キリスト教では、プロテスタントでも、カトリックでも、
『キリストは、100%神であり、同時に100%人間でもあられる。』
と理解されています。
キリストは一度人間としてお生まれになったので、肉体をまとった人間の弱さをよくご存知で、人間の弱さに理解があり、寛大なお心で人を赦してくださいます。
また、キリストは、神でもあり、王でもあり、それでいてなお、わたしたちの親しい友達でもあられます。
カトリックでは、『王であるキリスト』という言葉や主日があるのですが、キリストは、一般的な地上の王とは、大きく異なった王であられます。
これまで多くの方が見たこともない王の姿が、聖書に描かれています。
力で威圧や抑止をしない王。
剣(武器)を捨てる王。
一番低い身分までへりくだられた王。
弱くされた人に優しい王。
自分を守るために誰かを犠牲にするのではなく、真っ先に自分が十字架刑にかかられた王。
王という漢字を見てみると、主(しゅ)という漢字によく似ています。
僕は漢字学者ではないので、これがどのような意味を持つのか分からないのですが、王も、主も、キリストによく合った漢字のように感じます。
キリストは、権威や力で人を癒すのではなく、自らの傷で、人を癒してくださるのかもしれません。
命まで捨てられたイエスさま(キリスト)の深い傷と苦しみが、わたしたちを深く、癒してくださいます。
キリストがもし精神科医療者だったら、どのような治療をなさるでしょうか。入院治療はどのようでしょうか。通院治療はどのようでしょうか。もしかしたら、キリストが精神科医療者だったとしたら、医療者であることを放棄して、イエスさまも、精神障がいの当事者になられ、多くの人の友達になってくださったかもしれません。
今回は最後に、聖書からの引用です。
イザヤ書 53:1-5 JA1955
[1] だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。 [2] 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。 [3] 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 [4] まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 [5] しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
聖書 口語訳:(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1954,1955
ピリピ人への手紙 2:6-11 JA1955
[6] キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 [7] かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 [8] おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 [9] それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 [10] それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 [11] また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
聖書 口語訳:(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1954,1955