不安というものは、果たして私たちの「敵」なのでしょうか。
ここまで私たちは、誰かが提示してくれる希望について、誰かを盲目的に信じることについて、そして私たちが勝手に作り出してしまう救世主の存在について、一緒に考えてきました。
その物語の渦に巻き込まれていった、天草四郎という一人のあどけない少年の姿にも触れてきました。
けれど、こうして振り返ってみると、彼らの激動の歴史の根底に流れていたものも実はもっと単純な一つの感情だったように感じるのです。
未来が分からないから、安心したい答えを知りたくなり、都合のいい正解を与えてくれる誰かにすがりつき、依存したくなる。
四百年前の島原の泥の上に立っていた人々も、今、スマートフォンの青白い光を見つめている私たちも、この心のメカニズムは驚くほど何一つ変わっていません。
私は最近になって、ある一つのことを考えるようになりました。
私たちは本当に、この胸の奥にある不安を何が何でも全て消し去らなければならないのでしょうか。
もしも不安が一切存在しない人生というものがあるとしたら、それは一体どのような景色なのでしょう。
失敗するのが怖いという不安があるからこそ、私たちは貪欲に学び、一歩を踏み出そうとします。
大切な人を失うかもしれないという不安があるからこそ、今ある関係を愛おしみ丁寧に守ろうとするのです。
もし、私たちの人生から不安という影が完全に消え去ってしまったら、私たちは今よりも本当に自由になれるのでしょうか。
それとも、人間として生きるための、もっと泥臭くて大切な感覚まで一緒に失ってしまうのでしょうか。
もちろん、不安の波に飲み込まれて身動きが取れなくなる必要はありません。
怯え続けて、誰かに人生を丸ごと預けてしまう必要もない。
けれども同時に、不安を「あってはならない悪者」だと決めつける必要もきっとないのです。
私たちは長い間、どうにかしてこの不安を消そうと躍起になってきました。
手っ取り早い安心を買い、誰かが決めた答えを欲しがり、失敗しない確実な未来ばかりを追い求め続けてきた。
それでも、私たちの人生から不安が綺麗さっぱり消える日は訪れません。
不安とは人生の不具合や欠陥などではなく、私たちが今、ここで泥をすすりながらも懸命に「生きている証」そのものだからです。
天草四郎という少年の足跡を追いながら、私はふとそんなことを考えていました。
当時の人々は、彼の中に希望を求め、生きる意味を探し、身勝手な救いを求めた。
そして現代を生きる私たちも形を変え、道具を変えながら、まったく同じ問いを胸に抱えて彷徨っています。
歴史は、どこか遠い教科書の向こう側で終わった出来事などではありません。
私たちが人間である限り、この世界で何度でも形を変えて繰り返される、「心の軌跡」です。
四百年前の少年の物語を読んでいたはずの私たちは、気がつけば、鏡に映った自分自身の剥き出しの心と、真っ直ぐに向き合わされているのかもしれません。
本当の答えは画面の向こうのカリスマや、誰かが売っているコンテンツが与えてくれるものではなく、
あなたが自分自身の足で立ち、その消えない不安をそっと抱えたまま、これからの人生の中で、少しずつ見つけていくものなのです。
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