これって、――夕方のせい?
風が、急に強く吹いた。凪の髪が揺れて、その一房が、悠真の肩に触れた。一瞬本当に、一瞬だけ。悠真の指が、手すりから離れそうになる。凪は、息を止めた。(今、もし――)でも、悠真は触れなかった。代わりに、少しだけ距離を詰めて、凪の前に立つ。逃げ道を塞ぐほどじゃない。でも、戻れないくらいの近さ。夕焼けの中で、悠真が、低く言う。「……なあ」それだけ。名前も、理由も、続きの言葉もない。なのに、凪の胸は、やけにうるさかった。吊り橋の上に立たされたみたいに、足元が、不確かになる。(これって、――夕方のせい? それとも……)次の瞬間、悠真が一歩、近づく。もう一歩で、触れてしまう距離。凪は、逃げなかった。「……寒くない?」悠真の声は、思ったより近くから聞こえた。凪は、少し遅れて首を振る。「大丈夫」本当は、寒さじゃない別のもので、指先が冷えていた。夕方の光は、もう背中を押すというより、逃げ道をふさいでいるみたいだった。悠真が、視線を逸らす。その仕草に、凪の胸が、きゅっと縮む。(言うの?言わないの?)期待してはいけない、と何度も自分に言い聞かせてきたのに。沈黙が、耐えきれないほど長くなる。そのとき――遠くで、自転車のベルが鳴った。現実が、二人の間に割り込む。悠真は、一歩だけ下がる。それだけで、世界が少し遠くなる。「……もう暗くなるな」他愛ない一言。でも、凪は気づいていた。今、何かが始まりかけて、そして――止まったことに。吊り橋は、まだ渡りきっていない。揺れたまま、次の一歩を残したまま。それが、今の二人だった。
0