だれも教えてくれない純文学とエンタメ小説(大衆文学)のちがいと、純文学が売れない理由についてあえて考えてみた。
フリーランスで仕事をしていくにあたり「読書」を軸にしようと決めた以上、ぼくはじぶんの読書だけは信じ抜かなくちゃならなくて、それがもしできなくなってしまったならばなにもかもやめなくてはならない。そんなことをよくおもう。 ただその一方でじぶん自身の読書がいかに偏っているかも自覚しているわけで、とりわけ語りの技法や構造などの言語表現への関心が高いため、どうしても物語そのものへの関心が(ないというわけではないが)相対的に低くなってしまう。すると、「お前の読書はつまんなそう」 ということをいわれることが、これまでに本当に何度もあった。ぼく自身、読書をめちゃくちゃたのしんでやっているつもりではあるし、小説に限っていえば、そもそもなぜ小説が書けてしまうのかという命題めいたものは、読書のたびにそれなりに具体的な姿を一瞬みせてくれる。 その感覚こそ書評であれ翻訳であれ実作であれ、ぼくが特に力を入れている活動を根底で支えているものなのだけれど、しかしこれがどうやら一般的でないとはじめて知ったときはおどろいた。みんな、こういうことを不思議におもうものだと、二十代半ばくらいまでわりと真剣に信じていた。 そういうこともあって、ぼくがこれまでに読んできた小説の、特に「実作しないひとの感想」というのは、できるだけ深く、そして数多く知りたいなとおもう。 実作をしない、ということの特別さを良い感じのことばでいうのは難しいのだけれど、「言語表現の実践を切実な問題と見做さない人(というと、悪意はないのにかなり響きが悪くなってしまう泣)」にとっての小説のありかたはやはり世界で圧倒的多数を占めるのは事実だとおもってい
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