待合室での出会い
カウンセリングルームに入ってきた彼は、少し緊張した面持ちだった。椅子に座ると、何度か深呼吸をする。
ダイキ「今日はよく来てくださいました。どうぞ、リラックスしてください」
彼はうなずいた。しかしその目には、言葉にできない何かが渦巻いているようだった。
クライエント「あの...実は、来週から職場に戻ることになったんです」
ダイキ「そうなんですね。復職が決まったんですね」
クライエント「はい。産業医の先生からも大丈夫だって言われて。体調も良くなってきてるし、自分でもそろそろ戻らなきゃって思ってたんです」
彼は言葉を一度切った。
クライエント「...でも、怖いんです」
"準備は完璧"なはずなのに
ダイキ「怖い、というのは?」
クライエント「なんていうか...頭では『もう大丈夫』って分かってるんです。休職中、ちゃんと規則正しい生活を送ってきたし、散歩も毎日して、メンタルクリニックにも通って。やるべきことは全部やってきたつもりで」
彼の手が、無意識に膝の上で握られていた。
クライエント「なのに、復職日が近づくにつれて、夜眠れなくなってきて。職場のことを考えると、胸がざわざわして。『また壊れるんじゃないか』って...」
ダイキ「職場のことを考えると、どんなことが頭に浮かびますか?」
クライエントは少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
クライエント「上司の顔とか...会議室の風景とか。あと、自分のデスクに積まれた書類の山。それを見た瞬間、また同じことになるんじゃないかって」
ダイキ「同じこと...というのは?」
クライエント「また頑張りすぎて、また壊れて、また休んで...そしたら、もう次はないかもしれない」
彼の声が少し震えた。
見えない荷物の正体
ダイキ「次はない、と思うんですね」
クライエント「だって...転職サイト見ても、メンタルで休職歴があるって正直に言ったら、まず採用されないじゃないですか。『回復しました』って言っても、企業側からしたら『またなるリスク』でしかないって、分かってるんです」
彼は苦しそうに続けた。
クライエント「だから、今の職場でなんとかしないと。失敗できないんです。でも、その『失敗できない』って思うこと自体が、また自分を追い詰めてる気がして...」
ダイキは静かにうなずいた。
ダイキ「『失敗できない』という気持ちが、また重荷になっているんですね」
クライエント「そうなんです。矛盾してますよね...休んで回復したはずなのに、戻ることが怖い。情けないって思うんです、自分が」
その言葉の後、部屋には沈黙が流れた。
窓の外から、遠くで車の音が聞こえる。彼はその音に少し耳を傾けているようだった。
ダイキ「...情けないと思う、ご自分のことを」
クライエント「だって、周りの人はみんな普通に働いてるのに。自分だけ特別扱いされて復職するみたいで」
周りと自分を比べる苦しさ
ダイキ「周りの人、というのは?」
クライエント「同僚とかです。休職前も、みんな同じように忙しかったはずなのに、壊れたのは自分だけで。弱いんだな、自分はって」
クライエントの声が小さくなっていく。
ダイキ「今、『弱い』という言葉を使われましたね。ご自分のことを、弱いと感じていますか?」
クライエント「......はい」
彼は顔を伏せた。
ダイキ「弱いから、また同じことになるんじゃないか、と」
クライエント「そうです...だから、今度こそちゃんとやらなきゃって。でも、『ちゃんとやる』ってどういうことなのか、もう分からなくなってて」
"頑張る"の呪縛
ダイキ「『ちゃんとやる』が分からない...」
クライエント「休職前は、とにかく頑張ることしか考えてなかったんです。営業目標達成のために、朝早く出社して、夜遅くまで残って。休日も仕事のこと考えて。それで評価されて、昇進もして」
ダイキ「頑張って、成果も出していたんですね」
クライエント「でも、その先で壊れたんです。だから、同じように頑張っちゃダメだって分かってる。でも、頑張らないで働くってどういうことなのか...」
彼は混乱したように頭を抱えた。
ダイキ「今、『頑張る』と『頑張らない』の間で、揺れているんですね」
クライエント「そうなんです...中途半端な自分が、また迷惑をかけるんじゃないかって」
部屋の空気が、少し重くなった気がした。
ダイキはゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。
ダイキ「少し、別の角度から聞いてもいいですか。休職中、一番楽だったのはいつでしたか?」
クライエント「え...?」
意外な質問だったのか、彼は顔を上げた。
見落としていた回復のヒント
クライエント「楽だった時...ですか。うーん...」
彼は少し考えてから、
クライエント「休職して3ヶ月目くらいかな。その頃は、もう『何もしなきゃ』っていう焦りもなくなってて。ただ朝起きて、散歩して、ご飯食べて、本読んで、寝る。それだけの毎日でした」
ダイキ「その時の自分は、どんな感じでしたか?」
クライエント「...穏やかでした。久しぶりに、頭の中が静かで」
ダイキ「頭の中が静かだった」
クライエント「ええ。あれ?そういえば、あの頃は夜もちゃんと眠れてたな...」
