「この度、友人の紹介で、お尋ねさせていただきました」
私は世間から「霊能者」といわれている。
霊能者である私には、人伝手に相談者がやってくるのだ。
あなたは、霊能者と聞いて、どういうイメージをお持ちであろうか。
世間一般の人間の「霊能者のイメージ」とは「霊視ができる」とか「未来予言ができる」というものかもしれない。
霊能者といえども、能力は千差万別である。
「視える」「聴こえる」というものから、圧や触や温度を「感じる」とか、それぞれだ。
また霊能者は、先天的に霊感が強い人間と、なんらかの原因により、急に霊感が強くなる人間の二種類があるらしい。
私の場合は、なんらかの原因により、急に霊感が強くなったといえる。
5年前、私は交通事故に遭い、頭を打ち、背骨を傷めた。
どうやらそれが原因で、身体のチャンネルが切り替わったらしい。
肉体に歪みができ、肉体をとりまくオーラ領域にも歪ができたようだ。
オーラとは、地球でいうオゾン層のようなものだが、私はオーラの一部に穴が開いたみたいなのだ。
オーラに抜け穴があるということは、普通の人よりも「人一倍何かを感じ取る」ということになるのだ。
俗に言う「霊感が強く、受けやすい」という人間はいわゆる、オーラ層が薄いか、オーラ層に穴があるということでもあるという。
また、サイキックや、霊能力というのは身体のバランスとる為に働くこともあるという。
身体の一部を損傷すると、そこを守るため、もしくは、欠けた部分を補うために、別の部分が開発されるともいう。
突然変異のような能力の持ち方は「身体が元気になれば普通の人に戻る」ともいわれる。
どうやら最近、私の身体は以前のような健康体になってきたのを実感する。
健康体になったのはいいことだと思う。
だが、それと同時に霊感が無くなってきているような気がする。
そろそろ霊能者の肩書を持つ人間を辞めて、普通の人間に戻ろうかと思うことがある。
だが、いつの間にか、紹介が紹介を呼ぶというシステムが生まれ、仕事としては結構いい報酬を受け取るように感じる今日この頃、
とりあえず、このままでもいいんじゃないかと思うことにしている。
そう思うことにすると、身体が、感覚が、ちょっと重くなるように感じる。
これでいいのか、どうだろう。
まぁ、万全な体調になったところで、普通の人になるのだ。
霊能者として仕事を引き受ける限り、身体のどこかに不調を持ちつづけるのが自分の宿命なのかもしれない。
相談者に何かを尋ねられれば、私は何かのウィジョンを視る。
例えば「私の前世は何でしたか?」と聞かれれば、中世ヨーロッパの貴族みたいなウィジョンや神社の巫女のようなウィジョンが出てくることがある。
それはあくまで「脳裏に浮かぶ」というものである。
本当に、その人の前世であったのか確証のないものなのだ。
自分の記憶から拾った映像に過ぎないのかもしれない。
だが、脳裏に浮かんだものが視えたと言うことは事実である。
嘘はついていないつもりだが、それがその人の前世なのか確証はとれないのだ。
ある人が「霊能者に前世を聞いたら、中世ヨーロッパの貴族とか、神社の巫女とか答える人が多いみたいだけど」と言っていた。
そして「なんで、アフリカ人とか、農民とか、そういうジャンルに関してなかなか出てこないのかな」と続けた。
たしかにそうかもしれない。
たぶん、目の前の人間を喜ばせることを意識して「できるだけいいイメージのものを思い浮かべる」ということを心のどこかに考えているからだと思う。
「お金払ってまで見てもらったのに農民?」と言われたくないからいいイメージの像を出してしまうのかもしれない。
あまり聞かれたくないが、多くの人間が聞いてくる話とは、未来についてとか、自分についてだ。
「私はいつ結婚しますか?」とか「いつ恋人ができますか?」とか「どの仕事が向いてますか?」とか…
私は感か勘で答える。
「来年あたりに出会いがあるでしょう。その時期を逃せば3年後くらいになるでしょう」という具合に言っている。
