【小説】melting of snow ‐六花の伝承‐

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はじめに

 本書は、北方に存在する、とある地域の説話、口承文芸を後世に残すべく制作されたものである。この地域は、一年の大半を雪と氷に覆われている。その様子から、隣接した地域より「雪原の民」「氷の地」などと呼ばれることもある。
 その異名に違わず、ここでは「雪」「氷」に関する説話が多く散見されている。雪や氷には(その性質の良し悪しにかかわらず)精霊、妖精が宿っていると信じられ、彼らの存在を口承によって伝え続けてきた。また、単に精霊、妖精と言われる時には、雪(氷)の精霊のことを指すほど、魔力をもつ生物のなかでは身近なものであった。
 しかし現代では、様々な要因からこの重要な文化の継承者、いわゆるシャーマンと呼ばれる者が不足している。後継者選抜の厳格さ、少子化による地域語話者の減少や、シャーマンの素質を持つ人の発見が、年々困難になりつつあるのである。
 また、伝承者側の高齢化もひとつの課題となっている。現在この地域で確認されている伝承者の最年少年齢は七十八歳。このままでは、地域の貴重な文化遺産が途絶えてしまうだろう。
 このことに危機感を覚えた筆者を含め数名の有志によって、十年前よりこの地域で口承されている物語を収集し、書き記すことを始めた。
 説話を保持するシャーマンたちの中には、その文芸の性質上か、声で継承していくことに意味があるとし、物語を文字、文章として残すことに抵抗感を示す厳格な者も少なくはない。それでも幾人かのシャーマンたちが、名を伏せることを条件に彼らの話を文章として書き記すことを同意してくれた。この場を借りて彼らに感謝を申し上げる。
 前口上はこれくらいにしておいて、この北方地域に伝わる精霊の物語、その断片の幾つかを読者にお見せすることにしよう。

1.精霊払い

 息子よ、娘よ、そのまた子供たちよ、よくお聞き。今から悪い精霊に出会ってしまったらどう切り抜けたら良いか、その方法を教えるから。


 昔、意地の悪い雪の精霊が住んでいるということで有名な山があった。山のふもとにある村の人たちは、いつもその精霊たちに困らされていた。彼らは人間を惑わせ、その魂を連れ去ってしまうのである。
 村人はほとほと困り果て、フオルクという老人に相談した。彼は村の中でも特に力のあるシャーマンであった。この世のこともあの世のことも、何でも知っていたのだから。
 フオルク爺さんは言った、「もしも雪の中で精霊の声を聞いたのならば、お前の持っている松明でつついてやりな。燃える炎のあまりの熱さに、精霊たちは嘆いて逃げ出すだろう」


 このような助言の後、村の男が狩りから帰ってきた時のことである。
 狩りで得たカリブーを手に彼が家路に向かっていると、美しい女の声が、白い風の向こうから聞こえてきた。
「旦那さん、旦那さん」
「おや、そこに居るのは誰かね」
「隣の村よりやってきたものです。道に迷い、夫ともはぐれてしまって」
「それは気の毒に」
「夫を探している内に、足をくじいてしまって、ここから動けなくなってしまいました。どうか助けてはくれませんか」
「分かったよ」
 しかし声のする方へ歩けども歩けども、女の姿は見当たらない。冷たい吹雪が増すばかり。
「おい、お前さん! 一体どこに居るんだね。声はすれど、姿がどこにも見当たらないじゃないか」
「もうすぐ先です、旦那さん! もうすぐ先に座っていますよ」
 こう女は言うのだが、男は怪しんだ。
 男は手にしていた松明に火をつけて、声のする方へぶん投げた。すると女はギャッと叫び、それ以上声は聞こえなくなった。心なしか、吹き付けるような吹雪も穏やかになったような気がした。
 男が投げた松明を拾いに行くと、そこには小さな水たまりの跡と、薄い氷で出来た羽の破片が散らばっていた。そこで男は、あの女の正体が雪の精霊、悪い妖精だったと分かった。


 しばらくの間、精霊は人間の前には現れず、村も平和であったが、その後また悪戯をし始めた。今度は火のそばにいない者が狙われた。困り果てた村人は、またフオルク爺さんに相談した。
 フオルク爺さんはこう言った、「もしも火のない冬の日に、精霊の声を聞いたのならば、そこら中の雪をかき集め、作った雪玉を相手にぶつけてやりな、まじなう言葉のおまけをつけて。清めし雪のあまりの力に、精霊たちは喚いて逃げ出すだろう」


