自分のものじゃない考えは手放しちゃえばいいよねって話

自分のものじゃない考えは手放しちゃえばいいよねって話

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コラム
自分の中には「貴賤」に関しての発想が多く感じられる。
多くは貴いものへの羨望と嫉妬、
賤しいものへの侮蔑と嘲笑である。
対象となる他人と同じコミュニティに属しているいないに関わらず、他人のそういった部分を発見しては、内心で羨んだり嘲ったりしている。
ではなぜそれが起こるのか。

理由はただ一つ、不安だ。

各人にまったく異なる、それぞれの価値があって、それは増減もしなければ侵害もされない、不変で普遍のものであるという本質のところにいれば、そんな比較による悲喜は起こりえない。
ただひとたび世俗的な価値観に覆われてしまうと、ヒエラルキーにどっぷりと浸かって、他人との差異によって、幻想の不安を取り払おうと躍起になるのだ。

特に感じるのは職業やお金に対するものだ。
そして今回大きな発見だったのは、そこで判断基準としているものは、

全く自分のものではなかった

ということだ。
植え付けられた価値観、世間一般で見たらどう見えるか、というものだ。
そんなものに頼って他人と自分を比較して、自分を卑下したり他者を見下したりしていたと考えると、空恐ろしくすらある。

今書いていて思い出したが、幼少期に家族でテレビを見ている時に、母親と姉がテレビのアナウンサーのファッションに対して、あれが悪いとかこれがダサいとか、ダメ出しをしていたのを思い出した。当然自分もそれに乗っかって批判をしていた。
そういったものも全く同じ属性のものであって、その方向のものに晒され続ける事によって、あたかもそれが自分の考えであるかのように誤認していたわけだ。

確かにお金がある事によって、現在の世界においては様々な自由を手に入れられるだろう。
だがそれは人間や職業の価値を決めるものではないし、そこと結びつける事自体が非常にナンセンスな事だ。
自分より下と思っている人達を見下して安心している自分の空虚さを知り、その源泉を見つめて浄化し、真の安寧を得たい。

そうか、自分の考えでないから、こんなに無責任にその上にあぐらをかいていられるのだ。
「みんながそう言ってるから」だ。
これは自分が忌み嫌っている言葉であり発想なのだが、やはり忌み嫌うレベルで感情が動くものは、自分の中にひっかかるフックがあって、そこに反応するからだという、またひとつ実証が得られたな。

誰かの、他人の考えにのっかって無責任に生きるのはやめよう。
もちろんゼロから全て発想するなんてことは、様々な情報に満ち溢れたこの世界では不可能な事だから、与えられた情報を受け取って、自分が納得して自分の言葉として自分が責任を持って発信出来る形を作ろう。
それでこそ、真に自分が生きやすい世界を作れる。
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