以後の報告はほとんどないため、当たったかどうかわからないが「少しでも心当たりがある」とすれば当たっているということになっているのかもしれない。
どうも最近、私は、前世やら、適職やら、○○運やらを問題にした相談に関して、答える気が失せてきたのだ。
「私はいつ結婚しますか?」「いつ恋人ができますか?」についてだが、そもそも、理想を手に入れれるのかどうかという問題は偶然のチャンスでもなく、本人の魂磨きにかかっているのだ。
自分自身の魂の質が向上しないと、運気は向上しないのだ。
前世やら、適職やら、○○運やらを問題にした相談に関しては「自分の性格や性質はそのまま」ということを前提にし、
「そのままの自分の通用するチャンスがいつやってくるのか」を問題にしている。
となると「来年という1年のうち、3月に出会いがあり4月に恋愛をし5月に別れがある」という答えを買いに来た話であるともいえるのだ。
「自分の性格や性質をそのままにするのではなく、より魂の純度の高い人間になる」ということを目標にした場合は
「私はいつ結婚しますか?」「いつ恋人ができますか?」という「いつ」という「特定の時間」「特定の関係性」について問うことはないだろう。
自分の性格を変える気がない人間を相手にするということは大衆心理を相手にすることでもある。
自分を変える気がない人間は、基本だらしない。
だが、だらしない人間を相手にするとそこそこお金になる。
だらしない人間ほど、失敗や不安が多く、前世やら、適職やら、○○運やらを気にかけたりする。
自分の性格の悪さから問題を生み続け、繰り返し失敗していることに気がつこうともしない。
私は、時間の許す限り、関係性の続く限り、相談者から見返りとしての報酬を受け取る。
それはそれでだらしない気もするが、仕事になっているのでしょうがない気がする。
相談者らから報酬を受け取り続けると同時に私に欠け続けるものは「体調」である。
お金は入るがどこか体調が悪い…が続いてしまうのだ。
私は体調を崩したまま霊能者を続けていいのか迷う。
相談者のエネルギーの質が低く濃くなるほどお金になるのはわかるのだが。
だが、そっちに偏ると、自分は自分を保てなくなるような気がする。
霊能者は体力的に消耗が激しいので、痩せてしまう人もいる。
だが、体力の消耗が激しいことを理由に食事を増やして太るタイプの霊能者もいる。
私は痩せたり太ったりを繰り返した。
やっぱり標準体重がいい。
最近は裏社会ではなく、表社会で生き直そうかと考えたりする。
霊能者を辞めて、勉強をして心理カウンセラーとして生きてみてもいいかもしれない。
だが、体調を整えて、勉強してカウンセラーになったところで、知られた世界で有り得る現象の中でしか物事を解析しないことになる。
限りある社会に埋もれて仕事をするのはどこかつまらなく感じてしまう。
霊能者とカウンセラーとの間は占い師といったところか。
とはいえ、霊能者も占い師もカウンセラーも千差万別なので、何がどうという定義が難しいのだ。
相談者の質問の質が、柔らかくなったり固くなったり、冷たくなったり熱くなったり、広くなったり狭くなったりする違いがあり、答えもまた、質に応じて印象が異なってくるのだ。
霊能者、占い師、カウンセラー。
これらの職種を分別比較したところで優劣はあるようでない、ないようであるのだ。
占い師になる場合もカウンセラーになる場合も体調を整えて勉強するという意味では同じだ。
占い師の場合、体調を整えるという意味や勉強するという意味においてそれぞれの流派に違いがある。
偏りを無くす理論を持つ流派と、偏りを個性として生かす流派では、全く方向性が違ってくるのだ。
占いはそもそも抽象言語を解析する学問とも考えられる。
どの位置でそれを観て、どのくらい時間範囲での物事を現象として仕切り、どの感覚器を使い、どの範囲で吉凶を定るかが異なるのである。