 このような助言の後、村の子供たちが外で遊んでいた。
 雪が降り積もって出来た小高い白い坂を上っては、そりで滑って遊んでいた。するといつからいたのだろう、知らない家の子供がひとり、一緒に遊びに加わっていた。
「見たこともない、聞いたこともない子がいるぞ。お前は一体どこの子だい?」
「君のお家の、ずっと後ろの方の家、そこの斜め前の家、その隣の家の子だよ」
「名前も知らない、顔も知らない子がいるぞ。お前の友だち、一体誰だ?」
「君の友だち、そのまた友だち、その父さんの妹の、そのまた従兄弟の友だちさ」
 子供たちは怪しんだ。顔を見合わせ、一斉にその子をなじり始めた。

 ――誰だ誰だ、知らない子誰だ!
 ――誰だ誰だ、言えない子誰だ!

「遊ぼう、遊ぼう、遊ぼうよ! 向こうに高い滑り場があるよ」

 ――誰だ誰だ、知らない子誰だ!
 ――誰だ誰だ、言えない子誰だ!

「遊ぼう、遊ぼう、追いかけっこしよう! 初めの鬼は手を挙げて」

 しかし、賢い子供たちは耳を貸さなかった。シャーマン爺さんの言いつけ通りにまじないを唱えながら、白い雪を投げつけた。

 ――人を騙す妖精よ
 ――性根の悪い精霊よ
 ――お前のことなどお見通し
 ――消えろ、消えろ、立ち去れ!

 すると、誰も知らない家の子供は、ギャッと喚いて、本当の姿を現した。その子供はやはり私たちを騙す、悪い精霊だったのだよ。精霊は知っているものになら何にでも、自分より大きな身体の人間にさえ、化けることが出来るのだ。
 醜い雪の精霊は勇敢な子供たちに退治され、自分の生まれ育った山の方へと、急いで逃げ帰っていった。
 こうして、その村はもう意地悪な精霊に騙されることもなくなった。フオルク爺さんのおかげで、精霊に連れ去られてしまう人もいなくなったのさ。


 私の息子よ、娘よ、そのまた子供よ、お前たちも、もし悪い精霊に出くわすようなことがあったなら、こうやって精霊を追い払うのだよ。

 ――人を騙す妖精よ
 ――性根の悪い精霊よ
 ――お前のことなどお見通し
 ――消えろ、消えろ、立ち去れ!



2. ネグゥと雪の精霊

 息子よ、娘よ、そのまた子供たちよ、よくお聞き。今から、悪い雪の精霊がどんな意地の悪いことをするのか、善い人間にどんなひどい仕打ちをするのか、その恐ろしさを教えるから。


 昔、あの山の向こう、小さな村の外れに、ネグゥという女の子が住んでいた。
 ネグゥには父親も母親もいなかったが、歳の離れた兄がいた。兄はよくネグゥに、こう言い聞かせていた。
「いいかネグゥ、よく冷える雪の日には決してひとりで外には出るな。もしも雪の精霊がひとりきりのお前を見つけたら、きっとあの怖い山のなかへ連れ去ってしまうだろうからね」
 毎日狩りをしに兄は出かけていった、その身にカリブーの毛皮を纏って。その間、妹は兄の帰りを、針仕事や食事の準備をしながら、いつもひとりで待っていた。
 その日は仕事が早く終わり手持ち無沙汰になったので、炉のそばに座り、炉の縁を棒で叩いて拍子を取りながら歌を歌っていた。
 すると外から、御免下さい、と呼ぶ声がする。
 呼ばれたと思って出て行ってみると、そこにはネグゥと同じくらいの歳の娘が立っていた。肌は不気味なくらい青白かった、まるで血が通っていないのではないかと思われるほどに。
「御免下さい、御免下さい。ここで少し休ませて貰ってもいい?」
と、言われたので、
「どうぞ、どうぞ。いくらでも休んでいって」
 そう言って、ネグゥは暖かい炉のそばを勧めたが、娘は少し離れたところに腰を下ろした。
 しばらくの間、ふたりは年相応の話をしていたが、ネグゥが兄のことを口にすると、白い肌の娘は彼についてあれこれ聞いた後、驚いたように言った。ネグゥの兄と似たような背格好をした男が、雪の精霊と一緒に居るのを見たらしい。ネグゥは不安になった。
 そこで、その娘に兄をどこで見たのか聞いてみると、見かけた場所へと案内してくれるということになったのだった。


