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【超簡単解説】仏教の人気が高い7宗派の違いを短時間で解説【開祖とお寺、教えまで】

マリンこと 神保慶明です。 どこよりも わかりやすく 「仏教の人気7宗派の違い」が これを見たら すぐわかります! あなたも鼻高の プチ仏教博士になりませんか?
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和賛 六

本日は親鸞聖人が和文でうたわれた賛歌を紹介いたします仏光照曜最第一光炎王仏となずけたり三途の黒闇ひらくなり大応供を帰命せよ阿弥陀仏はその光明の輝きがあらゆる光の中でも最も優れているので光炎王仏とお呼びするその光は地獄・餓鬼・畜生の世界に苦しむ私達を迷いの闇から救ってくださるだれもが尊敬するにふさわしい阿弥陀仏こそ帰依すべきである
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和賛 五

本日は親鸞聖人が和文でうたわれた賛歌を紹介いたします清浄光明ならびなし遇斯光のゆゑなれば一切の業繁ものぞこりぬ畢竟依を帰命せよ阿弥陀仏の光は清らかでありいかなるものも比べ物にならないこの光にお会いすることができたならば自分自身をしばりあげている悪行煩悩のきずながすべてとりのぞかれる究極のよりどころである阿弥陀仏を帰依すべきである
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浄土真宗の説法の特徴

・自力ではなく他力本願・救いは条件付きではなく等しく開けている・念仏を申すことが感謝の現れ他力とは阿弥陀仏の本願による"力"ですしばしば勘違いされるのですが自分の修行や努力いよって悟りを開くのだはなく、阿弥陀様の救いに「まかせる」ことで、誰でも救われると説いています。念仏「南無阿弥陀仏」と声に出して称えることこれは救いを願う「お願いの言葉」ではなく「阿弥陀仏に救われることへの感謝の現れ」です。念仏は修行や功徳ではなく、信心こそが念仏が自然とでてき、念仏によって極楽往生が約束されている。救いの根拠は”私の信じる心”ではない浄土真宗では「信心」を非常に重視します。ただしそれは「自分が信じていると言う意志」ではなく。「阿弥陀仏のはたらきを素直に受け取った心」です。私の強さではなく「仏の願い」であり、信じたから救われるのではなく既に救われていると気づいたとき、それが信心。煩悩具足の凡夫ー自分の姿を見つめる教え人間の本質は煩悩に満ちているという深い自己認識から出発します。私たちは、どんなに良いことをしようと思っても見返りを求めたり自分の都合で行動したりします。そんな「どうにもならない自分」こそが仏の救いの対象なのです。・自分の中の「闇」に気づくことが仏の光をいただく始まりであると親鸞聖人は教えいます。平等の救いー全ての人に開かれる仏道年齢・性別・能力・過去の行いにかかわらず、全ての人に仏の救いは開かれています。修行ができる人だけが救われる教えではない。念仏するだけで、全ての人に平等に救いが与えられる。死ぬ直前でも、罪を犯した者でも、愚かな者でも仏は見捨てない。
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迷いながら生きていい(浄土真宗の生き方)

浄土真宗は「迷いがある私たち」をあるがまま受け止める宗教です。迷いの中にも仏の光が届いている。苦しみがあっても、救いはすでに届いているという視点が、迷いに包まれた人生に「今すでに光がある」と教えてくれます。未来を明るくするには「自分をよしとする」ことが第一歩です。「こんな自分」でもすでに与えられていると知ることから始まります。阿弥陀さまの慈悲は、まさにそうした私たちを見捨てません。
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苦しみは、あなたを育ててくれる師です

苦しみや困難は避けたいものですが、それを通して人は成長し他者にやさしくなれます。あなたが経験した痛みは、いつか同じように苦しむ誰かに寄り添う力となります。その意味で苦しみは無駄ではありません。苦しみの中で、無理に元気になろうとしなくてもいい。弱さも迷いも不安も、そのままでも救われる道がある。心に寄り添ってくれる仏様がいる。不安や喪失の中で「南阿弥陀仏」と唱えることは救いを求める言葉ではなく、救われていることへの感謝の声でもあります心がつらいとき、言葉にできなくても「南無阿弥陀仏」とただ声にしてみて下さい。それだけで、阿弥陀さまはあなたと共にあります。
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和賛  壱

本日は親鸞聖人が和文でうたわれた賛歌を紹介いたします弥陀成仏のこのかたはいまに十劫をへたまへり法身の光輪きはもなく世の盲冥をてらすなり阿弥陀仏がさとりを開かれてからいまやすでに十劫と言う長い時間を経ているその仏身から放たれる光明はいたり届かないところはなく煩悩にさまよう私達の闇のごとき世界を明るく照らしてくださっている
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教養としての日本仏教④:鎌倉仏教~浄土宗と浄土真宗

本覚(ほんがく)思想:中期大乗の如来蔵思想・仏性思想が発展し、衆生は誰でも仏になれるという思想。元々、天台宗にあった考えで天台本覚思想と言い、末法思想と共に鎌倉新仏教の思想的背景となります。生も死も絶対の立場から見れば別ではなく「不二」であり、ついには煩悩に迷う凡夫も悟りを得た仏も不二であるとして、凡夫をそのまま肯定することとなりました。 法然:浄土宗、知恩院、『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』。「知恵第一」と讃えられながら学問を捨て、声聞(しょうもん、仏の教えを聞いて悟る)・縁覚(えんがく、一人で悟る)・菩薩(他者を救済して如来となる)などの聖道門(しょうどうもん)は自力救済の難行道であり、末法時代の穢土(えど)においては、難行を行い得ない者の方便として易行道(いぎょうどう)が必要であるとして、ひとまず浄土に生まれようと念仏する他力本願の道を説きました。この観点から見れば、禅宗系が自力志向、浄土系が他力志向、日蓮法華系は共力(自力+他力)志向となります。ちなみに『徒然草』の兼好法師も法然を敬愛し、一休禅師も法然を称えて、『一枚起請文』を奇跡の書だと述べています。 阿弥陀仏の誓願(弥陀の本願):『無量寿経』に、阿弥陀仏がかつて法蔵比丘だった時に立てた四十八の誓願(本願)が説かれており、その中の第十八願に「阿弥陀仏の名を唱える者は全て極楽浄土へ往生させよう」という誓願があり、これが浄土信仰の中心となって「南無阿弥陀仏」の名号を唱える称名念仏が広がりました。 称名念仏:阿弥陀仏の姿を実際に見るかのように思い描く観想念仏に対し
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