休んでいるはずなのに
「ダイキさん、おかしいんです」
リョウさん(仮名)は、椅子に座った瞬間、そう切り出した。
「何がおかしいんですか?」
「休職してもう半年になるんですけど...全然、回復してる感じがしないんです。むしろ、前より悪くなってる気さえします」
リョウさんは、手元のスマートフォンを何度も確認していた。
「スマホ、気になります?」
「あ、すみません。銀行のアプリで...残高を確認してしまって」
そう言って、リョウさんは苦笑いを浮かべた。でもその笑顔は、どこか痛々しかった。
「残高、気になりますか」
「気になるとか、そういうレベルじゃないんです。もう、一日に何十回も見てしまう。朝起きた瞬間から、夜寝る前まで。減っていく数字を見るたびに、心臓がギュッと締め付けられるんです」
「死ぬしかない」という声
「リョウさん、今の貯金が減っていくと、どうなると思いますか?」
リョウさんは、しばらく黙っていた。そして、小さな声で答えた。
「......死ぬしかないんじゃないかって」
その言葉を聞いて、私は少し驚いた。でも、リョウさんの表情は真剣だった。
「死ぬしかない、ですか」
「はい。お金がなくなったら、家賃も払えない。食べるものも買えない。そうなったら...ホームレスになるか、死ぬか。そのどっちかしかないですよね」
リョウさんの目には、本気の恐怖があった。
「他の選択肢は、思い浮かびませんか?」
「他の選択肢...?」
リョウさんは首をかしげた。まるで、そんなものがあることすら考えたことがないというように。
「たとえば、生活保護を受けるとか、親族に助けを求めるとか」
「生活保護なんて...」
リョウさんは、顔をゆがめた。
「それだけは絶対に嫌です。うちの親は、昔からそういう人のことを『甘えてる』『恥ずかしい』って言ってました。小さい頃から、『働けなくなったら終わり』『会社にしがみつくしかない』って、ずっと聞かされてきたんです」
刷り込まれた恐怖
「親御さんから、そう教えられてきたんですね」
「はい。特に、数十年前の不景気のときですね。あの頃、派遣切りとかで職を失った人がニュースになってて...母親が『ああなったらおしまいだ』って、何度も言ってたんです」
リョウさんは、遠い目をした。
「だから、会社を辞めるって、すごく怖かったんです。でも、体がもう限界で...気づいたら、朝起きられなくなってて。それでも無理して行こうとしたら、会社の前で足が動かなくなって」
「それで、休職を決めたんですね」
「はい。でも、休職してからも、ずっと不安なんです。このまま貯金が減っていったら、本当にあの人たちみたいになるんじゃないかって」
リョウさんの声は、少し震えていた。
休めない理由
「リョウさん、休職してから、どんなふうに過ごしていますか?」
「最初は、とにかく寝ようと思ったんです。でも...寝てるだけじゃダメだって思って」
「ダメだって?」
「だって、このまま何もしないでいたら、体力も落ちるし、頭も働かなくなるじゃないですか。だから、資格の勉強を始めました。あと、ジムにも通い始めて...」
私は、リョウさんの言葉を聞きながら、心の中で何かが引っかかるのを感じた。
「資格の勉強とジム。それは、楽しいですか?」
リョウさんは、少し考えてから答えた。
「楽しい...というか、やらなきゃいけないって思って。早く復職するためには、スキルアップしないといけないし、体力もつけないと」
「やらなきゃいけない、ですか」
「はい。だって、こんなふうに休んでるだけじゃ、時間を無駄にしてるだけじゃないですか」
不安が作り出す悪循環
「リョウさん、ひとつ質問していいですか。その資格の勉強やジムに行った後、どんな気分になりますか?」
リョウさんは、少し困ったような顔をした。
「...疲れます。すごく」
「疲れるんですね」
「はい。勉強しても、全然頭に入ってこないんです。ジムも、以前は平気だった負荷が、今はきつくて。終わった後、家に帰ると、もう何もする気が起きなくて...そのまま寝てしまうんです」
「その疲れ、どれくらい続きますか?」
「次の日も、その次の日も...ずっと、です。だから、また銀行のアプリを見てしまって。『こんなに疲れてるのに、お金は減っていくだけだ』って思うと、もっと焦って...また勉強しなきゃって思って」
リョウさんは、そこで言葉を切った。そして、ぽつりとつぶやいた。