 白い風がびゅうびゅう吹いている。凍えるような寒さのなか、ネグゥは娘の後をついていった。
 しかし、行けども行けども兄の姿は見つからない。それどころか、悪夢のようにちらつく雪の青白い影ばかりが、変わることなく永遠と流れ続けている。
 ネグゥは白い肌の娘に尋ねた。

 ――ねえ、ねえ、もう着いた?
 ――兄さまの、居るところ

 すると、白い肌の娘は、

 ――まだ、まだ、まあだだよ!
 ――も少し先の、雪のなか

 歌うように答えて、ネグゥの手をひいた。その娘の手のひらは、手袋の上からでも分かるほど異様に冷えている。
 それからまたしばらくの間、ふたりは歩きつづけた。しかし吹きつける風に逆らえども逆らえども、兄の姿は見つからない。
 ネグゥは白い肌の娘に尋ねた。

 ――ねえ、ねえ、もういいかい?
 ――兄さまの、居るところ

 すると、白い肌の娘は、

 ――まだ、まだ、まあだだよ!
 ――も少し先の、風のなか

 歌うように答えて、ネグゥの手をもう一度ひいた。ネグゥの身体は芯まで冷えているというのに、娘は平気そうな様子でネグゥを連れていく。

 ――ねえ、ねえ、もういいかい?
 ――まだ、まだ、まあだだよ!

 繰り返す問いと答えのなかで段々疲れてきたネグゥは、自分が今どこにいるのか、何をしようとしているのか、分からなくなってきた。さっきまで冷たいと思っていた娘の手のひらが何とも思われないほどに、自分自身も冷えきっている。

 ――ねえ、ねえ、もういいかい?
 ――もう、もう、もういいよ!

 白い肌の娘の答えがやっと変わった、その時には、もう既にネグゥの足は少しも動かせなくなっていた。ネグゥは雪の上に倒れこんだ。白い肌の娘はネグゥをどうにかして起こそうとした。
 ネグゥは眠くて重そうな瞼をどうにか開き、吹雪の音にかき消されそうな声で、白い肌の娘に尋ねた。
 ――兄さまは?
「ほら、あそこ。雪の霧の向こうから、あなたに手を振っている」
 そう言うが、白い肌の娘が指をさした向こうには誰も何もいなかった。
 しかしネグゥはそこに兄の幻が視えたのか、嬉しそうに笑ったまま、息絶えた。ネグゥは自分が死んだのだということも分からずに死んだのだ。
 白い肌の娘はネグゥが死んだのだと分かると、彼女の魂を奪ってあの山の向こうへと消えていった。白い肌の娘の正体は悪戯好きの意地の悪い妖精だったのだ。帰ってきた兄は、雪のなか魂の奪われたネグゥの身体を見つけ、悲しみに打ちひしがれて泣いた。
 連れていかれた魂は妖精の国の灯りとして使われ、休むことなく彼の国を照らし続けさせられるのだという。その苦行は魂が擦り切れて消滅するまで続くのだ。ああ、恐ろしいことだが、ネグゥはそのひとりになってしまった。


 息子よ、娘よ、そのまた子供よ、お前たちは悪い精霊に騙されてくれるなよ。さもないと、自身は死んでも苦痛を味わうことになり、親や親戚、友人知人を悲しませることになるだろう。心の清い、魂の清いものほど、精霊たちは攫いたくなるのだから、騙されることのないように。
 息子よ、娘よ、その子供たちよ、これだけは心に刻んでおいておくれ。



3.マースと雪の精霊

 息子よ、娘よ、そのまた子供よ、よくお聞き。今から、英雄マースと雪の女王との出会い、そして雪の魔女との戦いについて話し始めよう。
 聡いとはどういうことなのか、善い魂とはどういうもののことを言うのか、その清さを教えてやろう。


 昔、まだ英雄と呼ばれるものはおらず、雪の女王が王女であった頃、あの山の向こう、小さな村の外れに、マースという青年が住んでいた。
 マースの両親は既に亡くなっていたが、彼の元には年の離れた幼い妹がいた。マースはたったひとりの家族のことを、それはそれは大事にしており、どんな格好をしても可愛らしいと思っていたが、特にその髪は美しく、髪を結ぶ飾り紐がよく似合う、愛しい子だと思っていた。
 マースは毎日狩りへ行くのだが、出かけるときに妹はいつも決まってこう聞いた。

 ――兄さま、兄さま。今日はいつお帰りなの?

