先日、レクティファイされた出生図を拝見させていただく機会がありました。その時にそう言えば…と思い出した論文です。
■子どもを捨てる風習
ユング心理学と子ども 第11巻(創元社)
「子どもとユング心理学」 リース滝幸子
日本には昔、児やらい(こやらい)という風習、儀礼があったそうで、
病弱な弱い子ども、乱暴な子ども、親が厄年に生んだ子どもなど、問題のある子どもをいったん捨てて、仮親に拾ってもらうのだそうです。
利口すぎたり早く歩くなどしても、他と違う高い能力が将来災いとなる可能性を案じて、同様の儀礼を行っていたそうです。
儀礼なので最終的には本来の親が引き取ります。
リース滝幸子氏は、
『児やらいの「やらい」は追い払うという意味であるが、これは子どもを追い払うのではなく、子どもの往来の並外れた特徴が子ども自身、また、家族、親族、村全体の平穏を揺るがすのを恐れて、その属性を追い払おうとするものである。そのための手段として、あらかじめ計画された仮親、拾い親を立てて、いったんは生みの親が子を手放し、新しい命として仮親から自分の子を取り戻す。その子の運を左右している出生の日時をこの操作で新たにする仕組みである』
引用 P26 ユング心理学研究第11巻「子どもとユング心理学」
と論じています。
この「児やらい」については
「児やらい」
大藤ゆき 著 岩崎美術社,1968
「子どもの民俗学 : 一人前に育てる」
大藤ゆき 著 草土文化, 1982
に詳しく書かれているのですが、
上記2冊の大藤の著作の中には、私が確認した限りでは出生日時の扱いについて具体的に言及されているところは見つけられませんでした。
西洋占星術師の視点から、大藤の著作の中に、新しい出生日時の扱いについてより詳しいことが書かれているのではないかと期待して読んでみたわけですが、期待は外れてしまいました。(国会図書館オンラインで読むことができます。さっと通読しただけなのでもしかしたらどこかに書かれている可能性もありますが…)
このことから、
リース滝幸子氏が児やらいから「出生日時を変更することによって運命を変えようとしたのだ」と出生日時を結び付けたのは、
ユング研究家ならではの着眼点だったのではないかと考えました。
■西洋占星術における「出生日時」の重要さ
ユングは精神科医・分析心理学の創始者ですが、西洋占星術への造詣が深く、実際に研究もしていました。
なぜ、そのユングを研究している研究家が「児やらい」の説明で出生日時を持ち出したのかというのは、
西洋占星術では出生図が非常に重要だからです。
出生日時によってその子の運命がしるされると考えるからです。
西洋占星術の出生図は、出生日、出生時刻、出生地の3つの条件が揃ってはじめて決定されます。占出生図を作成するためには正確な出生時刻が必要になります。
レクティフィケーションというのは、
出生時刻が不明な場合に、
占星術家がその人の特徴や来歴を手掛かりに妥当な時刻を割り出し推定するという技法です。
ですから、
依頼者にとってレクティファイされるというのは、
ある意味、全く新しい出生図を授かる行為になりえると言えなくもないのですよね。
リース滝幸子氏はこれと児やらいの生まれなおしの儀礼を重ねたのでしょう。
でも、レクティフィケーションはイレクション(吉日選定)ではありませんから、本来は厳格にその人の来歴、現実と照合して出生日時を推定するものです。(古くはまた事情が違ったのですが、現代において大人がする場合を想定しています)
ですから現代では基本的にはレクティフィケーションは自分の運勢を変えるために行うものではないのですね。
ただ、中には、自分の出生図が変われば自分の運命も変わるのではないかと考える人がいても不思議ではありません。
それもあってか、レクティファイされたチャートで、レクティファイした占師の意図が反映されていることを見かけたりすることもあるわけです。
要は、レクティファイするときに依頼者の希望が叶うような出生図を作ってしまう、ひらたく言えば、縁起の良さそうな配置になるように手心を加えるというような占星家も中にはいるわけです…(うーん、これが良いか悪いかはまた別の話になります。美容整形依存症の問題と似たお話になっていきますよね)
レクティファイされた出生図を拝見しながら、レクティファイの目的、運命論、倫理感など、さまざまに脱線して、想いを巡らせるわけですが…
西洋占星術における出生図の重要さというところからシンプルに考えるなら、やはり私にとっても、リース滝幸子氏の「児やらいによって新しい出生日時を得たのだ」という発想は、はじめはとても自然に感じられるものだったのです。
■「児やらい」のねらい
「拾い親をたのむ場合は、丈夫な子どもを持っている人とか、運がよい家とか裕福な池の人をえらんでそれにあやかるようにする。」
―――引用 P195「児やらい」大藤ゆき 著 岩崎美術社,1968
児やらいでも、運の良い家の人に拾ってもらうことで、新しい運勢をより強くより良いものにしたいという期待が込められています。運勢は外側から授かるもので、変えられるはずだというような感覚を持っていることが分かります。
子どもは辻に捨てる場合があったということですが、ここでの「辻」は、内と外、この世と異界との「境界」を象徴します。
また、子どもを拾う仮親は、外の正解の人であると同時に子どもが生まれなおしてから関わる新世界の住人でもあります。
辻(異界との接点)に捨てること、
他者(外側の世界の人)に拾ってもらうことで、
今いる世界の境界をいったん超えて、
異質なものに触れることで運勢を変容させる。
この工程にこそ意味があったのではないかと考えます。
ですからどちらかというと、
誕生日時によって運命づけられた運勢を新しい誕生日を得ることで変えようというよりも、
今現在の流れをいったん断ち切る
境界を越え、異界に触れさせることで進んだ針をいったんリセットする
こういったねらいが強かったのではないかと私は考えます。
もし、出生日時を変えることで運命が変わると考えて、出生日時の操作に重きをおいていたなら、一般的な改名の風習と同じように、僧侶や神職に明確な新しい出生日時を授けてもらうような風習が広く残っていてもよさそうですし、そこから古い誕生日時と新しい誕生日時の二つを持つ人が多くいても不思議ではなさそうですがどうでしょうか。
ぴったりと重なりそうで実は交わらない児やらいとレクティフィケーションの関係。
人がどのように運命をとらえ、運命を変えられると考えてきたのかというテーマがとても興味深く感じられます。
お読み下さりありがとうございました
西洋占星術で鑑定をしています