あなたの「知らない世界」その2――神仏に願いを託すとき、忘れてはいけない責任

あなたの「知らない世界」その2――神仏に願いを託すとき、忘れてはいけない責任

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コラム
こんにちは。人生の再出発を応援する「紀真(きま)」です。

前回は、紀真とご加護をいただいている白龍様との出会いについてお話ししました。

今回も、信じるか信じないかは、読者の皆さんそれぞれの自由のお話となります。

ただし、今回のお話には、紀真自身に対する戒めという意味も込めています。

それは、不思議な力を何のために使うのか。そして、願いを託すとき、責任をどこに置くのか。 という問題です。

1.不思議な力を、何のために使うのか

白龍様との出会いだけでなく、紀真の地元の氏神様を祀る神社や、特定の神仏を祀る寺院でも、不思議だと感じる出来事を経験してきました。

しかし、今回お伝えしたいのは、不思議な出来事そのものではありません。

そのような体験をしたとき、私たちは何を考え、どのように行動するべきなのか。

今回は、紀真自身の体験を通して考えてみたいと思います。

2.紀真が100日間の祈願を始めた理由


皆さんは「お百度参り」と聞くと、どのような光景を思い浮かべるでしょうか。

時代劇などで、夜明け前に裸足で神社仏閣へ通い、一日で100度を踏み、願いを祈る姿を思い浮かべる方もいるかもしれません。

一方で、日々祈願を続けるという形で願いを託す人もいます。

紀真も以前、100日間にわたって100度祈願を続けたことがあります。

ただし、自分の願いをかなえてもらうためではありません。

当時、すでに占い師として活動していた紀真は、相談に来られた方々の悩みが少しでも解決するようにと願い、始めました。

往復には、徒歩で約1時間をかけ、寺院と氏神様の神社を回り、それぞれの場所で相談者の悩みなど、10項目ほどの早期解決を祈願していました。

もちろん、神仏に願いを託すこと自体は、個人の自由と思います。
逆に、願うことを否定する方もおられるようです。

ただ、紀真は、この経験を通じて、願いを託すことと、その願いに対して自分がどのように向き合うかは、別の問題だと考えるようになりました。

3.相談者の女性に起きた、二度の骨折

当時、相談者の中に、50歳前後の女性がいました。
離婚を経験し、独身で生活されていた方です。

あるとき、その女性が夜遊びから帰る途中、アスファルトの道路で転倒し、右足を複雑骨折したと聞きました。

彼女は、足を使う仕事だったため、長期間休まなければならず、大変困っておられました。

そこで紀真は、その女性の回復を願い、祈願する項目の一つに加えました。

数週間後、女性から連絡が入りました。

「紀真さん、聞いて、聞いて。病院の先生が、こんなに早く骨が回復するのはおかしいって言うの!」

女性は、とてもうれしそうでした。

紀真は「良かったね」と答えました。

ただし、女性には祈願のことを伝えてはいませんでしたし、回復が祈願によるものだと確認できたわけでもありません。

その後、私も安心しましたし、祈願する他の方の項目も増え、彼女の項目は外して、お百度を続けました。。

ところが、さらに数週間がたった頃、再び女性から連絡がありました。

今度は、泣きそうな声でした。
「カラオケに行って、また道路で転んで、足を骨折してしまった……」

病院の先生からも、「馬鹿者!こんなことしてたら、一生歩けなくなるぞ!」「再びけがをするようなことがあれば、一生歩けなくなるぞ」と厳しく注意されたそうです。

自身の思い以上に回復が早かったので、うきうきしすぎたのだと思います。

紀真が、「いつ怪我をしたのか」尋ねると、女性の話では、祈願の項目から彼女の文を外した翌日のことでした。

一瞬「あぁーーーー!」とびっくりしました。

この出来事を、皆さんはどう受け止めるでしょうか。

4.不思議な出来事を、安易に因果関係で結びつけない

この話を紹介したからといって、紀真に特別な力があると主張したいわけではありません。

最初の骨折からの回復が祈願によるものだったのか。

祈願の項目から外したことと、再び骨折したことに関係があったのか。
それは、紀真にも分かりません。

出来事が起きた時期が重なったからといって、それだけで原因と結果を断定することはできないからです。

氏神様の神社でも、似たような不思議な経験をしたことがあります。

しかし、そこで大切なのは、体験をどのように語るかということではないでしょうか。

不思議な体験をしたからといって、自分の力を誇張したり、他人に信じるよう求めたりする必要はありません。

むしろ、分からないことは分からないと認める姿勢が大切だと、紀真は考えています。

5.神仏への願いと、自分自身の責任

ここで、今回のブログで最もお伝えしたいことがあります。

神様や仏様に願いを託すことは、本人の自由です。
信じる人もいれば、信じない人もいます。どちらが正しいと決めつけるつもりもありません。

しかし、願いを託したからといって、自分自身の責任まで神仏に預けてしまってよいのでしょうか。

例えば、健康を願うのであれば、必要な治療を受け、危険を避けるための行動を取ることも大切です。

仕事や人間関係の問題であれば、祈ることに加えて、自分にできることを考え、行動する必要があります。

また、誰かのために祈願する人も、自分の行為が相手にどのような影響を与えるのか、慎重に考えなければなりません。
これは、紀真自身に対する自らへの戒めの言葉です。

祈願したから必ず願いがかなう、あるいは祈願をやめたから不幸が起きる。

そのように断定してしまえば、本人にも、周囲の人にも、不必要な恐れや誤解を与えかねません。

願いを託す自由があるからこそ、その願いをどう受け止め、現実の行動にどうつなげるかについては、自分自身が責任を持つ。

これは、紀真自身も忘れてはならない戒めだと思っています。

6.人智を超えるものへの畏敬の念

世の中には、「私は龍神使いです」などと、ご自身の能力を語られる方もいます。

もちろん、どのような表現をするかは、その方の自由でしょう。

ただ、紀真自身は、人間の理解を超えるものに対して、畏敬の念を持って接したいと考えています。

龍神様を、まるで馬や牛のように、自分の思いどおりに動かせる存在として扱うことには、強い違和感があります。

不思議な力が本当に存在するのか。
それが、どのような仕組みで働くのか。
紀真には分からないことは、たくさんあります。

だからこそ、分からないものを安易に自分の手柄にしたり、他人の人生を左右できるかのように語ったりすることには、慎重でありたいのです。

少し厳しいお話になってしまいましたね。
白龍様に紀真も怒られてしまうでしょう。

それでも、今回の話は、誰かを批判するためではなく、何よりも紀真自身への戒めとして書きました。

神仏に願いを託すことも、不思議な世界を信じることも、その人の自由です。
ただし、願いをかなえる責任まで、すべて目に見えない存在に委ねてしまわないこと。

そして、自分が分からないことについては、分からないと認めること。

紀真は、これからもその姿勢を大切にしていきたいと思います。
では、また。

前回の「白龍さまとの出会い」の話





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