何もできない自分を責める日々
初めてオンラインでつながった画面の向こうで、彼は少し疲れたような表情を浮かべていた。
「今日は、よろしくお願いします」
丁寧な挨拶の後、彼は、少し言葉を選ぶように話し始めた。
ケンジ「実は...数ヶ月前に会社を辞めて、今は実家にいるんです。毎日、転職活動とか資格の勉強とかやってるんですけど...なんていうか、全然進んでる感じがしなくて」
ダイキ「進んでる感じがしない、というのは?」
ケンジ「朝起きても、なかなかやる気が出なくて。気づいたら昼過ぎてたり。それで、夜になって『今日も何もできなかった』って思うんです。焦るんですけど、次の日も同じで...」
彼の声には、自分を責めるような響きがあった。
ダイキ「毎日、そういう気持ちになってるんですね」
ケンジ「はい。親にも『大丈夫なの?』って心配されて。自分でも、このままじゃダメだって分かってるんですけど、なんか...動けないんです」
少し沈黙が流れた。ケンジさんは視線を少し下げて、何か言いたそうにしていた。
ダイキ「動けない、というのは、具体的にはどんな感じですか?」
ケンジ「...朝、目は覚めるんですけど、体が重くて。ベッドから出るのに1時間くらいかかったり。やっと起きても、何から手をつけていいか分からなくて、結局スマホ見てる時間が長くなっちゃって」
ダイキ「なるほど。起きてから、動き出すまでに時間がかかるんですね」
ケンジ「そうなんです。でも、これって甘えですよね。普通の人は、こんなことないはずで...」
彼の言葉には、強い自己否定が滲んでいた。
「普通」という基準
ダイキ「ケンジさん、『普通の人』っていうのは、どんな人のことを言ってますか?」
ケンジ「え...? 普通、って...朝ちゃんと起きて、やるべきことをちゃんとやれる人、です」
ダイキ「ちゃんと、というのは?」
ケンジ「...毎日、決めたことをきちんと実行できる、とか。計画通りに進められる、とか」
ダイキ「ケンジさんは、会社員の時は、そういうことができていましたか?」
ケンジ「...まあ、できてたと思います。遅刻もしなかったし、仕事もちゃんとこなしてました」
ダイキ「じゃあ、今は、『ちゃんと』できてないから、おかしい、と?」
ケンジ「......そう、です」
彼は少し考え込むように黙った。
ダイキ「会社員の時と今と、何か違うことってありますか?」
ケンジ「......会社の時は、やることが決まってました。出勤すれば、自然と仕事が始まって。でも今は、全部自分で決めないといけなくて...」
ダイキ「全部自分で決める、というのは?」
ケンジ「何時に起きるとか、何をするとか、どのくらいやるとか。全部です」
ダイキ「なるほど。会社の時は、外側から枠組みがあったけど、今はそれがない、ということですね」
ケンジ「...はい。そうかもしれません」
彼の表情が、少しだけ緩んだ気がした。
焦燥感の正体
ダイキ「ケンジさん、今、一番しんどいのはどんな時ですか?」
ケンジ「......夜、寝る前です。『今日も何もできなかった』って思う時。すごく焦るんです」
ダイキ「焦る、というのは、どんな感じですか?」
ケンジ「このままじゃダメだ、って。もっと頑張らなきゃいけないのに、なんで自分はこんなに動けないんだろうって」
彼の声が、少しだけ震えた。
ダイキ「『このままじゃダメだ』って思うと、次の日はどうなりますか?」
ケンジ「......次の日は、もっとやろうって思うんです。でも、朝になると、やっぱり体が重くて。それで、また自分を責めて...」
ダイキ「『もっとやろう』って思うと、どんなことをしようとしますか?」
ケンジ「......朝6時に起きて、午前中は転職サイト見て、午後は資格の勉強して、夜は業界の情報収集して...みたいな感じです」
ダイキ「それ、全部できたことはありますか?」
ケンジ「......ないです」
ダイキ「できなかったら、どうなります?」
ケンジ「...また、『何もできなかった』って思います」
沈黙が流れた。ケンジさんは、何かに気づいたような表情をしていた。
ダイキ「ケンジさん、今、どんなことを考えてました?」
