「教育史点描~最後に残るのは「教育」である~⑨」
(5)「教育」とは結局「人間観」と「教育制度」である
①「人間」は「教育」されない限り、「人間」とはならない
野生児(動物に育てられた人間の子ども)~オオカミに育てられたアマラ(2歳くらい、間もなく死亡)とカマラ(8歳くらい、17歳の時に死亡)は、シング牧師夫妻によって育てられましたが、「オオカミ少女」(顔かたちは人間ですが、することなすこと全くオオカミ)のままだったとされます。このオオカミ少女の事例は今日では否定的に見られていますが、意義深いのはその細部にわたる事実性ではなく、人間は自然に、本能のままに「人間」になるのではなく、「養育」「教育」されない限り、「人間」にはなり得ないことが示唆されたことでした。
「牧師夫妻は、このオオカミ少女をなんとかして人間の子どもにしてやりたいと、一生懸命に努力したのである。カマラは、三年ほどして、支えるものなしにひとりで両足で立って歩くようになった。しかし、急ぐときには、四本足で走りまわっており、この習性は死ぬまでとれなかったという。三年ほどで、手を使って食べるようになり、四、五年して、喜びや悲しみの心を表現するようになった。シング夫人によって、ことばが教えられたが、死ぬまでに、四五語しか使うことができなかったということである。そして、知能は三歳半の子どもくらいだったという。」
(時実利彦『人間であること』)
「植物は恐らくひとりでに成長し、全然実を結ばないか、野生の実を結ぶ。馬はたとえ役に立たないとしても、この世に生まれて来る。しかし、人間は人間として生まれて来るのではなく、人間に形造られるのだ。」
(エラスムス『幼児教育論』)
「幼な子
0