百王伝説(3)

百王伝説(3)

記事
小説
     第二章 野馬台詩

   一

「それゆえ、やつがれを訪ねてきたかや」
「その通りです」
「ふうむ」
 小四郎の話を聞き終えて、くろ梵字は何やら考え込むふうである。
「陽が落ちるようです」
 ややあって、くろ地蔵がおそるおそる告げた。
「おお。つい、長話になったようだ。小四郎とやら、腹は空いておらぬか」
 くろ梵字に訊かれて、小四郎も空腹を意識した。それを察したのだろう、
「くろ地蔵よ。頼むぞ」
「承って候」
 くろ地蔵は、ゆっくりとくろ梵字から離れた。くろ梵字は小四郎の手を借りて壁にもたれると、
「山名どのは何処に?」
「まだ京には入っておりませぬ。白子どのが京を探り、それがしがここを訪ねた次第」
「内野の戦いから三年ほどしか経っておらぬゆえな。そのうえ満幸どのは、乱の首魁であったな」
 くろ梵字は憐れむように言った。
「教えてくだされ。この詩を読み解けるのはどなたでござろう」
 小四郎は紙片を手にくろ梵字に低頭した。
「読み解けるのは、賢人と呼ばれる人物のみであろう。当代の賢人といえば、貴族か叡山か……。いずれにしろ武家で読み解ける者はおるまい……」
 すでに頓阿法師は亡い。くろ梵字は、思案しながら、
「そうじゃ。安倍有世どのであれば、あるいは」
 と、思い出したように一人の人物の名をあげた。
「陰陽頭おんみょうのかみの安倍どのでござりますな」
 くろ梵字は肯いた。
「山名どのの謀叛を予言した安倍有世どのは、野馬台詩によりそのことを知ったという真しやかな噂がある」
「本当でござりますか」
 小四郎は半信半疑だが、もし事実であれば、今後の満幸の身の処し方も最善の方法が、あるいは分かるかもしれない。
「して、その住まいは」
 小四郎が訊ねたとき、
「お師匠……!」
 叫び声はくろ地蔵のものである。外にはただならぬ気配が漂った。
「くろ梵字どの。お久しゅうござるな」
 大きな声が聞こえる。
 小四郎が庵から顔を出して、声のした方を見つつ、
「何者だ」と、誰何した。
「若者よ。ぬしこそ何者だ。くろ梵字どのの縁者かや」
 逆に問われてしまった。その者は阿弥衣を纏い、菅の笠を被っている。だが、その者一人だけではなかった。
 すでに陽は落ちて、辺りは暗くなっている。阿弥衣のその者の後ろには、黒装束に同じく菅の笠、顔を黒布で覆った者たちがいる。五人、いや十人ほどか、みな背に太刀を負っている。
 その者たちは、阿弥衣の人物の指示で、くろ梵字の草庵を取り囲んだ。
 尋常ではない。くろ梵字と面識はありそうだが、明らかに敵意がある。小四郎は太刀を手に引き寄せた。
「その声は刀阿弥かや」
 くろ梵字が庵の内から呼びかけた。声には力がある。阿弥衣の人物の名前であろう。
「さ候」
「久しいな。何用だ」
「道縕秘帖どううんひちょうをお借りしたい」
 刀阿弥と呼ばれた人物はそう言った。暗がりでよくは見えないが、声の感じからすると四十くらいか。 それにしても道蘊秘帖とは何だろうか、と小四郎は思った。
「すでに無い」
 くろ梵字の答えを聞いて小四郎は思い出した。道蘊秘帖とは、かつて二階堂道蘊が野馬台詩を読み解くために作ったあの草紙だということを。
「隠さずともよい。素直に渡せば、このまま退き申そう。ご老体は労らねば」
「余計な気遣いよ。だが、真に無いのだ。五十年も前に焼き捨てたわ」
「やむを得ませぬな」
 刀阿弥は右手を挙げて何事かを合図した。くろ梵字の言葉を信じていないようだ。
 草庵を取り囲んでいた者たちが、いつの間に用意したのか一斉に火矢を構えた。