彼ははっとした表情になった。
ダイキ「今と何が違うと思いますか?」
クライエント「今は...復職のこと、職場のこと、失敗できないこと、ずっと考えてます」
ダイキ「ずっと、ですか」
クライエント「そうですね...朝起きた瞬間から、寝るまで。いや、寝る前もずっと」
クライエントは自分の言葉に気づいたように、少し驚いた顔をした。
クライエント「...これって、休職前と同じだ」
繰り返されるパターンへの気づき
ダイキ「休職前と同じ、というのは?」
クライエント「休職前も、仕事のことばっかり考えてました。朝起きた瞬間から『今日のタスク』『未達成の目標』『クレーム対応』...頭の中がそれでいっぱいで」
彼は言葉を続けた。
クライエント「今も同じです。『復職したらどうなるか』『また壊れたらどうしよう』『失敗できない』...結局、職場のことで頭がいっぱい」
ダイキ「休職前は仕事の内容で、今は復職への不安で、頭が...」
クライエント「埋め尽くされてる...」
クライエントは深くため息をついた。
クライエント「休んだはずなのに、全然休めてないのかもしれない」
少しの沈黙の後、ダイキが静かに尋ねた。
ダイキ「今、『休めてない』と感じたんですね。それは、体が?それとも、心が?」
クライエント「......心、ですね。体は動くようになったけど、心はずっと警戒してるというか、緊張してるというか」
ダイキ「警戒している、と」
クライエント「はい。『また同じことになるんじゃないか』って、ずっと身構えてる感じです」
動物としての本能
ダイキは少し間を置いてから、話し始めた。
ダイキ「少し変な質問かもしれませんが...もし動物だとしたら、今のあなたはどんな状態だと思いますか?」
クライエント「動物...ですか?」
ダイキ「はい。たとえば、怖い思いをした後の動物って、どんな様子でしょう」
クライエントは少し考えた。
クライエント「...周りを警戒して、ピリピリしてる感じ、ですかね。次また襲われるんじゃないかって」
ダイキ「そうですね。動物は危険を経験すると、同じ危険を避けるために警戒モードになります。それは生き残るための大切な機能です」
クライエント「あ...」
ダイキ「今の状態、どう思いますか?」
クライエント「......自分も、警戒モードのままなのかもしれない」
彼の目に、何か理解したものが浮かんだ。
クライエント「休職前の職場で『壊れた』経験があるから、また同じ場所に戻ることが、本能的に『危険』だと感じてる...?」
ダイキ「どう感じますか、その考えは」
クライエント「...しっくりきます。だから眠れないのかも。安全じゃないって、体が教えてくれてるのかもしれない」
エネルギーの使い方
ダイキ「今、警戒し続けることで、どれくらいエネルギーを使っていると思いますか?」
クライエント「え...エネルギー、ですか」
ダイキ「はい。警戒するって、けっこう疲れることだと思うんです。常に周りを見張って、何かあったらすぐ反応できるように準備して」
クライエント「たしかに...疲れますね」
ダイキ「今、回復期間中なのに、その貴重なエネルギーを警戒に使い続けている。そんな感じはしますか?」
クライエントははっとした表情になった。
クライエント「...そうか。充電しないといけないのに、ずっとバッテリーを消費し続けてる」
ダイキ「そうかもしれませんね」
クライエント「だから、体調は良くなってるはずなのに、疲れが取れた感じがしないんだ」
彼は自分の手を見つめた。
クライエント「じゃあ...どうしたらいいんでしょう。復職は決まってるし、考えないわけにもいかないし」
思考を手放す練習
ダイキ「考えないわけにはいかない、と思うんですね」
クライエント「だって、準備しなきゃいけないじゃないですか。同じ失敗を繰り返さないために」
ダイキ「準備...たとえば、どんなことを考えていますか?」
クライエント「えっと...復職したら、どの仕事から手をつけるか、とか。上司にどう説明するか、とか。同僚の視線にどう対応するか、とか...」
クライエントは言葉に詰まった。
クライエント「...でも、考えても答えが出ない。だって、実際に戻ってみないと分からないことばかりで」
ダイキ「そうですね。まだ起きていないことについて、今考えているんですね」
クライエント「はい...」
ダイキ「その『考え』は、今のあなたに何か良いことをもたらしていますか?」
クライエントは黙り込んだ。
そして、小さな声で。
クライエント「......不安を大きくしてる、だけかもしれない」
"離れる"という選択肢
ダイキ「今、面白いことに気づきましたね」
クライエント「面白い...ですか?」
ダイキ「ええ。『考えても答えが出ない』『不安を大きくするだけ』と、ご自分で分かっているのに、考え続けてしまう。それって、なぜだと思いますか?」
クライエントは困った表情になった。
クライエント「...考えないと、不安だからかな」
ダイキ「考えないと不安。考えても不安。どちらも不安なんですね」
クライエント「あ...そうか。どっちにしても不安なら...」
彼の表情が少し変わった。
クライエント「考えなくてもいい、のかな」
ダイキ「どうでしょうね。試してみたことはありますか?」
