おはようございます。
今日は、いろんな情報を見ては、正解探し、マニュアル探しをして必死だったあの頃の自分にも言い聞かせたい話をしたいと思います。
昔から恋愛や健康など、ハウツー本や知識に興味を持ちがちな私。
20代後半に体調を崩しはじめて、生活にも支障をきたすようになりました。最寄駅で何人もの人が人生を終えることが続いていて、それに引っ張られてしまったのか、共鳴してしまったのかはわからないけど、自分の中でも「死」という考えがちらつくようになっていました。
そんな思いを、たまたま姉に電話で話したところ
「飛び込まないで」
「カウンセリング受けなよ」
そう言われて、カウンセリングに通い始めました。
そこで心理学の中でも、認知行動療法やアドラー心理学などを学び、彼との生活や、福祉の仕事の利用者さん、職員との人間関係で実践しながら、習得していったのを覚えています。
それでも、なんとなく自信のなさが残っていて、隙間が空いているような、落ち着かない感じがありました。
そこで、他の方の心理学系の講座を受けた私。
いいところも悪いところも含めて、自己愛を高めて、自分を認めていくことを学んでいきました。
そしてココナラを始めて、それまで心理学で学んできたことを次へ繋ごうと、傾聴やアドバイスをさせていただくようになりました。
お客様からいただく反応を見て、ほっと安心して、それを励みにココナラを続けていこうと思えました。
お客様との対話の中では、過去の自分の人生の中で聞かされてきたことなどが、ふと、するっと言葉に出てくることがあります。
それは、過去の自分との答え合わせにもなっているように思います。
今日は、その「聞かされてきたこと」の一つに関係する、日曜学校について少し話してみようと思います。
私は幼児期から小学校まで、日曜日になると近所の子たちと一緒に、お寺に遊びに行ってました。
それは「日曜学校」と呼ばれていて。
日曜日の8時半から9時ごろまでだったり、日によってはもう少し長かったり。
いつどうやって辞めたのか、今になって急に疑問に感じましたが、おそらく私はアニメが好きだったので、日曜朝8時半に好きなアニメが放送されるようになった頃をきっかけに、日曜学校に行かなくなったのかなと思います。
(ニチアサのマーマレード・ボーイ世代)
その日曜学校では、お寺ですから、お経をみんなで唱えます。子どもですから、お経の意味は正直わかってません。
子どもたちが正座をして、お釈迦様がいる方向を向いて、同じお経が書かれたコピー本を見ながら唱える。
このお経が書かれた経本を、いかに見ないで言えるかが、当時の静かなマウントというか、自信を持つきっかけだったように思います。
そのお経を読む前後は、20代から30代くらいのお坊さんが、子どもたちと遊んでくれました。一人の日もあれば、二人の日もあったような。
保育士さんのように、紙芝居をしてくれたり、オルガンで歌を歌ってくれたり。
お茶やお花を習う時間もありました。
あれで何を学んだんだろう、と思うことがあります。でも今思えば、ものも、人も、時間も、場所も大事にすること。
当たり前だと思うことに感謝する気持ち。人も自分も信じる気持ち。そういうものが、自然と育ったように思います。
「こうしなさい」と厳しく教えられた記憶はないけど、そういう時間の中で、自然と身についたものもあったのかなと思います。
人は、自分が聞いてきたことを、見てきたことを人に言いがちだし、動いてしまいがち。20代後半くらいから、そう感じるようになりました。
もちろん、それを反面教師にして、「自分はこういう伝え方をしよう」「こういう行動はしないようにしよう」と変えてく人もいると思います。
でも、そうやって意識して変えてる人でさえ、言われてきた言葉や、やられてきて嫌だった行動を、無意識のうちに繰り返してしまう可能性を秘めてます。
だから、他人や自分の嫌なところや、感情的な言動を見たときに、
「ああ、そうやって怒られてきたんだな」
「ああ、そうやって親が行動していたんだな」
と思うことがあります。
私に向けて怒っているように見えても、もしかしたら、それだけじゃないのかもしれない。
思い通りに動いてくれなくて、そういう言動が出てきてるのかもしれないなって。
そんなふうに、一歩引いて見られるようになりました。
そして、私は「欲しい時ほど、欲しいものは手に入らない」と感じることがあります。
でも、そのための準備をしていくと、これだっていうものに出会えたり、気づけるようになる。過去の自分の出来事が、答え合わせになることもあります。
だから、ネットや本にはたくさんの情報が溢れているけど、それを全部、自分の答えにしなくてもいい。
健康でも恋愛でも、同じことについて「これはやめたほうがいい」という人もいれば、「これがいい」という人もいますよね。
人によって、意見や見解が全く変わることもあります。
そんなとき、人の意見を聞きすぎる癖があると、その極端な選択肢の間で、ずっと彷徨い続けてしまいます。
「どうしたらいいの?」と誰かに確認したくなるし、指示を出してほしくなる。そうしてまた誰かが必要になっていく。
もちろん、人に頼ることはあっていいと思います。
一人で背負い込んで動けなくなってしまうのは、心にも体にもよくありません。
私が今伝えたいのは、人の意見を聞かないようにしよう、ということではありません。
誰かの意見や情報を受け入れすぎて、「どちらが正しいの?」と比べ続けているうちに、あなたの心が、あなたの心なのに、後回しになっていないかな、ということです。
わたしはこれが心配で、よくお客様にもお伝えしてます。
相手の意見を聞いたとき。
あなたはどう感じましたか?
本当はどうしたかったのですか?
ここに戻ってきてほしいなと思ってます。
そして、これは心理学の考え方についても、同じことが言えるのではないかなと思います。
心理学や精神医学の歴史を見ても、一つの考え方だけですべてを説明できるわけではありません。
たとえば、フロイトとユング。
二人は1907年に初めて会ったとき、意気投合してなんと13時間も話をしたそうです。初対面で13時間。すごすぎませんか。
その後も二人は一緒に活動して、1909年にはアメリカへ渡って講演することもあり、かなり近い関係にありました。フロイトは出会って間もないユングを、自分の後継者として考えていたそうです。
でも、ずっと同じ考え方だったわけではありません。
人間の心をどう捉えるのか。少しずつ考え方の違いが大きくなり、出会いから約7年後には、二人の関係は決別へと向かっていきます。
13時間も語り合って、後継者とまで考えられて、一緒にアメリカまで行った二人が、それでも最後には別々の道を歩むことになった。
私はこの話を知ったとき、人ってどれだけ近い関係になっても、同じように物事を捉えるとは限らないんだなと思いました。
どちらか一方がすべて正しくて、もう一方がすべて間違っていた、という話ではありません。
人の心について深く考えた巨匠の二人でさえ、それぞれの考え方があり、最後まで同じ答えにはならなかったということです。
それでも二人の考えは、今も心理学や精神医学の歴史の中で語り継がれています。
そう考えると、心理学の理論だって、誰にでも当てはまる正解というよりは、自分を知るための一つの材料なのかもしれません。
最後まで見てくださってありがとうございました。
今日も素敵な一日になりますように。
Love yourself , Love myself 🐈🐈⬛