失われた日本人の美徳(節義)であるとみなしたのです。