クライエント「いや...考えることをやめるって、どうすればいいんですか?」
ダイキ「考えないようにしようとすると、逆に考えてしまいますよね」
クライエント「そうなんです!『考えるな』って思っても、余計に気になって」
ダイキ「では、考えることから『離れる』としたら、どうでしょう」
クライエント「離れる...?」
3時間の実験
ダイキ「たとえば、復職のことを一切考えない時間を、意図的に作ってみる。3時間でもいいです」
クライエント「3時間...でも、何もしないでいたら、結局考えちゃいそう」
ダイキ「そうですね。だから、何か別のことに意識を向ける必要があります。たとえば、休職中に楽だった3ヶ月目の頃、何をしていましたか?」
クライエント「散歩して...本を読んで...あと、料理を始めてました。簡単なものですけど」
ダイキ「料理。それは楽しかったですか?」
クライエント「意外と、はい。野菜を切ったり、焼いたり...無心になれました」
ダイキ「無心になれた。それって、復職のことを考えていましたか?」
クライエントははっとした。
クライエント「...考えてなかったです。包丁を動かすことに集中してて」
ダイキ「もしかしたら、そういう時間が、今必要なのかもしれませんね」
小さな一歩
クライエント「でも、復職まであと1週間しかないのに、のんきに料理してていいんでしょうか」
その言葉に、また焦りが滲んでいた。
ダイキ「『のんきに』と感じるんですね」
クライエント「だって...準備しないと」
ダイキ「今まで、ずっと準備のことを考えてきて、どうでしたか?」
クライエント「...不安が大きくなって、眠れなくなって」
ダイキ「今のままあと1週間過ごしたら、どうなりそうですか?」
クライエントは目を閉じた。
クライエント「...もっと眠れなくなって、復職初日にはボロボロかもしれない」
ダイキ「そうかもしれませんね」
クライエント「......じゃあ、料理、してみようかな」
彼は小さく笑った。
クライエント「変ですよね。復職前なのに、料理の心配してるなんて」
ダイキ「変、ですか?」
クライエント「いや...でも、確かに復職のことをずっと考えてても、何も良いことない気がします」
本当に必要なこと
ダイキ「もう一つ聞いてもいいですか。復職するとき、一番大切なのは何だと思いますか?」
クライエント「一番大切なこと...」
彼は真剣に考えた。
クライエント「...失敗しないこと、かな」
ダイキ「失敗しないこと。それができたら、どうなりますか?」
クライエント「また壊れずに済む...あれ?でも、『失敗しないこと』って、結局また頑張りすぎることになりそう」
ダイキ「そうかもしれませんね」
クライエント「じゃあ...本当に大切なのは、何だろう」
長い沈黙が流れた。
窓の外で、鳥が鳴いている。
クライエント「...エネルギーを、ちゃんと充電しておくこと、かな」
ダイキ「どうして、そう思いましたか?」
クライエント「だって、エネルギーがないと、何もできない。頑張ることもできないし、適度に力を抜くこともできない」
彼の声が、少し明るくなった気がした。
クライエント「まず、自分のバッテリーを満タンにしておく。それが、一番の準備なのかもしれない」
変化の兆し
ダイキ「今、『バッテリーを満タンにする』という言葉が出ましたね」
クライエント「はい。なんか、すっきりしました」
ダイキ「すっきり、ですか」
クライエント「ずっと『どう頑張るか』『どう失敗しないか』ばっかり考えてたけど、そうじゃなくて。『どう充電するか』を考えればいいんだって」
彼は深く息を吐いた。
クライエント「料理して、散歩して、よく寝る。それだけでいいのかもしれない」
ダイキ「この1週間、そうやって過ごしてみたら、どうでしょうね」
クライエント「...やってみます。復職のことを考え始めたら、包丁を握ろうかな」
そう言って、彼は小さく笑った。
初めて見る、力の抜けた笑顔だった。
帰り際に
カウンセリングの終わりに、ダイキが声をかけた。
ダイキ「もし、夜眠れないときは、どうしますか?」
クライエント「そうですね...今までは、『また明日も疲れる』って焦ってました」
ダイキ「これからは?」
クライエント「焦らないようにします。眠れなくても、目を閉じて、呼吸に意識を向けてみる。それだけでも、少しは休めるかもしれない」
ダイキ「いいですね」
クライエント「あと...復職への準備って、『心配すること』じゃないんだって、分かりました」
ダイキ「どういうことですか?」
クライエント「本当の準備は、今の自分を整えること。エネルギーを充電すること。それができてれば、職場でも何とかなるような気がします」
彼は立ち上がった。
クライエント「今日は、ありがとうございました。なんか、肩の荷が下りた感じです」
部屋を出る彼の背中は、来た時より少し軽くなっているように見えた。
(エピローグ)
その後、クライエントからメッセージが届いた。
「残りの1週間、料理と散歩と睡眠に専念しました。復職初日は緊張しましたが、意外と大丈夫でした。完璧にはできないけど、それでいいんだって思えています。ありがとうございました」
復職への不安は、消えるものではない。 でも、その不安とどう付き合うかは、選べるのかもしれない。