体験と言語表現

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 自分の体験を人に上手く伝えるには間違いなく技術が必要だなと感じます。自分にとって、腹のよじれるくらいおもしろい体験であっても、絶叫したくなるくらいムカつく体験であっても、ドキドキするような楽しい体験であっても、泣きつきたくなるくらい悲しい体験であっても、話し方一つで、その言葉は、人の感情を強く揺さぶったり、逆に、やるせないくらいあっけなく人の耳元を素通りしてしまいます。
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 20年ほど前のラジオ番組で、松本人志さんが、次のようなことをおっしゃっていました。

芸人のしゃべりが本当に上手いかどうかを、できるだけ公平に競い合わせるためには、たとえば、料理人たちに同じ食材を与えて、その食材だけを使ってそれぞれに「料理」をしてもらうような、そういう場がなくてはいけない。 

 これを芸人のしゃべりの場合にあてはめるなら、さしずめ、「食材」が「面白い体験」、「料理」が「しゃべり」に当たるのではないかと思います。
 松本さんは、できるだけフェアな環境下で芸人たちがしゃべりを競い合うための条件として、まず芸人たち全員に、同じ体験をしてもらう必要があると、言っています。 それは、例えば、地元のロケに行くとか、ご飯を食べに行くとか、なんでもいいのだと思いますが、そこで全員に共通の体験をしてもらいます。この際、芸人たちがその体験をする様子は、証人として視聴者にも観てもらいます。 
 その後、それぞれの芸人たちに面白いしゃべりの披露をしてもらうのですが、しゃべりの内容は、その体験だけに基づいていなければなりません。そうすると、視聴者もその様子を観ているわけですから、芸人たちは嘘の体験談をしゃべることができません。視聴者にバレるので。それはまるで、料理人が与えられた食材だけを使い、審査員のにらみのきいた空間で調理をすることに似ています。
 同じ体験をした芸人たちは、各々が、ここだと思った場面を切り取り、そうでないところはばっさりと切り捨てるでしょう。話の順番をどうするのか、どこをオチにすれば一番面白いのか、ということは芸人たちの腕次第です。
 そうすると、同じ体験談をしゃべっても、芸人によって面白い人、そうでない人が出てくると予想されます。ああ、この人はここに着目したのか、ここをオチにしたか、という風に、視聴者はいろいろな感想を持ちながら楽しめるかと思います。
 実際にこのような企画番組があるのかどうかは知らないですが、もしあるとするなら、しゃべりの貴重なハウツー映像となるでしょう。 
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 今回は、松本さんの話を引き合いに、体験としゃべりのプロセスに言及しましたが、別にお笑いに限らずとも、私たちは日常の中で当たり前のように、この「体験→言語表現」を繰り返していますよね。
 当たり付き自販機でジュースが当たったとか、タンスの角に思い切り足の小指をぶつけたとか、そういったことをなぜかつい人に話してしまいたくなります。それもできるだけ大げさに話したくなります。大げさに話したからといって、自分の体験をより正確に表現できるのかは分かりませんが、それでもなんとかして、自分の体験を伝えたくなります。 
 けれど、自分にとっての面白い出来事、悲しい出来事を熱心に人に話し、さあどんなリアクションが返ってくるかと期待して、ちらと相手の顔を見ると、無感動な顔と二言三言の乾いたような言葉しか返ってこない時、ああ、これは上手く伝わらなかったんだなと、けっこう落ち込むものです。 
 私は、そんな時、実際の体験とそれを表現する言葉の間に、大きな溝が横たわっている事実について考えます。自分の感じ方をそのまま他人に感じてもらうことはできません。逆もしかり。これは、悲観とかそういうレベルの話ではなく、普通の事実として。 
 それでも、自分の体験なり感情を人に伝える可能性を開くのってやっぱり言葉なんです。
 生の体験ができるのはその人だけです。それを他人に伝えようとすると、必ず、その体験の切り取りと編集になるのです。そして、もちろんそれは言葉によらなければなりません。
だから、言葉をどのように使うのかって大事だと思うんです。
ここまで書いた文章が、どのくらい読者の方に伝わるのか、それもやっぱり私の腕次第です。

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