「信じてたのに裏切られた」──ドラマや小説ではお馴染みの台詞です。
けれど、その「信じる」とは一体なんだったんでしょうか。
多くの場合、それは「相手を信じていた」のではなく、
「自分の期待どおりに動け」という監視と束縛です。
「信じる」という名の取引
「君を信じてるよ」
耳障りはいいけれど、例えば職場でこんな人はいませんか。
私の期待を裏切るな
私のシナリオどおりに動け
私を失望させるな
ほんとにこんなふうであれば、信じてないだろ(笑)と思いますよね。
それは小さな脅迫、善意につけ込んだコントロールだと感じます。
自分の期待が壊れただけなのに
部下が失敗したとき、子どもが思うように育たなかったとき、
「裏切られた」と憤慨する人がいます。
だがその瞬間、露呈するのは「信じていた相手」ではなく、
「自分の描いた都合のいい物語」だったと気づかされるだけです。
裏切られたのではない。
勝手に期待を抱き、勝手に壊れただけ。
本当の「信じる」は、なんだろう
もし、あなたが信じると決めたなら、
相手が変わらなくても、結果が出なくても、それでも信じ続ける。
そこに見返りもドラマもない。
ただ、自分の不安や疑念と戦いながら、静かに信じ続ける。
それができる人だけが、本当に「信じている」と言えると考えます。
あなたはどうですか?
あなたが今まで口にした「信じてる」は、
相手を信じていた言葉ですか?
それとも、私の期待を裏切るなという鎖でしたか?
でも、そんなのはどちらでもいいんです。
問題があるとすれば、自分のしていることに気づかないことです。