パワハラと人間臭さ

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コラム
 以前働いていた会社のことを思い返していた。

 田舎の小さな会社で、当時私を含めた従業員は8人だった。そこの社長は当時もう70歳に近かったが、その鋭い眼光はいつもギラギラしていた。

 社長はとにかく豪胆で押しが強かった。自身が社長であり年功序列の上の層にいることをいやおうなく周囲に了解させるような話し方をする。仮にも俺は社長だぞ、という姿勢を片時も崩さなかった。誰かと話せば、堂々とした張りのある声、圧倒的言葉数の多さ、些細な出来事でも誇張と歪曲を加えて必ず滑稽なオチに引きずり込む話術、嘲笑的な響きのする豪胆な高笑い、、、、それらを無遠慮に振りかざして、必ず会話の主導権を取りに行く。ワンマン社長という言葉を聞いた時に思い浮かべる、アクの強いイメージをそのまま体現したような人だった。 

 私がこの会社に入社した初日の夜、私のための新入社員歓迎会が開かれた。その頃は新型コロナの影響で、営業自粛をしている店が多かったので、出前を取って、会社で宅飲みをすることになった。 飲み会は事務所の隣にある狭い応接間で行われた。

 出前の料理が来て、飲み会が始まった。

 私は改めて自己紹介や、これから会社でやりたいことの所信表明などを求められ、たどたどしくもそれに答えた。 
 私は最初、周りを気にせず机の上に並べられた料理を食べていたが、ふと、一番歳の近い先輩を見ると、ほとんど料理に手を付けていなかった。彼は、社長から遠慮せず食べろと言われていたのに、やっぱり箸を動かそうとしない。ずっと、社長や他の先輩のお酒の入ったグラスや、ビール缶を、きょろきょろと見ていて、誰かのお酒が空きそうになると、すぐ立ち上がって、冷蔵庫から新しいやつを持ってくる。年上の人がしゃべると、調子を合わせて頷いたり、笑って見せたり、場の雰囲気を壊さないよう、繊細な言葉の選び方をしていた。

 私は、これほどまで年上の人に細かく神経を立てている先輩を見て、この会社での厳しい上下関係を肌で感じた。なんて昭和らしい会社だ。
 飲み会では、ほとんど社長一人がしゃべっていて、周りの人間は、やはり、社長の調子に合わせて頷いたり、笑ったりしていて、たまに話を振られたときに、何かボソっと喋る程度であった。
 社長はとても冗談の好きな方であり、その冗談というのも、必ず誰かの失敗や、誰かの身体の特徴などを誇張して、滑稽に見せるような形で展開される。そしてそれは、漫才でツッコミの人がよくやる、あの平手打ちのような、ちょっとした暴力を伴うものだった。

 その時ちょうど、社長の隣に座っている、少し小柄で、頭のてっぺんが少しだけ薄くなっている坊主頭の先輩がいたのだけれど、彼は社長の格好の餌食になっていた。社長は彼のことを好んで「ハゲ坊主」と呼んでいて、社長が彼に話を振り、つまらない答えが返ってくると平手で容赦なくその薄い頭をバチンといく。その音が気持ち良いくらい部屋に響く。
 他にも同じような場面で、彼の肩をグーで小突いたり、それもまた生々しい音のするものだったが、とにかくそういった暴力的なコミュニケーションをよくする社長だった。社内の人間はみんな、それが「社長の不器用な愛情表現」として、おそらく何の違和感もなく受け入れていた。


 しばらく働いてみて分かったのはこの会社では飲み会が週に4回ほどあるということ。飲み会があるかどうかは、社長の気分次第である。社長が行こうと言えば社員はみんな右へならえで断ることをしない。 
 そして原則、年下はお酒を飲むことができない。飲み会が終わった後に、先輩方を車で家まで送り届けないといけないから。そして、飲みの席では、やはり先輩方のグラスの酒を空けないよう常に目を光らせる必要があったし、年下が料理をがつがつ食べることは、なんだかとても憚られた。むろん、社長はどんどん食べろと言ってくれるけれど、それでも何人かの先輩方はなかなか食べようとはしない、飲みの席でガツガツ食べることが何か悪いことかのように。

 そうすると、私もまた同じように食べることを遠慮してしまう。

 夜遅くに、飲み会が終わり、先輩方を家に送ると、いつもお腹がペコペコだった。私はコンビニで弁当を買って帰り、それを晩御飯にしていた。

 この会社の飲み会で感じる上下関係の厳しさや、場の雰囲気を重んじる風潮は、もちろん実際の仕事の場面においても無視できないものだった。
 仕事の段取りをするのは基本的には年下の仕事だったし、大変な仕事はできるだけ先輩にはさせない。先輩もそれを当然のこととして考えていた。先輩と意見が衝突しそうな時は、必ずこちらが一歩引く、汚れ仕事はすべて後輩がするもの、という暗黙のルールが、時に高圧的で傲慢に感じられた。
 かといって、そのような風潮に異議を唱える勇気もなければ、そのような体質を簡単に批判できるほど、自分の感覚が正しいと言える自信もなかった。ただ、やけに昭和のにおいのする会社だな、ということを思わない時はなかった