四柱推命のとある流派に染まると、自分の食べ物とするものに識別が強く発生することがある。
「○○は自分の体質に合わないのでこれは食べない。だが××はこの時期の自分の体質に合うのでこれを摂る」というような、健康になろうとする意識が生まれる。
「思考回路・体質まで変わらないと学問をしたことに含まれない」のが現代以前の占い師考え方、在り方だ。
しかし「好きなものを選別して好きなものだけを摂り続ける」という流派もある。
長生きを問題にしているのではなく、一時的に大きな願望実現さえできれば短命でもいいのだ。
これは、特定の価値観において成功を引き出す占いの法則でもある。
偏りもまた、一種の能力を特化させ、それは世間に対してのアピールにもなり、成功論にも通じるのだ。
だが、忘れてはならない。
人の世において、何かを手に入れるということは、何かを失うということを。
「普通に健康体で病気などしていない」という自覚がある場合、人間は大概「健康以外のもの」を手に入れようとする。
病気になるまで、健康以外のものを手に入れ続けようとするのが人間らしいともいえる。
そして、私は健康以外を手に入れることで、霊能者を継続しているのだ。
そもそも事故に遭う前、自分はどういう人間だったのだろうか。
事故に遭う前というより、事故の前の前の前の前の自分だ。
だが、前世までも遡るものでもなく、今世の自分の原初である部分。
インナーチャイルドだ。
それを考えるということは、心理カウンセラーの用いる治療に近い。
健康を考えると思考というものは自動的に治癒に働きかけるのかもしれない。
「この度、友人の紹介で、お尋ねさせていただきました」
私は友人から紹介してもらった鍼灸院を尋ねた。
私は、身体のバランスをとり、体調を良くしようと思ったのだ。
鍼灸師は施術室に私を案内した。
私は施術台に横になった。
鍼灸師は脈診をとり、腹を触診し、舌の色を診た。
だが、鍼灸師はそれだけではなく、私に関する何かの全体を視ていた。
呼吸の深さや、発音の異常、顔の特定の部分に対応する色の識別や、目の色、唇の色、歯の並び、身体の歪みからくる癖、
髪の生え方とか、爪の色形、そしてオーラなども診ていたようだった。
私はそこまで東洋医学について知っているわけではないが、なんとなくどういう感覚のものかわかる。
古い医学は深みがあり、言葉による問診以外にもたくさんの識別があるのだ。
言葉による問診というのは、患者の思考の癖が情報を曲げてしまうため、問診の在り方によっては混乱が生じることがある。
私は鍼灸院で鍼を打ってもらい、お灸をしてもらった。
一通り施術を終え、私は鍼灸院を後にした。
いつもと違う感覚で、どこか身体が軽い気がした。
私の体調はどことなく良くなっていた。
だが、私はこの鍼灸院には通わないことにした。
この鍼灸院に行くのは体調が悪い時に限ることにした。
「体調を向上、維持するために通ったほうがいい」という考え方もあるだろうが、その考え方はお金がある人しか考えないことだ。
お金が無い、もしくは、他力による助けは最小限しか必要としない自立した人間は「通う」という自動運動的な繰り返しのパターンに入らない。
自立した人間は、最小限の治療で体調を回復させた後、別の方向性の力を使って自律しようとする。
私の場合は、鍼灸以外の手段…食事や睡眠や運動に配慮して自分の身体を整えることにする。
鍼灸院に通い、鍼灸師と仲良くなってくると、身体も精神も鍼灸師の癖を帯び、自分の思考も体調も好みも偏ってしまうのだ。
悪いというわけでもないが、どこか偏るのだ。
自分と鍼灸師の関係性を継続させ、自分は表社会において特定の仕事場に就職し、鍼灸院に通い続けるという考え方も一つの正解だ。
だが、それはそれであくまで一つの正解に過ぎない。
あとがき
誤解を受けてはいけないと思いますので、断っておきますが、こちらの小説は、私自身のことではありません。
あくまでフィクションですが、部分的に実話に基づいたものになります。