「...悪循環ですよね」
その瞬間、リョウさんの目に、何か気づきのようなものが浮かんだ。
エネルギーが枯渇しているとき
「リョウさん、もしかしたら、今のリョウさんは、スマートフォンの電池が切れかかっている状態に似ているかもしれません」
「スマートフォン、ですか?」
「はい。電池が1%しかないのに、充電しながら同時にゲームをしたり、動画を見たりしていたら、どうなると思いますか?」
「...全然、充電が進まないですよね」
「そうなんです。むしろ、電池が切れるのが早くなるかもしれない」
リョウさんは、ハッとしたような表情になった。
「もしかして、僕も...?」
「リョウさんの心と体は、今、エネルギーがとても少ない状態なんだと思います。その状態で、『休んじゃダメだ』『何かしなきゃ』って、エネルギーを使い続けていたら...」
「充電できない...」
リョウさんは、自分の手のひらを見つめた。
「でも、休んでるだけじゃ...本当に、何もできなくなるんじゃないかって」
「リョウさん、1年間、運動を全くしなかったとします。そうしたら、リョウさんは『もう二度と歩けない体』になると思いますか?」
「いや...それはないと思いますけど」
「そうですよね。でも、今のリョウさんは、『1ヶ月休んだら、もう何もできなくなる』って思っている。それって、少し極端じゃないでしょうか」
リョウさんは、しばらく黙っていた。そして、小さくうなずいた。
「...確かに、極端かもしれません」
不安が3倍になるとき
「リョウさん、もうひとつ、お伝えしたいことがあります」
「はい」
「今、リョウさんが感じている不安は、実際の状況よりも、ずっと大きく感じられているかもしれません」
「どういうことですか?」
「人は、エネルギーが枯渇しているとき、同じ出来事でも、普段の2倍、3倍つらく感じてしまうんです。貯金が減っていくこと自体は変わらなくても、感じる不安の大きさは、今のリョウさんの状態によって、何倍にも膨らんでいる」
リョウさんは、目を見開いた。
「じゃあ、僕がこんなに不安なのは...」
「リョウさんが弱いからじゃありません。エネルギーが足りていないから、不安が大きく感じられているんです。だからこそ、まずは充電が必要なんです」
「充電...」
リョウさんは、その言葉を何度か繰り返した。
本当の休み方
「充電するって、具体的には、どうすればいいんですか?」
「まずは、エネルギーを使うことを、できるだけ減らすことです」
「資格の勉強とか、ジムとかを、やめるってことですか?」
「今は、やめてみる。少なくとも、お休みする」
リョウさんは、不安そうな顔をした。
「でも、それじゃあ...」
「時間を無駄にしてるように感じる?」
「はい...」
「リョウさん、充電って、何もしていないように見えますよね。でも、それが一番効率的な回復方法なんです」
リョウさんは、じっと私を見た。
「それと、もうひとつ」
「はい」
「銀行のアプリを見る回数を、減らしてみませんか」
「でも...」
「見ると、不安になりますよね」
「...はい」
「その不安が、また、リョウさんのエネルギーを奪っているんです。だから、まずは、その不安から離れる時間を作る」
リョウさんは、スマートフォンを見つめた。
「...できるかな」
「一日一回でもいいんです。朝だけ、とか。少しずつ、離れる練習をしてみる」
小さな一歩
カウンセリングが終わる頃、リョウさんは少し表情が柔らかくなっていた。
「なんか...少し、楽になった気がします」
「そうですか」
「はい。でも、まだ怖いです。このまま休んで、本当に大丈夫なのかって」
「その不安は、すぐには消えないかもしれません。でも、今のリョウさんに一番必要なのは、その不安と少し距離を取ることなんです」
リョウさんは、ゆっくりとうなずいた。
「まずは...充電ですね」
「はい。そして、もし不安が大きくなりすぎたら、またここに来てください。一人で抱え込まなくていいんです」
リョウさんは、少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます。なんか、ずっと『自分でなんとかしなきゃ』って思ってたんですけど...」
「なんとかしなくていいんです。今は、ただ休む。それだけでいい」
リョウさんは、深く息を吐いた。その息は、少しだけ、軽くなったように見えた。