 ひとりが寂しい妹に、兄は決まってこう返す。

 ――お前は善い子、真面目な子。お前の仕事が終わる頃、兄さんはすぐ、帰るだろう。


 いつものようにマースが山で獲物を探していると、遠くから物音が響いてきた。どうにも何かが争っているらしい。人が襲われているかも分からない。そういうことで、こちらは音を立てないように静かに騒がしい方へと向かっていった。
 木と雪の影から音のする方を覗き見ると、そこには山犬がおり、何やら空中を引っかき、噛みつこうとしているように見える。何だ何だと目を凝らすと、もうひとつ小さな影が動いた。雪の精霊である。どういう訳かは知らないが、彼らがここで鉢合わせてしまったらしい。精霊は今、山犬の爪にひっかかれては引きずられ、息も絶え絶えといったところだった。
 さすがに可哀想になって、マースは山犬を脅かすためにわざと矢を放った。驚き山犬が飛び退ると、その隙に精霊は逃げていった。
 山犬は怒り狂って言った。
「おい、矮小な人間、未熟な小僧、お前のような存在が、我ら山犬に楯突いて良いものか! その貧弱な頭で、もっと慎重に考えたらどうだ」
 マースは膝をついて許しを乞うた。
「申し訳ありません、山犬さま。カリブーを追っていたのですが、手元が狂い、気高いあなたに矢を射かけてしまいました。重大な罪、いますぐこの場で死ぬべき罪を、私は背負いました。それでも不器用な人間、些末な小僧がしたことです。徳の高い、心の広い山犬さまのことですから、きっと許して下さることでしょう」
 それを聞くと山犬はフン、と言ってどこかへ走り去っていった。


 次の日も、マースは山へ出かけた。

 ――兄さま、兄さま。今日はいつお帰りなの?
 ――お前は善い子、真面目な子。お前の仕事が終わる頃、兄さんはすぐ、帰るだろう。

 日が傾き、出かけたマースが家に帰ろうとしていたところ、遠くから綺麗な女の呼ぶ声がした。
「マース、マースよ」
 声のした方を見ると、精霊がこちらに呼びかけている。また人間を騙しに来たのかと思われたので、
「精霊よ、私に何の用だ。お前たちの企みは知っている、騙そうとしても無駄だ」
 そうマースが返すと、精霊は首を横に振った。
「いいえ、マース。今日はお前に妹の危機を知らせに来ました。お前の妹が、別の精霊に騙されているところを見たのです。早く助けに行かないと、お前の妹の魂が連れ去られてしまう。
 この髪飾りは精霊に騙されて外に出たお前の妹が、雪の風に曝されて落としたものです」
 そう言うと精霊は持っていたものを広げた。それは確かに髪の結び紐であった、マースの大事な大事な妹の。
 マースは精霊が嘘を言っていないと考えた。彼女が普通の意地悪い妖精とは少し違うように思えたからである。聡明なものには、こういったある種の正しい勘というものが備わっているものだ。
「分かった、お前を信じよう。早く妹のところへ」
 マースは精霊に連れられて妹を探しに出かけた。