ケンジ「......なんか、自分で自分を追い詰めてるのかな、って」
彼は小さな声でそう言った。
完璧じゃないとダメ、という呪縛
ダイキ「追い詰めてる、というのは?」
ケンジ「全部できないと意味がない、って思ってるから。朝6時に起きられなかったら、『もうダメだ』って。一つでもできなかったら、『何もできなかった』ことになっちゃうんです」
ダイキ「一つでもできなかったら、全部ダメ、と?」
ケンジ「...そうです。おかしいですよね」
ダイキ「おかしいかどうかは、置いておいて。ケンジさんは、そう思ってるんですね」
ケンジ「...はい」
ダイキ「その考え方は、いつ頃からあるんですか?」
ケンジさんは少し考えてから、ゆっくりと話し始めた。
ケンジ「......小さい頃からかもしれません。親が、すごく教育熱心で。テストは90点以上じゃないと怒られたし、習い事も中途半端はダメだって言われてました」
ダイキ「90点以上じゃないと、どうなりましたか?」
ケンジ「...怒られました。『なんでこんな問題を間違えたんだ』『もっとちゃんと勉強しろ』って」
ダイキ「それを聞いて、ケンジさんはどう思いましたか?」
ケンジ「......自分が悪いんだって。もっと頑張らないとって」
彼の声が、少しだけ小さくなった。
ダイキ「頑張ったら、怒られなくなりましたか?」
ケンジ「......いえ。もっと上を目指せって言われました」
ダイキ「じゃあ、どうすれば認めてもらえたんでしょう?」
ケンジ「...わかりません。常に完璧でいないとダメだったのかな...」
その言葉を口にした瞬間、ケンジさんの目に涙が浮かんだ。
ケンジ「......ずっと、そうやって生きてきた気がします。完璧じゃないと、認めてもらえない。だから、何かやるなら全部完璧にやらないとダメだって」
ダイキ「でも、今は完璧にできない、と」
ケンジ「...はい。それで、何もできてないって思っちゃうんです」
彼は目元を手で押さえた。しばらく沈黙が続いた。
「できること」と「できないこと」を分ける
ダイキ「ケンジさん、今、泣きたい気持ちなんですね」
ケンジ「...すみません」
ダイキ「謝らなくていいですよ。泣きたい時は、泣いていいんです」
しばらくして、ケンジさんは少し落ち着いたようだった。
ダイキ「ケンジさん、一つ聞いてもいいですか?」
ケンジ「...はい」
ダイキ「今朝、起きてから今まで、何かやったことはありますか?」
ケンジ「......朝ごはんは食べました。それと、歯を磨いて、顔を洗って...あ、このカウンセリングの準備もしました」
ダイキ「それ、全部『やったこと』ですよね」
ケンジ「...そうですね」
ダイキ「でも、さっき『何もできてない』って言ってましたよね」
ケンジ「......あ」
彼は少し驚いたような表情をした。
ダイキ「ケンジさんの中で、『やったこと』にカウントされるのは、どんなことですか?」
ケンジ「......転職活動とか、勉強とか。『ちゃんとした』ことです」
ダイキ「『ちゃんとした』の基準は、誰が決めたんでしょう?」
ケンジ「...自分、です」
ダイキ「その基準、ケンジさんにとって、優しいですか?」
ケンジ「......優しくないです。すごく厳しいです」
ダイキ「厳しい基準で自分を測り続けたら、どうなりますか?」
ケンジ「...動けなくなります。今みたいに」
彼は深くため息をついた。
スモールステップの提案
ダイキ「ケンジさん、今日はもう十分頑張ったと思いますか?」
ケンジ「...いえ、まだ何も...」
ダイキ「今、このカウンセリングを受けるために、画面の前に座って、自分の気持ちを話してくれてますよね」
ケンジ「...はい」
ダイキ「それ、簡単なことですか?」
ケンジ「...いえ。すごく緊張しました」
ダイキ「緊張しながらも、ここにいる。それって、『何もしてない』ことになりますか?」
ケンジ「......ならない、です」
彼の表情が、少しだけ柔らかくなった。
ダイキ「ケンジさん、一つ提案があるんですけど、聞いてもいいですか?」
ケンジ「はい」
