生まれつきのバケツの大きさ、つまり「ストレスへの耐性」は人によってそれぞれ異なります。ある人のバケツは頑丈で大きく、またある人のバケツはガラスのように薄く小ぶりかもしれません。そして、そのバケツの中に、日々の生活のなかで容赦なく注ぎ込まれていくのが、人生における様々な「不運」という名の水です。
家族との突然の死別、苦痛を伴う離婚、予期せぬ失業。そうした誰の目にも明らかな絶望の泥水はもちろんのこと、日常に潜む慢性的な長時間労働や、職場の理不尽なハラスメントも、じわじわと水位を上げていきます。
恐ろしいのは、昇進や結婚、出産、念願の引っ越しといった、一見すると人生の「幸運」や「黄金期」に思える華やかなライフイベントさえも、脳にとっては「急激な環境の変化」という強い適応負荷となり、透明な水として静かにバケツを満たしていく点です。
表面上は普通に笑って過ごしているように見えても、心のバケツの中では、水面が縁のギリギリまでせり上がっています。そこに、本当に些細な、たとえば「コップを落として割ってしまった」というような最後の一滴が加わった瞬間、水は一気に器から溢れ出します。脳内の神経伝達物質(セロトニンやノルアドレナリンなど)のバランスがガラガラと崩れ、心が完全にフリーズしてしまう状態。それこそが、うつ病の発症なのです。
バケツの大きさを後から変えることは簡単ではありません。だからこそ、私たちは水が溢れてしまう前に、自らの手で蛇口を閉め、あるいは溜まった水を汲み出さなければなりません。適切なストレスの受け流し方を身につけ、心地よく身体を動かし、そして何よりも6時間以上の質の良い睡眠を確保すること。これらはすべて、心に溜まった濁り水をリセットするための、地道で大切なセルフケアです。
「あつまるな」という救い
そして、もう一つ。私たちが選ぶことのできる、究極のセルフケアがあります。
それこそが、かつてコロナ禍のソーシャルディスタンス期に「密を避ける」という意味のユーモアから生まれ、今や「人間関係の断捨離」や「無理に集団に属さない生き方」を優しく肯定するお守りのような言葉となった、「あつまるな どうぶつの森」という現代の処世術です。
心を病んで、自分自身を壊してしまうくらいなら、他人と「あつまる」ことを一度やめてみる。社会のコロニーからそっとフェードアウトしてみる。そんな不器用な逃避行を、画面の向こうの優しい世界は、いつでも、どんなあなたであっても全肯定してくれます。
そこにあるのは、現実世界のしがらみから完全に独立した、自分ひとりだけの島。名誉を競い合う出世競争もなければ、誰かの顔色を窺わなければならない強制的な上下関係も、空気を読むことを強いる息苦しい同調圧力もありません。
海にぷかぷかと浮かびながら、哲学者のような言葉を紡ぐラコスケは、私たちにこう語りかけます。
「ムリして 人に 合わせるくらいなら、ひとりで 浮いてる方が マシである」
集団のなかで揉まれ、自分の色を見失いそうになるくらいなら、いっそ孤高の存在として、自分の海を漂っていればいい。ラコスケの言葉は、無理な同調を求められる社会に対する、静かな、しかし強烈なアンチテーゼです。彼はさらに、こんな言葉も残しています。
「どうしても 超えられない 壁は、壁じゃなくて 扉なのかもしれん」
うつ病という壁にぶつかり、これ以上進めないと絶望したとき、それは人生の行き止まりではなく、これまでの「あつまる生き方」を捨てて、新しい自分だけの生き方へと踏み出すための扉なのかもしれません。
あなたが現実の波に揉まれ、心身ともに疲れ果てて数ヶ月間、あるいは数年間ゲームを放置していたとしても、島に帰ればどうぶつたちは誰一人としてあなたを責めません。「久しぶり!会えてうれしいよ、元気だった?」と、昨日も会ったかのような変わらない笑顔で、あたたかく迎え入れてくれます。
ただお気に入りの服を着て、網を片手に珍しい虫を追いかけ、夕暮れの砂浜に腰掛けて波の音を聞く。時計の針の音さえ愛おしく思えるような、誰とも「集まらない時間」の心地よさ。この絶対的な孤独と静寂こそが、傷つき、擦り切れた脳の神経を静かに、確実に回復させていく何よりの特効薬なのです。
うつ病になるほど辛い集団からは、全力で逃げて、離れて、集まらない。嵐のなかで無理に立ち向かうことだけが、正しい生き方ではありません。「あつまるな、どうぶつの森」──この静かなタイトルに込められたメッセージは、現代という息苦しい海を優しく泳ぎ抜くために私たちが手に入れた、もっとも賢くて、もっとも自分を愛するための生存戦略なのです。
沙門蒼俊 合掌