 風が吹雪く、空が吹雪く。マースは雪のなかに、妹の身体を見つけた。悲しいことに魂は意地の悪い妖精に連れ去られてしまった後だった。
 マースは妹の身体を抱きしめて叫んだ。
「おお、私の可愛い妹、やさしい妹、お前はどうしてこんなところへきてしまったのか! 昨日まで私の手を温かく握っていた、綺麗な髪に飾った結び紐が似合っていた、それなのに何故、今はこんなに冷たくなって眠っている? お前の兄に教えておくれ」
 兄が呼びかけても、妹は返事をしない。精霊は詫びた。
「すみません。この間助けていただいた礼をしたかったのですが、間に合わなかった」
 彼女は、昨日マースが助けた精霊だったのである。自分の命が助かった恩返しとして悪い精霊に騙されたマースの妹を助けたかったのだが、そう上手くはいかなかった。
 精霊の謝罪をマースは否定した。
「謝るな。お前が教えてくれなかったら、妹はこの冷たい雪のなか春までずっと凍えていなければならなかっただろう。それよりはずっと良いことさ」
 悲しみに暮れながらマースが妹を抱いて帰るのを精霊は見送った。


 このような悲しい出来事があってから幾年か過ぎたある日のこと、マースは天啓を得た。近々、ひとりの精霊がここを訪ねてくるという。その精霊は将来精霊の国を統べる高貴なものであり、精霊の王女と呼ばれている。お告げの内容は、その精霊の王女を助けよということであった。
 この天啓通り、マースの元に精霊の王女が訪ねて来た。
「マース、マースよ」
 やってきたのは、かつてマースが助けた精霊であった。驚くマースに精霊の王女は自分もこの世に関する天啓を受けたのだと言った。
 王女は語った、精霊たちのことについて。
「私たち精霊は悪さをするものたちばかりではないのです。人間だって善い魂を持つものもいれば、悪い魂を持つものもいるでしょう? 精霊たちにも善き魂を持つものは沢山いるのです」
 しかしマースは善い精霊を見たことがなかった。王女に話を聞いてみると、気の狂った、精霊の魔女と呼ばれるものが、国を乗っ取り支配しているせいだと言った。
 魔女は他の精霊を寄せつけない圧倒的な力で玉座に着くと、その意地の悪い考えとやり方で、思うがままに国を治めた。その結果この世には悪魔や魔物が満ち溢れ、精霊たちが悪さばかりするようになってしまったのだという。
 マースの元へ来た精霊は、魔女との戦いに打ち勝ち、精霊の国の女王になれという天啓を受け、変わってしまった国を元に戻すために一緒に戦ってくれる人間の戦士を探していた。その天啓を受けた、善き魂を持つ戦士がマースであった。精霊の王女に助けを求められ、もちろんマースは力を貸すことを承知したのであった。


 マースは精霊の王女に案内され、山のなかにある精霊の国へ繋がる、秘密の洞窟を進んだ。暗闇を抜けたら、もうそこは精霊の国であり、太陽とはまた違う不思議な光が煌々と世を照らしていた。
 マースと王女は他の精霊たちには気づかれないように魔女の屋敷へと急いだ。精霊たちの国は不気味なほど静かで、恐ろしさを感じるほどであった。
 精霊の魔女はとてつもなく大きかった。どのくらい大きいかというと、普通の精霊の大きさは人間の手のひらほどであるのだが、魔女は羽の生えた人間と言ってもいい程の大きさ。それほどまでに彼女の力も大きく、強いのである。
 精霊の魔女は玉座より顔を上げ、二人を迎えて言った。
「私の眠りを妨げるのは誰だ? それは、お前たちだ。
 私の平和を妨げるのは誰だ? それは、お前たちだ。
 私の機嫌を妨げるのは誰だ? それは、お前たちだ。
 私を妨げるものは許さない! 者ども、討て!」
 魔女の叫びを合図に、隠れていた精霊の兵士たちが次々とふたりに襲いかかった。マースは槍を振り回し、次々と兵士をなぎ倒す。王女は彼らに眠りの魔法をかけ、戦力を減らした。
 ふたりが最後の兵士を倒すと、ついに魔女が立ち上がった。
 魔女はその魔力で精霊の国に強力な吹雪を吹かせた。それは人間にとって痛みを感じるほどの、あまりに冷たい雪の風、あまりに苦しい雪の風。マースは槍を立てて吹き飛ばされないようにすることだけで精一杯であった。
 マースを救ったのは精霊の王女。王女は魔法で雪の家、イグルーを作り出すと、マースをそこへ避難させた。
 魔女は嘲笑って言う。
「どうだ、邪悪な人間め、外道な王女め。お前たちがどんなに運命を味方につけても、やれるのはその程度。この私には、かなうまい」
 魔女は王女が作ったイグルーを破壊し、ふたりを雪と氷で押しつぶして殺そうとした。
「さあ、死んでしまえ!」
 魔女が叫んだその時、氷と雪の瓦礫の中からマースの槍が伸びた。槍は魔女の心臓を突き刺していた。その余りの苦痛に魔女は絶叫した。
 それが普通の槍であったならば、魔女にとっては恐るるに足らない武器であっただろう。しかし、マースが突いたその槍の刃は火照るほどに熱かった。マースはイグルーの中で火を起こし、刃をきつく熱していたのだ。雪の精霊にとって火、そしてその熱は最も忌避すべきものなのであった。
「ああ、浅ましい人間たちめ! どれほど私を惨めにさせれば気が済むというのか! 私はお前たちを許さない。みていろ、人間の若造、お前には特別に永劫の苦しみを与えてやる。例え死んで七生を得ても、お前に災いと苦痛を、いつまでも与え続けてやる!」
 魔女は呪いを吐きながら川のある方へと逃げ出していった、親指ほどの小さな姿になって。