ダイキ「明日から、『やったこと』の基準を変えてみませんか?」
ケンジ「...基準を、変える?」
ダイキ「今は、『転職活動』とか『勉強』とか、大きなことしかカウントしてないですよね。それを、もっと小さなことも『やったこと』に入れてみるんです」
ケンジ「小さなこと...?」
ダイキ「例えば、『朝、顔を洗った』『ご飯を食べた』『5分だけ転職サイトを見た』とか」
ケンジ「...でも、そんなの当たり前のことじゃないですか」
ダイキ「当たり前、って誰が決めたんでしょう?」
ケンジ「......」
ダイキ「今のケンジさんにとって、朝起きて顔を洗うことは、簡単なことですか?」
ケンジ「...いえ。すごく重いです」
ダイキ「じゃあ、それをやったことは、すごいことじゃないですか?」
ケンジ「...そう考えたことなかったです」
ダイキ「今まで、『完璧にやらないとダメ』って思ってたから、小さなことは『やってない』ことになってたんですね」
ケンジ「...はい」
ダイキ「でも、小さなことも、ちゃんと『やったこと』なんです。それを積み重ねていくことが、動き出すコツなんですよ」
一歩ずつ進む
ダイキ「ケンジさん、明日やってみたいことって、何かありますか?」
ケンジ「...転職活動、です」
ダイキ「転職活動って、具体的には何をしますか?」
ケンジ「......求人サイトを見て、応募書類を書いて、企業に送って...」
ダイキ「それ、全部明日やりますか?」
ケンジ「...できるかどうか」
ダイキ「じゃあ、その中で、一番小さな一歩は何ですか?」
ケンジ「......求人サイトを開く、とか?」
ダイキ「それなら、できそうですか?」
ケンジ「...できると思います」
ダイキ「じゃあ、明日は『求人サイトを開く』だけでもいい、ということにしませんか?」
ケンジ「...でも、それだけじゃ意味ないんじゃ」
ダイキ「意味ないと思います?」
ケンジ「......いや、サイトを開かないと、求人も見られないから...意味、あります」
ダイキ「そうですよね。開くことが、最初の一歩なんです」
ケンジ「...はい」
ダイキ「もし、開いてみて、気が向いたら求人を見てもいいし、見なくてもいい。まずは『開く』ことだけを『やったこと』にカウントしてみませんか?」
ケンジ「...やってみます」
彼の声に、少しだけ前向きな響きが戻ってきた。
自分を責めない練習
ダイキ「ケンジさん、もう一つ提案があります」
ケンジ「はい」
ダイキ「もし、明日『求人サイトを開く』ができなかったら、どうしますか?」
ケンジ「......また、『何もできなかった』って思っちゃいます」
ダイキ「その時、どうしたらいいと思います?」
ケンジ「...どうしたら...」
ダイキ「もし、友達が同じ状況だったら、ケンジさんは何て言いますか?」
ケンジ「...『無理しなくていいよ』とか、『また明日やればいいじゃん』って言うと思います」
ダイキ「自分には、同じことは言えませんか?」
ケンジ「......言えないです。自分には厳しくしないとって」
ダイキ「厳しくした結果、動けなくなってますよね」
ケンジ「...はい」
ダイキ「じゃあ、今度は逆のことを試してみませんか? 自分に優しくする、という実験です」
ケンジ「実験...」
ダイキ「もし明日できなかったら、『今日はできなかったけど、また明日やればいいや』って言ってみる。それを試してみませんか?」
ケンジ「...やってみます」
ダイキ「最初は違和感があるかもしれません。でも、少しずつ慣れていきますよ」
ケンジ「...はい」
未来への一歩
セッションの終わりが近づいてきた。ケンジさんの表情は、最初よりずっと穏やかになっていた。
ダイキ「今日、話してみてどうでしたか?」
ケンジ「...なんか、少し楽になった気がします」
ダイキ「どのあたりが、楽になりましたか?」
ケンジ「『完璧じゃなくてもいい』って思えたことです。今まで、ずっと完璧を目指してたから...」
ダイキ「完璧を目指すのは悪いことじゃないんですけど、それで動けなくなったら本末転倒ですもんね」
ケンジ「...そうですね」
