きっかけは、クラスの端っこで太郎がつぶやいたひとことだった。
「あのゲーム、好きなんだ」
直哉は思わず振り返った。
太郎が口にしたのは、流行りのタイトルじゃなかった。
ランキングにも出てこない、知る人ぞ知るやつだった。
「え、やってんの」
「やってる。面白いよね」
それだけで、話が止まらなくなった。
太郎の家に、よく行くようになった。
両親は仕事で帰りが遅い。
夜の八時、九時になることがほとんどだと、太郎はさらっと言った。
さらっと言った。
だから、引っかかった。
でも太郎は気にした様子もなく、「気にしないで上がって」と言うのだった。
玄関に並んでいる靴は、いつも二足しかなかった。
太郎のと、直哉の。
大人の靴は見当たらない。
太郎と遊んでいると、不思議と居心地がよかった。
コントローラーを握って熱中していると、ふと喉が渇く。
すると太郎が言う。
「お茶でいい?ジュースとかないんだ」
お腹が鳴りそうになると、太郎が先に言う。
「ごめんね、うちあんまり食べるもの置いてないんだ」
同じゲームを一時間やって、そろそろ飽きてきたかなと思うと、太郎が画面から目を離して言う。
「こっちやる?」
ゲーム中でも、太郎はチラチラ直哉の顔を見ていた。
何かを読んでいるというより、体に染みた癖みたいに。
最初は、気が合うのだと思っていた。
三ヶ月ほど経ったある日のことだった。
太郎がまた、先に言った。
直哉が何も言っていないのに。
「今週、あれ見に行く?」
隣の街の小さな店で、あのゲームのイベントがあるらしい。
直哉は行きたいと思っていた。
話題に出そうか迷っていた。
直哉は笑いながら言った。
「心読まないでよ」
冗談のつもりだった。
でも太郎は笑わなかった。
コントローラーを膝に置いて、少し間を置いてから言った。
「誰にも言わないでほしいんだけど」
冗談が引っ込む顔だった。
太郎の話はこうだった。
人の頭に浮かんでいることが、なんとなくわかる。
言葉じゃなく、イメージみたいなやつが。
映画みたいに、脳に直接声が届くとかじゃない。
もっとぼんやりした、輪郭のない感じ。
でも、慣れてくると当たりやすい。
「信じてないよな」と太郎は言った。
「正直、ちょっとね」と直哉は言った。
「でも、太郎が嘘つくとも思ってないよ」
太郎はうなずいた。怒らなかった。
「そうだよな」とだけ言った。
直哉は、太郎の目を見た。
いつもみたいに、チラチラではなく。
逃げない目だった。
「コツってあんの」
気づいたら、直哉は聞いていた。
太郎のコツはシンプルだった。
聞こうとしない。
言葉を待たない。
当てにいかない。
ただ、頭の中を静かにしている。
「聞くんじゃなくて、向こうから来るイメージを受け取る感じ」
「誰でもできるの」
「練習すれば、たぶん」
直哉は、もともと空気が読めるほうだ。
怒っているとか、不安だとか。
そういう輪郭のないものなら、言葉より先にわかることがあった。
太郎はそれを、もう少しだけ手前から拾っているように見えた。
最初の数日は、何も変わらなかった。
母親が台所で何かを言いかけてやめたときも、直哉には何も来なかった。
父親がテレビを見ながら鼻で笑ったときも、笑っているのか苛立っているのか、いつも通りわからなかった。
直哉は「全然できない、本当なの」と言いそうになって、言うのをやめた。
太郎は「できないって思った瞬間に、頭がうるさくなる」と言った。
「頭がうるさいって何」
「いま、直哉くんの中で、説明が始まってる」
それは確かにそうだった。
できない理由を並べて、先に終わらせようとする声があった。
太郎の家で、ゲームのロード画面を眺めながら、直哉はぽつりと言った。
「サイキック太郎」
「やめろよ」
太郎は笑った。
笑ってから、少しだけ真面目な顔になった。
「でもさ。これ、便利って思ったら、たぶんズレる」
「ズレる?」
「当てたいってなると、相手が見えなくなる」
直哉は、その言い方が妙に引っかかった。
便利と、相手が見えなくなる。
繋がらないはずなのに、繋がっている気がした。
イベントの日、二人は放課後に店へ向かった。
店の前は思ったより混んでいて、知らない人の声が近かった。
