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だれも教えてくれない純文学とエンタメ小説(大衆文学)のちがいと、純文学が売れない理由についてあえて考えてみた。

 フリーランスで仕事をしていくにあたり「読書」を軸にしようと決めた以上、ぼくはじぶんの読書だけは信じ抜かなくちゃならなくて、それがもしできなくなってしまったならばなにもかもやめなくてはならない。そんなことをよくおもう。 ただその一方でじぶん自身の読書がいかに偏っているかも自覚しているわけで、とりわけ語りの技法や構造などの言語表現への関心が高いため、どうしても物語そのものへの関心が(ないというわけではないが)相対的に低くなってしまう。すると、「お前の読書はつまんなそう」 ということをいわれることが、これまでに本当に何度もあった。ぼく自身、読書をめちゃくちゃたのしんでやっているつもりではあるし、小説に限っていえば、そもそもなぜ小説が書けてしまうのかという命題めいたものは、読書のたびにそれなりに具体的な姿を一瞬みせてくれる。 その感覚こそ書評であれ翻訳であれ実作であれ、ぼくが特に力を入れている活動を根底で支えているものなのだけれど、しかしこれがどうやら一般的でないとはじめて知ったときはおどろいた。みんな、こういうことを不思議におもうものだと、二十代半ばくらいまでわりと真剣に信じていた。 そういうこともあって、ぼくがこれまでに読んできた小説の、特に「実作しないひとの感想」というのは、できるだけ深く、そして数多く知りたいなとおもう。 実作をしない、ということの特別さを良い感じのことばでいうのは難しいのだけれど、「言語表現の実践を切実な問題と見做さない人(というと、悪意はないのにかなり響きが悪くなってしまう泣)」にとっての小説のありかたはやはり世界で圧倒的多数を占めるのは事実だとおもってい
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「小説家になろう」に投稿された小説2000作品のタイトルを分析してみた

 今回の「実験」の元ネタになるのは、フランコ・モレッティ『遠読 〈世界文学システム〉への挑戦』だ。本書で収録されている論考「世界文学への挑戦」でこのような言及がある。 合衆国は精読(close reading)の国だ。だから、この思いつき(※大滝注:前段落にある「野心的になるほど、(テクストからの)距離を遠くとらなくてはならない。」を受けている)が拍手喝采を浴びるなんて期待はしていない。だが、(新批評から脱構築へいたるあらゆるその転生の形式で)精読がかかえた問題は、ごく小規模のカノンに依存せざるをえないことだ。(中略)テクストをいかに読めばいいかはわかっている、さあ、いかにテクストを読まないか学ぼうではないか。遠読──繰り返させてもらうなら、そこでは距離こそが知識をえる条件なのだ。 この「遠読」の宣言は小説を書く人間からしたらあまり好意的に見えないかもしれない。「小説を読まずに文芸批評を行う」と読めてしまうため、その対象に自作がさらされると「ないがしろにされている」感じがしないでもない。ただ、「遠読」とは「精読」の否定ではなく、むしろ「補完」に当たる。精読というアプローチ方法では扱えない問題を取り上げるための手法と位置付けられる。上記の引用は以下のように続く。それさえあれば、テクストよりずっと小さく、ずっと大きい単位に焦点を合わせることができるようになる。技巧、テーマ、文彩──あるいはジャンルやシステムについて。そしてもし、ずっと小さなものとずっと大きなものとのあいだで、テクスト自体が消えてしまうことがあるとしても、そう、だれかが「テクストなんかなくてもよい」と言うのがもっとも
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