先日、テラスハウスの纏わるショッキングな報道が駆け巡る中、一つのワードが目に留まった。
弱い人を狙うな
その時、すごく違和感を感じたのは私だけだろうか。
そもそも、《弱い》とか、《強い》って 一体誰が決めてるんだ? と。
この感覚の尺度というものは外から判断することが実に難しい。
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見えないモノを見る力
皆さんも、日々の生活でそう感じることがないだろうか。
身近な例で言えば家族、会社の先輩や後輩でもいいだろう。
自分では簡単だと思っていても、相手の理解度、精神状態、また、ときには金銭的な状況によって、その難易度は大きく変わるのだ。
要するに、その時々によって、人の心の許容範囲も大きく変化する。
そのため我々人間は、相手の表情を汲んで、最適な言葉を選び、時に寄り添うことで衝突を避け、より良い人間関係を構築していく。
そう、大事なのは相手を感じることなのだ。
ネット社会の充実化により、人と人とが対面せずともコミュニケーションをとることが可能になり、社会的には様々な面で進歩してきたことは言うまでもない。
その反面、自分の発言により 受け取り側がどんな表情をしているのか どんな感情になっているのか 従来のコミュニケーションではあたりまえのように得られていた大事な情報が、把握しづらくなってしまったのだ。
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自分の中の正義を盾に周りが見えなくなる現代人
現代の匿名性の高い社会では、時に人を口撃することを前提とした心無いメッセージが大衆の面前に晒される。
これらの多くは、相手の状況を考えず、自分の尺度のみで善悪を判断し自分の正義を強要することで正義感に浸っているのだ。
そしてあたかもその強要に耐えられない人が《弱い人》とみなされているように感じられる。
確かに、他者の言うことなど関係ない 自分の信念のみ貫くという人は 《強い芯を持っている人》 なのかもしれない。
しかし、その逆は 必ずしも成り立たないのではないだろうか。
弱いなら発言するな! とばかりに、罵詈雑言を浴びせることが正義だとは、私には到底思えない。
もし、私の発言に、同意ができない読者の皆様には、むしろこの機会に 私のような考えを持った人間がいる ということも念頭に置いて客観的な発言に努めて頂けたら幸いである。
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意見を述べることへのハードル
稀に批判されていることが意図しているものと異なるのであれば、反論すればいいではないか。との意見を目にすることがある。
確かに、述べられる人であるならばそれも悪くないだろう。だが、全ての人がそうではないということも考えた上で発言をするべきである。
多くの人にとって、意見を述べることは簡単なことではない。何故なら、人前で自分自身の意見を述べるには、その事柄に対する知識、そして客観性を持った立場での発言が求められるからだ。
時によって、その反論がまた新たな火だねとなることを考慮した上で発言する必要がある。
ただ、仮に発言に誤りが含まれていたとしても、未完だからと言って、発言を全否定することは決してあってはならないはずだ。
皆様の記憶に新しいところだと、検察庁法改正案が良い例だ。
様々な立場から意見があがったことは、多くの関心を引き付けた一方で、偏った考え方や、他者の発言を真っ向から口撃する論客に関してもクローズアップされた。
言論の自由の観点から、議論が白熱すること自体に何ら異論はない。ただ、何度も言うが、発信の対象をすり替えて、発言者を直接的に口撃をすることは正義ではないはずだ。
日本人は基より、周りと同じであることに過度に重点を置く人種であるため、一石を投じる発言には非難が集まりやすい。
だからこそ、民にとって声を上げることへのハードルが高く、見て見ぬふりをし、皆と同じ向きを向こうとする。
先の話題の時を思い出してみよう。
論客とされる知識偏重のインテリは、自分の権威を振りかざし、意見を発信したものを小バカにしていた。
彼らにできること すべきことをする訳でもなく、口撃に終始していたのは残念でならない。
彼らのクレバーな一面を十分に発揮することで、とても価値のある論場へとなったはずなのに、彼らはその舞台から自ら降りたのだ。
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皆が前を向くためにできることを考える
ここまで、弱さの定義に関して そして、意見を発信するにあたって知っておくべき事柄について私見を述べさせて頂いた。
私の表現が稚拙で真意が伝わらなかった という方々には反論の余地もないのだが、せめて私が普段から心掛けていることを最後にお伝えして、本記事をまとめたい。
必要なのは、言葉の本質を見極める努力
もし仮に、自分が意見を発信した際に 周りにの違う意見を持った人がいたのなら、まずその意見に耳を傾けてほしい。
仮に、その意見が間違っていると感じたとしても、何故そのような考えに至ったのか本質を考えるようにして欲しいのだ。
そうすることで、自分には当たり前であることが、他の人にとっては当たり前ではないことに気付くはずである。
そして、その気付きこそが、自分の正義をより多くの人に伝えられる洗練された表現力を生み出すはずだ。
そう、人は皆、仲間なのだ。独り善がりでは生きてはいけない。
自分と違う意見を持つ人と出会えたなら、自分が成長できる素敵な機会が得られたのだと考えよう。
言葉とは、人と人を繋ぐ 素敵なツールであるはずなのだから。