 マースと精霊の王女は精霊の国に平穏を取り戻した。魔女に従わなかった善き精霊たちは屋敷の地下に捕らえられていた。精霊の国がやけに静かだったのは、多くの精霊たちが捕まえられ閉じ込められていたからなのであった。マースと王女は彼らを解放してやると皆口々に礼を言った。
 魔女から国を救ったマースと精霊の王女は、精霊たちから讃えられた。精霊の王女は、魔女のいなくなった精霊の国の長として、国を治めることになった。この時から精霊の王女は、精霊の女王を名乗ることになったのだ。
 精霊の女王は言った。
「マースよ、我が国を陥れた魔女を倒すために、その類まれなる強さで、私たちに勝利と平和をもたらしてくれました。お前の、その誠意と善意に満たされた魂に、敬意を示します。あなたは私たちの国の英雄として永遠に讃えられることでしょう」
 そして、魔女の最後の言葉についてマースに話した。
「魔女は、あれほどの力を持っていた精霊です。言葉は力そのもの。あの怨みの言葉は本物の呪いとなって、あなたの前に幾度となく困難をもたらすことになるはずです」
 マースは女王の言葉に動じずに答えた。
「私は一度、あの魔女を退けた人間。少なくとも私が、走るカリブーの目を射抜けるうちは問題ではないでしょう。射抜けなくなったら……? その時はその時です」
 精霊の女王は安心してくださいと言った。
「魔女が呪いを振りまくことが出来るのならば、私は祝福の言葉をあなたに贈ることが出来ます。どんなに時が巡っても、もしあなたに魔女の災いが降りかかりそうになった時、私たちはそれらを跳ね返してみせましょう。それが私たち精霊の、わずかばかりの恩返しです」
「素晴らしい計らいをありがとうございます、女王陛下」
 マースは女王の祝福に感謝したが、次のように言った。
「しかし、もし私に情けをかけてくれるというのならば、自分の身のことよりも大事な願いが私にはあります。あなたと初めて会ったあの日に、ここに連れ去られてしまった私の妹の魂を、どうか探して解放してやってください。それが私自身の一番の望みです」
 マースの願いを女王は受け入れた。必ずマースの妹の魂を助けると。また女王は、もしも私たち精霊がマースの妹が生まれ変わった姿を見つけたなら、どんなに時間がかかっても兄妹を再会させることを誓った。
 こうして山のなかにある精霊の国は平和になり、追い出された悪い精霊は川のなかに住むようになった。世界に悪い精霊だけでなく、善き精霊が満たされるようになったのだ。


 息子よ、娘よ、その子供たちよ、これが英雄マースと精霊の女王の出会いと戦いの物語だよ。お前たちは英雄マースではないが、善き魂、英雄の血がお前たちにも流れているのだ。
 己の魂、血を汚さぬよう、お前たちもマースのように、どんな時でも清く強く生きるのだよ。