直哉は楽しいはずなのに、胸のあたりが少しだけ固くなった。
列の間で、体が落ち着かない。
太郎が直哉の横顔を見て、すぐに言った。
「外、出よっか」
「え、でも」
「人が多くて苦しいよね、無理することないよ」
太郎は当たり前みたいに言った。
直哉は「わかったの?」と言いかけて、飲み込んだ。
店を出ると、空気が急に広くなった。
直哉は自分の呼吸の浅さに気づいた。
「悪い」
「悪くない」
太郎はペットボトルを差し出した。
「ほら。飲め」
直哉は受け取って飲んだ。ぬるかったけど落ち着いた。
「なんでわかった」
太郎は少し考えてから言った。
「わかったっていうか。直哉くん、目が細くなってた」
「それ、テレパシーじゃなくね」
「そうかもね」
太郎は少し笑った。
直哉は、その笑い方が軽くないことに気づいた。
笑いながら、ちゃんとこっちを見ている。
その帰り道、直哉は試したくなった。
「じゃあさ。俺がいま何考えてるか当ててみて」
太郎は立ち止まって、直哉を見た。
「当てにいかないって言ったでしょ」
「冗談だって」
直哉は笑った。
けど、どこかで本気だった。
太郎は一拍置いてから言った。
「当てようとすると、自分の考えを押し付けるようになる気がする。そもそも本当にあってるかなんかわかんないから」
直哉は何も言えなかった。
言い返せる言葉はあった。
けど、言い返すと自分が軽くなる気がした。
それでも、少しずつ変わった。
言ってることが少しわかってきた。
ある日、二人でマンガを読んでいた時、カレーが頭に浮かんだ。
最初は自分が食べたいからだと思った。
なんとなく太郎に聞いてみた。
「今、カレーのこと考えた?」
自分の考えだと思ったものが太郎から来たのではと思った。
話している時、体が熱くなった。
「うん、今朝母さんがカレーにするって言ってたから」
「自分で考えたかと思った」
「たぶん、みんなそう思うんだよ。そう思うのが普通だよね」
直哉は、ふと思い出した。
父親が「あそこ、行こうか」とだけ言う。
それだけで母親が上着を取ってくる場面。
頼んでいない。説明もしていない。
ただ、そうなる。
長く一緒にいると、言葉になる前のものが届くようになるのかもしれない。
みんな、知らないだけで、やっているんじゃないかって。
ある日の昼休み。
窓の近くの席で、片桐さんが一人でいた。
笑っていた。スマホを見て、笑っていた。
でも直哉には、変な感じが残った。
画面をスクロールする親指が、同じところで何度も止まった。
直哉と太郎は顔を見合わせた。
「どう思った」太郎が聞いてきた。
「好きな芸能人が結婚とかしたかも」
「僕もそう思った」
でも確認できなかった、2人とも仲良くなかったから。
「ほら、あまり役に立たないだろ」
帰り道、直哉は太郎に聞いた。
「でも最近太郎の考えてることはなんとなくわかるよ」
「僕も、直哉がかわいい女の子だったらいいのに」
「気持ち悪いこと言うなよ」
太郎は少し笑った。
「心開いていない相手は、わかんないんだよな」
ある日、直哉は確認するように聞いた。
「うん。でも開いてないことはわかるよ。それでいいじゃん」
「そんな便利なものでもないじゃん」
「そうだよ」
太郎は笑った。
「別に人の心わかりたいわけじゃないし。」
直哉はその言葉を、頭で理解しようとしてやめた。
頭で掴むと、また騒がしくなる。
週末に太郎の家に泊まりに行った。
今日も飲み物を聞いてくる。
「何がいい?」
「……まだ言ってないだろ」
「顔に書いてある」
直哉は笑った。
たぶん違う。
顔じゃない。
時計を見た。
九時を過ぎていた。
太郎の親は、今日もまだ帰っていない。
太郎は、キッチンで湯を沸かしていた。
音が小さかった。やかんの湯気が、部屋の明かりに溶けていく。
直哉は、その背中を見ていた。
ひとりの時間に慣れた背中だった。
太郎が振り向いて、直哉を見た。
いつもみたいに、こっちを見ていた。
直哉はふと聞いた。
「太郎さ」
「ん?」
「俺の考えてること、今わかる?」
太郎は少しだけ考えた。
それから言った。
「わかんない」
「え」
「直哉くん、知られたくないでしょ」
直哉は何も言わなかった。
外では、誰かが笑っていた。