 1年もたたず、私はもうその会社を辞めることを考えていた。机の中に辞表もしたためていた。 
 私はある日、退職届を社長に渡した。それは梅雨の雨が降る日で、ちょうどお昼頃だった。私たちは、応接室で詳しい話をすることになった。
 私はその日、弁当を持ってきていたけれど、社長が出前を一緒に食べよう、と言ってくれたので、弁当はカバンの中にしまったままにしておいた。
 出前が来た。応接室の扉を全部閉め、二人でうどん定食を食べながら話をはじめた。

 私は、退職の理由を説明した。端的に言うと、私は社長の強烈なコミュニケーションの取り方、会社の社風が苦手で耐えられないといったことを伝えた。
 社長はソファから少し体を乗り出し、柔和な眼つきで、うんうん、と親身になって私の話を聞いてくれた。面と向かい合って、これほど丁寧に話を聞いてもらったことはなかった。こんなに澄んだ、うるうるした眼をしていた人だったんだ、と内心驚いた。

 社長は、私の言葉を否定することは一切せず、むしろ、私の人生だから口出しすることはできない、と言った。その上で、少なくとも今私が進めている案件だけは完成させてから辞めてほしいと懇願してきた。何か一つでも成果を残して、今よりほんの少しでも自信をつけてから辞めてほしい、そうすればここで働いた1年足らずの期間がもっと意味あるものになるはずだ、と。それに加えて、会社を辞めた後の私の人生計画をもっと真剣に考えて、それを見せてほしいと言われた。何か一人で商売をするのであれば、それを事業計画書のような形でまとめてくれれば、それを添削させてほしい、と。そして、次決めたことはもう少し辛抱強く続けて欲しい、とも言われた。最後に、私がこの会社を選んだのは何かのご縁によるものだから、どうか会社を辞めた後いきなり関係をばっさり切るようなことはしないでほしい、せっかくのご縁は大切にしたい、それと、今後も人に感謝する気持ちは持ち続けてほしい、と力説してくれた。

 目頭が少し熱くなった。眼光のギラギラしていたいつもの社長はこの時、社長という肩書を捨てた、ただただ経験豊かで優しいおじいちゃんのようだった。私は、せめてその時、進行中だった仕事だけは片づけてから会社を辞めると約束して、話を終えた。 

 あれほど露骨な暴言を、呼吸をするが如く自然に吐き、人の欠点、失言、失敗を何か愉快なおもちゃだと言わんばかりに人前にかざし、見せしめにしては自らもまた哄笑するような人の心がこんなにも温かかったとは。


 私は、けれど、うすうす分かっていた。社長は悪い人ではない。
 パワハラとか、時代遅れの古い人間とか、そういうレッテルを張るから、泥臭くて温かみのある人間味が隠れてしまう。
 私はもうその会社を辞めている。私は、社長のアクの強さが苦手だったし、この会社の昭和っぽいと言おうか、上下関係の厳しい体育会系の社風が耐えられなかった。けれど、社長の優しい人間味は十分理解しているつもりだ。
 私はこの会社で働いていた頃、毎朝のように社長にコーヒーを淹れて机まで持って行ったが、その時社長は必ず気持ちのこもった「ありがとう」を返してくれた。
 また、危険な現場作業に行く日の朝は必ず、「気をつけてください。」のラインが入っていた。週に何回かは、社長の家に招いてくれて、朝ご飯をごちそうしてくれていた。辺鄙な田舎にある社長の家で、奥さんの家庭料理を頂くたび、田舎ならではの温かさというか、そういうものに触れた気がした。
 飲み会の頻度がやたら多かったのも、社長が不器用なりにもできるだけ多く社員とコミュニケーションをとりたかったからだろう。
 日頃のクソみたいな現場仕事で疲れた私たちをねぎらいたかったからだろう。

 社長の粗い言葉使いや、当時シャレの域ではないと思っていた強烈な平手やジャブなども、明らかに不器用な社長なりの愛情表現だったのだろう。
 飲みの席で、ひたすら社長ばかりがしゃべっていたのも、誰かのことをネタにしては笑いを取ろうとしていたのも(やり方は非常識でも)、それで場が盛り上げると考えたからだろう。
 決して弱音を見せなかったのは、社長という体裁を守ることが会社の利益になると考えたからだろう。

 社長の、数えきれないほどの、粗っぽい言動の裏にある、社長なりの思いやりのようなものは確かにあったんだろうなと思う。
 パワハラの一言で片づけられてしまうような人間の陰には、案外人に知られていない、お粗末だけれど人間臭い暖かい感情が隠れていることもあると思っていて、それをほんのちょっとでもすくい上げてみたかった。

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