4.精霊の緒

 息子よ、娘よ、そのまた子供たちよ、よくお聞き。今から、私たちを不幸から護ってくれる御守り、精霊の緒をどうやって作るのか、その方法を教えるから。


 昔、善い精霊、やさしい精霊が住んでいるということで有名な山があった。きちんと礼儀正しくしていれば私たちを助けてくれる、心根の善い精霊だ。
 山のふもとに住んでいた村人たちは川の向こうからやってくる悪い精霊に悩まされていた。川の向こうの精霊は、私たちが寝ている夜の間に村の赤子の魂を掠め取っていってしまうのだ。起きて我が子の姿をみた親たちは何度涙を流したことか。
 鋭く寒い雪の日、お腹に我が子を宿した村の若い夫婦がクロウア爺さんの元へとやってきた。
 クロウア爺さんは村一番のシャーマンであった。生まれる前のことも、生まれた後のことも、全て知っていたのだから。
 若い夫婦がやってきた理由は赤子のことである。どうしたら生まれてくる愛しい我が子を護れるのか、その知恵を授けて貰うべく訪ねて来たのであった。
 賢明な老人クロウアは言った、「山に住む善い精霊を招く準備をするのだ。ビスケットとジャムを供え、その横に赤子のための糸を置いておきなさい。夜の内に善い精霊が来て、お前たちのために糸にまじないをかけてくれる。赤子が生まれたら、その紐を指に結んでおくのだ。まじないが効いて悪い精霊から赤子を護ってくれるだろう」
 さっそく夫婦は準備をした。作り立てのビスケットとベリーのジャム、赤子のために紡いだ糸を窓の近くに置いて寝た。
 翌朝見てみると、ビスケットとジャムは皿からすっかり消えてなくなり、代わりに淡い雪の粉が残されていた。
 赤子が生まれると夫婦はその小さな指に糸を結んだ。生まれたその夜、さっそく悪い精霊がやってきた。

 ――赤子の可愛い声がする
 ――赤子の甘い匂いがする
 ――どこだ、どこだ、赤子はどこだ!

 精霊は家じゅうを探しまわった。しかし赤子は見つからない。赤子を守護する糸のせいで、赤子がどこへいるのやら全くさっぱり分からない。すぐそこ、目と鼻の先、母親の腕の中で笑い声を立てているというのに。

 ――赤子の可憐な音がする
 ――赤子の柔い匂いがする
 ――どこだ、どこだ、赤子はどこだ!

 精霊はどこもかしこも探しまわった。しかし赤子は見つからない。赤子は目と鼻の先、暖かい布団の中で寝息を立てているというのに。
 夜が明けて、仕方なしに悪い精霊は帰っていった。こうして糸に護られた赤子は妖精に連れ去られずに済み、元気に丈夫に育つことが出来たのだ。このように精霊にまじなわれ、祝福された糸を、精霊の緒と言う。この家の子供はクロウア爺さんの忠告と山の善い精霊のおかげで、悪い精霊から身を護ることが出来たのだ。


 この家とは別で病弱な子供を持つ家があった。クロウア爺さんが占ったところによれば、「この子供は悪魔に特別好かれている」と言い、「十にもならないうちに、死の使いがこの子供をさらいに来るだろう」と告げた。さすがのクロウア爺さんも、どうしようも出来ない。
 この言葉を聞いて、両親は深く悲しんだ。赤子の頃からずっと精霊の緒を指に結ばせていたのだが、すぐに解けたり切れたりしてしまう。それ程までに悪魔に魅入られた子供であった。
 ある夜子供が目を覚ますと、家の窓辺の方でちらちらと、何かが動いているのに気がついた。よくよく目を凝らしてみると、小さな雪の精霊が羽をぱたぱたと動かして、家の中を覗き見ているようだった。
 雪の精霊は子供がこちらを見ているのに気がつくと、どこかへ飛んでいってしまった。
 子供は取っておいたビスケットを取り出し、砕いたものを窓辺の縁へ並べておいてまた寝た。翌朝起きて見てみると、ビスケットの欠片は窓辺から消えていた。
 次の夜子供が目を覚ますと、また精霊がやってきていた。寝る前に並べておいたビスケットを、ちょうど食べているところだった。
 子供はそっと近づいていって尋ねた。
「君は山から来た精霊かい? それとも川から来た精霊?」
 精霊は答えた。
「私は山の精霊。美味しい贈り物をありがとう」
 子供のところに来た精霊は善い精霊、山に住む雪の精霊だった。
「あなたは具合が悪いの? 人間にしては顔色が良くない」
「熱があるんだ。よくあることだけれど」
「見せてごらん」
 精霊は子供の周りをぐるりとまわった。
「あなたは特別な子供。死の悪魔に憑りつかれた可哀想な子。このままでは近い内に死んでしまう」と言いながら、続けてこのようにも言った。
「けれども、あなたは幸運なるものたちにも愛されている。雪の精霊たち、私たちのなかでも最も敬うべきもの、力あるもの、雪の女王から頼まれました。善い行いが出来、善い魂を持っているあなたを助けるようにと言われ、ここに来たのです」
 善い精霊は子供の額に息を吹きかけた。するとたちまち熱が下がり、頭がはっきりとしてきた。
「手をお出しなさい」
 言われて差し出すと、精霊は自分の髪を結んでいた紐を解いて子供の小指に結んだ。
「この糸は精霊の緒のなかでも特別なもの。これを身に着けていれば身体も丈夫になり、十を過ぎてもあなたは生きていられるでしょう。大切になさい」
「ありがとう、精霊さま」
 子供がお礼を言うと、精霊はこう言った。
「あなたは善い心、善い魂を持つもの。また会う時もあるでしょう。それまで、お元気で」
 山の善い精霊は出ていった。精霊の言う通り、その夜以来、子供はすっかり元気になり、病気もしなくなった。子供は十を過ぎても死なず、長生きし、善き魂のおかげでシャーマンの力を手に入れた。
 そのシャーマン、ロロ爺さんが私のなかに降りて、私たちに今この話を語っているのだから、これは間違いないことだ。