ダイキ「小さな一歩から始めて、少しずつ積み重ねていく。それが、今のケンジさんに必要なことかもしれませんね」
ケンジ「はい。やってみます」
ダイキ「また、どうなったか教えてくださいね」
ケンジ「...ありがとうございました」
彼は、少しだけ笑顔を見せてくれた。
エピローグ:2週間後
2週間後、ケンジさんから再びカウンセリングの予約が入った。
画面の向こうの彼は、前回よりも明るい表情をしていた。
ケンジ「先生、あれから毎日『小さなやったこと』をメモするようにしたんです」
ダイキ「おお、どうでした?」
ケンジ「最初は『こんなの意味あるのかな』って思ったんですけど...意外と、やってることあるなって気づきました」
ダイキ「例えば?」
ケンジ「朝起きたこと、顔を洗ったこと、ご飯を食べたこと。あと、求人サイトを5分見たこと、応募書類を1行書いたこと、とか」
ダイキ「すごいじゃないですか」
ケンジ「まだ、全然進んでる感じはしないんですけど...でも、『何もしてない』って思うことは減りました」
ダイキ「それ、大きな変化ですよ」
ケンジ「...あと、親にも『焦らなくていいよ』って言われて。前は『頑張れ』って言われてたのに」
ダイキ「ケンジさんの変化を、お父さんやお母さんも感じたんでしょうね」
ケンジ「かもしれないです。自分でも、少しずつですけど...前に進んでる気がします」
彼の言葉には、確かな手応えが感じられた。
完璧を目指すことをやめて、小さな一歩を積み重ねる。
それが、ケンジさんにとっての「動き出すコツ」だった。
カウンセラーの視点から
このケースで見られた焦燥感は、多くの人が経験するものです。特に、仕事を辞めたり、大きな環境の変化があった時に起こりやすい反応です。
完璧主義と行動麻痺
ケンジさんのように、「完璧にやらないとダメ」という考え方を持っていると、逆に動けなくなってしまうことがあります。これは心理学で「行動麻痺」と呼ばれる状態です。
目標が高すぎると、「どうせできない」と感じて、最初の一歩が踏み出せなくなる。その結果、何もできず、さらに自分を責める...という悪循環に陥ります。
スモールステップの効果
この悪循環を断ち切るために有効なのが、「スモールステップ」です。
大きな目標を、できるだけ小さな行動に分解する。そして、その小さな行動を「やったこと」として認める。
これを積み重ねることで、少しずつ自信が回復し、動き出せるようになっていきます。
自己肯定感を育てる
「小さなやったこと」を記録することは、自己肯定感を育てる練習にもなります。
多くの人は、「できたこと」よりも「できなかったこと」に注目しがちです。でも、実際には毎日たくさんのことをやっているのです。
それを可視化することで、「自分は何もしていない」という思い込みから抜け出すことができます。
焦りとの付き合い方
焦りは、自然な感情です。完全になくすことはできません。
でも、焦りに振り回されず、「今できること」に集中することはできます。
焦りを感じたら、「今、自分にできる一番小さなことは何だろう?」と問いかけてみる。そして、それをやる。
その繰り返しが、いつか大きな変化につながっていくのです。
まとめ
ケンジさんのケースは、多くの人に共通する悩みを含んでいます。
完璧を求めすぎて動けなくなる
小さな成果を認められない
自分を責め続けてしまう
もし、同じような状態にあるなら、こんなことを試してみてください:
目標を小さく分解する「転職する」ではなく、「求人サイトを開く」
小さなやったことを記録するどんなに些細なことでも、やったことは「やったこと」
自分に優しくする練習をする友達に言うような優しい言葉を、自分にもかける
「できなかった」より「できた」に注目する一日の終わりに、できたことを3つ数える
焦りを感じたら、今できることに集中する未来の不安ではなく、今この瞬間にフォーカスする
焦燥感は、あなたが「何かを変えたい」と思っているサインです。
でも、焦りに急かされて動くのではなく、自分のペースで、一歩ずつ進んでいく。
それが、本当の意味で「前に進む」ということなのかもしれません。