#235 【戦国武将に学ぶ】黒田長政~関ケ原の勝利導いた、父譲りの謀略~
【戦国武将に学ぶ】黒田長政~関ケ原の勝利導いた、父譲りの謀略~戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。黒田長政が築いた福岡城の跡(福岡市)黒田長政は、1568(永禄11)年、出家後の名前如水(じょすい)でも知られる黒田官兵衛孝高(よしたか)の嫡男として生まれています。父の官兵衛が豊臣秀吉の軍師としてあまりにも著名なため、その陰に隠れた存在ですが、長政も大きな功績を残しています。たびたびの危機、乗り越える ただ、順風満帆な一生だったわけではなく、いくつかの困難を乗り越えています。一つは、織田方の人質となっていたとき、危うく殺されそうになったことです。 父官兵衛が、主家播磨御着(ごちゃく)城主の小寺政職(まさもと)を織田信長側につけたとき、まだ松寿丸(しょうじゅまる)といっていた10歳の長政が、人質として織田方に出されました。長政は羽柴秀吉に預けられ、秀吉の居城だった長浜城に抑留されていたのです。 その折、摂津有岡城の荒木村重が信長に対して反旗を翻し、織田方に戻るよう説得に行った官兵衛は、有岡城に幽閉されてしまいました。信長は、官兵衛も荒木方になったと誤解し、松寿丸の殺害を命じています。このとき、秀吉のもう一人の軍師竹中半兵衛は「官兵衛が裏切るようなことは絶対ない」と、松寿丸をかくまったため、長政は命拾いをしました。 1582(天正10)年4月の備中冠山(かんむりやま)城攻めの際、15歳で初陣を果たし、その後、山崎の戦い、さらに九州攻めというように、長政は官兵衛と一緒に活躍の場を広げていきます。 その九州攻
0