「非ず」という名の壁の前で

「非ず」という名の壁の前で

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コラム
「這々の体(ほうほうのてい)」という言葉があります。身も心も疲れ果て、ようやくのことでその場を離れるような、そんな痛々しい有様を表す言葉です。

私にとって、この言葉は決してどこか遠くの他人事とは思えません。私は、反復性うつ病性障害という病を抱えて生きています。調子の良いときには、病のことなど忘れてしまうほど普通に過ごせる日もあります。けれど、再び調子を崩したときには、「なぜ自分はこんなにも動けないのだろう」と、深い戸惑いに襲われてしまうのです。

昨日までできていたことが、今日はできない。起き上がることさえも一大事業のように感じられます。外へ出ること、人と話すこと、仕事へ向かうこと。その一つひとつが、まるでそびえ立つ高い壁のように目の前に立ちはだかります。

頑張ろうという意志はあっても、そのためのエネルギーそのものが底をついてしまっている。そんな這々の体で、なんとか一日を終えるだけで精いっぱいの日があります。何か大きなことを成し遂げたわけではない、ただ生き延びるためだけに息をした、そんな一日です。

しかし、社会に目を向けると、もう一つの容赦のない言葉が私の前に立ちはだかります。それが「非正規雇用」という言葉です。雇用形態を表す制度上の言葉であることは重々承知しています。それでも、「非正規」という言葉に含まれる「非」という一文字が、私の胸を深く突き刺します。「非」とは、そこに「あらず」ということ。まるで「正規ではないもの」「正しいものではないもの」と、存在そのものを否定されているかのように響くのです。

病にエネルギーを奪われ、文字通り「這々の体」でなんとか社会の片隅にしがみついているとき、この「非ず」という冷徹な言葉は、まるで「あなたは不完全な人間だ」と告げているかのように感じられてなりません。

けれど、生身の人間に対して「非ず」などということが、果たしてあるのでしょうか。

正社員であっても、非正規社員であっても、そこで懸命に働いているのは一人の等身大の人間です。それぞれに日々の生活があり、固有の事情があり、守りたいものや、叶えたい願いを持っています。這々の体のなかで、それでも今日を生きようともがいている尊い命です。雇用契約の形が異なるだけで、人間としての尊厳や価値までが変わるわけでは決してありません。

制度を分類するための言葉と、人間そのものを評価する言葉は、本来、厳格に区別されるべきものです。言葉の響きによって、そこで働く人までもが不完全な存在として扱われてしまう空気には、どうしても違和感を拭えません。

人は「正規」でも「非正規」でもありません。
人は、どこまでいっても「人」です。
だから、人に「非ず」とはつけなしでほしいのです。

反復性うつ病性障害という病とともに、私は何度も立ち止まり、何度も休みながら歩いてきました。たとえ傷だらけの這々の体であっても、この世界に「非ず」などと呼ばれてよい人間は、どこにも存在しないはずです。立ち上がれない日があっても、ゆっくりと息をしているその時間もまた、かけがえのない私の、そして誰かの大切な人生の一部なのだと信じています。

                           沙門送粉  合掌
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