 私の息子よ、娘よ、そのまた子供よ、お前たちも、もし善い精霊、やさしい精霊に出会ったら、親切にしておくのだよ。彼らは赤子の頃の私たちを助け、そしてこれからの私たちを助けてくれる存在なのだから。
 もし悪いことを避けたい事情があるのなら、こうやって精霊の緒を作り、身に着けておくのだよ。



おわりに

 今回、とある北方地域に伝わる四点の物語を紹介させていただいた。
 これらの物語はそれぞれ、

・まじない
・教訓
・英雄譚
・慣習

 これらを伝達する要素を含んでおり、この北方地域の伝統を継承する役割があったのだろう。


 昔はもっとたくさんの人々が精霊を見ることが出来、声を聞くことが出来たそうだが、今日、彼らの姿を見ることが出来る人々は稀であるという。
 この地域でのシャーマンは、祖先や英雄、神々から精霊、魔物と呼ばれる生物まで、さまざまなものと意思疎通が出来る人であり、そして代々続いている祖先の物語を先代のシャーマンから語り継いでいく人のことであるが、その能力には個人差がある。多くのシャーマンは自分の祖先とだけ交流ができるタイプであり、限定的な力を持つものがほとんどであったようだ。だからこそ、より多くの霊的存在と会話が出来るシャーマンは村人たちから特別な存在として敬われ、時には長として村を治めていたのだそうだ。


 それぞれの物語は語られる際、基本的には一つの独立した話として語られることが多いが、稀にいくつかの物語を繋げて連作の話として語られる例も存在しており、今回はフィールドワークを元に検討を行い、それぞれを短編として独立させつつも時系列を考察し、一続きの物語としても解釈出来るように編纂、編集をした。口伝という都合上、各々のシャーマンによって語り口が違う個所も多々散見されるため、こちらも慎重に吟味を行った。


 極小的な地域の説話であることや、話者の少なさ、シャーマンたちの秘密主義的な性質の側面などにより、説話を収集することには困難が伴ったが、伝統の消滅を危惧する協力者たちにより、どうにか貴重な物語の数編を本書に収めることが出来た。幾度か計画が頓挫しそうになってなお、この本を奇跡的に世に出すことが出来たのは、知らない所で精霊が私たちに味方してくれたのかもしれない。


 非常に悲しいことだが、現代では精霊はおとぎ話のなかだけの存在で、現実には存在しないとされる見方が強くなりつつある。理解者を得て研究を続けていくこと自体も昨今では難しい。
 しかし、それでも私は、かつて精霊はここにいて、今もどこかで私たちを見守ってくれているのだということを信じてやまない。今回の経験を通して、より強くそう思うのである。


 ――編纂・編集者代表  ジェイド



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