AIが人間の力を超えるとか、その比較がおかしいってのもあるんですが、例えば、ある特定のタスクにおいて「世界の国名で、「あ~お」で始まる国はいくつある?」とかって、人間やることではない・・って思うんですよね。あ、そういう仕事をしている人がいたらごめんなさいですけど。あと、そういうことを人に求めるとか、状況があるかもありますけどね。仮にあるとして。
こういう時、
・AIができること、または得意なこと、コストがかかりづらいこと
・人間ができること、または得意なこと、コストがかかりづらいこと
・両者ができること
・両者ともに苦手なこと
みたいな分け方はありですね。
コストとかも得意とかもできるとかも、人それぞれなのでここらへんは抽象化するしかないんですよね。
今回は、先回のネタに近いですが、では、AIの方が適切だと思ったらAIに任せるんじゃないかって説です。これによって、「AI」がないときは、「その人」に来ていた話や相談や仕事が「AI」になります。つまり、その人からしたら「AIに仕事を奪われた」となるのですが、実際には「AIに任せるほうが楽なので、あなたは要らないです」と言える人はなかなかいないはずなので、違う形で断るんじゃないかと。
自分の客観視や出来ることの棚卸しは多分必須になる
まずここです。自分が何が出来て、どういうことを提供できるか。これってまあ大変というか難しいのは分かるんですよ。ただ、考えてないからわからないですとかだと、AIに負けるというか、「AIにお任せする」と言われたときに「学んでないからそうですよね」みたいな話に近いと。
考えてない=学んでないはやや乱暴ですがほぼ同義といえると。能力として何かとか、先天的な何かはここで横にしつつも、誰しも自分のことを考えることはできるという前提です。そのうえで、その精度や得意不得意はあるよねと。そこは考慮しています。
そうするときに、客観視スキルが「高く」ないと駄目だ!ということでなく、スキルなんておいておいて「考えて」いるかだけなんですね。そうすると、なんとなくでもこうかな、どうかなが分かる。または少なくとも「AI」を使ってみて「なるほど」と思えたり「ここは違うな」とか思える。つまり「AIにびびる」のでなく「AIを使う」側になれるんですね。
別に、これ資本家になって労働者をこき使えみたいなことではなくて(笑)AIって一応人ではないので、そこらへんを踏まえつつも。
で、この棚卸しとか、自分がこれできるとかがわかってないか、言えないと、AIは総合力でゴリゴリ押してくるので、まあAIと勝負する時点で負けなわけですよね。勝ちたいってのは分かるんですが、AIに勝っても意味がないと思ってて、そりゃ創造とかなら勝てると僕は思っていますがそれも意味がない。ここで大事なのは、仕事などをしっかり受けたり回したり、または世の中や社会に役立つみたいな視点ですかね。で、AIがあるだけなら道具として使えばいいじゃないですかってことですね。
過度にAIを恐れる人は、多くはAIを使ってなかったりしますので、ここを差し引いて考えると、単に自己分析や自己認識、とくに自己学び認識が低いのではにかっていう感じがするという意見です。
AIと比較された時に人は学ぶことでカバーできる
仮にAIと比較された例えば「文章作成」が弱いとされたとしましょう。この場合あなたはライターだとして。
その時、AIも学習していきますが、当然AIは人間の学習があってこそです。ここで勝手に学習できるか問題がありそうですが、多分きついか、それが出来たら「学習」の概念自体が変わるので、もうちょっと偉い人に考えてもらわないと分からないですね。一旦それはないと。
人は学習が可能です。例えば「こうしてください、こうするには?」などに対して、優秀なライターは多分応じられる。優秀ではないライターだとそうではないわけですが、そういう人は仕事の質も低いので、AIの補佐みたいになると。これ逆ですよね、本来は人間の補佐であるので。ここでもAIに使われるのか、AIを使うのか。二択ではないんですが、ここでも学習が出てくると。
学ぶとは、ある種「創発」で、今までとは違うんだぜ「本気出すとすごいんだぜ」的な、ある日突然変わるみたいなことです。いや本当に小さいことでもそうなるのが学びの面白さです。アイデアもそういう面がある。これは無理だと思ったらできることもあった、いやできた、できちゃったというか。そういうのは超楽しいわけですよ。
人は学べるからこそ、またその学びコストもAIより圧倒的に安いというか。あと人間がそもそも学ぶことで楽しいはずなんですよ。未知を知るだけでもいいけど、「あーこういう人はこういう発言するぞ」とか。もちろんバイアスもあるので、全部それが「正しい」とかではないんですよね。感情もあるから、ニコニコした優秀ではないライターのほうが、無愛想な優秀なライターよりも仕事を「できる」かもしれない。こういうのは結構あるんじゃないかと。人ですからね、依頼者も。
AIをうまく使って価値を創っていく
着地はこうなります。AIはやはり人が使ってなんぼと。
なのですが、人間が今やっていることが「置き換わる」部分が出てくると、ちょっと待てよって人も多くなる。社会的に動揺が走る。
すると、仕事がなくなるとかになるんですが、仮に1000の仕事があって、10しかないと、10の仕事をやれる人は限られる。となると、仕事でお金を得ることが困難になるので、そもそも仕事の対価でお金を得るという考えが古くなる。当然社会が経済で回る感覚を得ている人は多いのでそのアップデートか、あとは、AIのメンテナンスとかが膨大にあればそっちを。でも、世の中で同時に起きるとなると、これをどう考える人がいるかは分からないんですよね、正直。
そしてもっと小さく言えば、自分についてですよね。AIでできることが多い、仕事がなくなる。はい、ここでなんで人は生きているのか?などの哲学です。ここはもっと考えられていいと思いますが、そんなめちゃくちゃ意味はないと僕は思っています。楽しいから何してもいいとかはないですが、なんというか、使命とかって意味づけなので、「意味は作れる」けど、それって究極は自分勝手なものだなと。なんで生きてるんですか?っていわれて即答できる(ここでは人生の意味を問う)人ってなかなかいないですからね。
そこをミッションとかビジョンがこれでと僕は言っていますが、それもまあ説明、理屈っぽいけど、でも直観やなんとなくこっちかなが近い。それを説明したほうがいいけども、理解するのって結構頭でしかないので、このあたりは一生考え続けるところなんでしょうね。
少なくとも、自分が価値があると固執してしまうときに、例えばそれが仕事の価値とかになると、AIで一気に足元持ってかれるかもということです。むしろないのであれば、AIが来ても大丈夫です(笑)仕事の心配でなく、「お金の心配」であり、もっといえば「生きていく心配」ですよね、多くの人は。そして多くの人はほどほど稼いで生きていければいい(一部の欲が強い人は別ですが、これはごく一部じゃないかとすら感じてます)ので、それがどうなってくか。僕も分からないですが、明るくなるように今後も考えていきたいですね。