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書きあぐねてる書きあぐねる作家の髙橋P.モンゴメリーは触れているものの幻想的な意識の正体が自分だけなのかと考える休日の午前の話。岩に触れたとき、僕は時間に触れていた。問題は、コンビニのストローでも同じことを考えてしまったことだ。山の岩、化石、ストロー、雨。何気なく触れているものの奥には、僕が生まれる前から続いている時間があるのかもしれない。少しかっこよくて、少しくだらない、日常の手触りについてのエッセイです。

山に登って、岩に手を置いた。冷たかった。 ざらざらしていた。 そして、少しだけ偉そうだった。 たぶんその岩は、僕が生まれるずっと前からそこにいた。 僕がまだ名前もなく、体もなく、親の予定表にも載っていなかったころから、その岩は雨に打たれ、風に削られ、夏の熱を抱え、冬の冷たさに黙って耐えながら、ずっと山の一部をやっていたのだと思う。 そう考えると、手のひらの感覚が変わった。 僕は岩に触れているのではなく、時間に触れているのかもしれない。 でも、本当に不思議なのは、岩が古いということだけではない。 その岩と僕が、今この瞬間、手のひらのたった一点で触れているということだ。 岩は岩で、長い時間をここまで来た。 僕は僕で、たまたまこの時代に生まれて、たまたまこの日に山へ来て、たまたま足を止めて、たまたま手を伸ばした。 その全部が重ならなければ、この接触は起きなかった。 岩が少し違う場所にあっても、僕が少し違う道を歩いていても、雨が降っていて登山をやめていても、僕がその日、家でだらだらしていても、この一点は生まれなかった。 そう思うと、ただ岩に触っているだけなのに、急に話が大げさになる。 僕と岩は、ずっと別々の時間を生きてきた。 いや、岩は生きてはいないのだけれど、まあ、そこは岩にも少し譲ってほしい。 とにかく、僕と岩はまったく別の場所からここまで来た。 それがほんの一瞬だけ、手のひらの小さな一点で交わる。 これは、けっこうすごいことではないかと思った。 もちろん岩は何も思っていない。 当然だ。 岩なので。 でも、僕のほうは少し困る。 指先に残ったざらざらが、ただのざらざらではなくなる。
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