「やめろ。くろ梵字どのの話は、真のことだ」
 小四郎は草庵を出て、刀阿弥に叫んだ。
「若者よ、こなたもくろ梵字どのの一味か」
「いや。なれど……」
「ならば邪魔するでない」
 刀阿弥はそう言って、「やれ」と合図を送った。いっせいに火矢が放たれる。
 火矢が次々と草庵に突き立った。ややあって、くろ梵字が年齢とも思えぬ素早さで外に飛び出してきた。続いてくろ地蔵が……。
 同時に草庵が一気に炎に包まれた。
 くろ梵字は、飛び出すと身体を反転させて刀阿弥に棒で打ってかかった。草庵を取り囲んでいた黒装束の者たちが、いっせいにくろ梵字に殺到する。
 あっという間に黒装束の者たちは、円陣を組んでくろ梵字を取り囲んだ。
「助勢仕る」
 小四郎は黒装束の囲みを解くべく太刀を抜いて打って掛かった。ほぼ同時にくろ地蔵も助勢に入る。
 小四郎は自分の剣に自信があった。主人満幸とともにかつて念大慈恩から兵法を学んでいたからである。念大慈恩の創始になる兵法を〈念流〉といった。
 この時代は、刀剣を中心とする武芸全般のことを〈兵法〉といい、軍略の意味が強くなるのは、戦国時代になってからである。
 小四郎は囲みを割ってくろ梵字に近づくと向きを変えて黒装束に対した。くろ地蔵が続いたが、そんな三人を囲むように黒装束は新たな円陣を組んだ。
 くろ梵字、くろ地蔵の太刀筋もなかなかのものである。黒装束の者たちは、皆小柄で小四郎たちの敵ではないと思われた。
 だが、その者たちの太刀さばきも案外に鋭く、円陣は崩れそうでなかなか崩れない。 
 草庵の炎で、辺りは昼間のように明るかった。小四郎は焦りながらも不思議な感じに囚われた。もしや、黒装束の者たちは、みな女ではないか、ということである。とはいえ、今まで女と剣で対峙した経験がない。
 小四郎の集中力が途切れかけたとき、
「御助勢仕る」
 と叫んで、新たに三人の人物が現れた。
「尼どの!」
 小四郎はその頭立つ人物に覚えがあった。備中国で会った玉峰明金尼である。
 明金尼の下知で、桜色の布で顔を包んだ二人が、背に負った太刀を抜いて、円陣に斬ってかかった。
「何故尼どのが……」
 明金尼は刀阿弥に対した。突然の闖入に刀阿弥も困惑しているようだ。
 援軍に力を得て、小四郎もくろ地蔵とともに黒装束に斬ってかかった。助勢に入った二人の太刀筋も鋭く、たちまち円陣が崩れていく。
「やむを得ぬ。退け」
 明金尼たちの攻撃を持て余した刀阿弥は、引き上げを命じた。崩れたった円陣が、そのままばらばらに散っていく。
「待て」と言って、小四郎はそんな一人に追いすがった。できれば、捕らえてその正体を知りたいと思ったからである。
 草庵が燃え落ちて火勢が落ちつつある。
 小四郎は黒装束の一人を追い詰めた。
「逃げられぬぞ」
 その声に黒装束が立ち止まる。小四郎が勢い余って黒装束の傍らを抜けたとき、さっ、と鋭い太刀がきた。
 その太刀を払って、小四郎は己の剣を返して黒装束に斬りかかる。
 黒装束が身を躱して剣先を逃れた。位置が入れ替わる。
 直ぐに小四郎が剣を一閃させた。再び身をかわした黒装束だったが、笠が取れて結ばれていた黒布も同時に外れる。
 衰えた火明かりに黒装束の顔が浮かんだ。驚愕の表情が、すぐに怯えを含んだものに変わる。
 小四郎は声が出なかった。やはり戦っていたのは女だったのである。それも妙齢というべき女だった。
「ケイセツ! こっちだ」
 刀阿弥の声がして、矢が飛んできた。
 小四郎がその矢を払ったとき、すでに女の姿はなかった。
「ケイセツ……?」
 黒装束の女の名だろうか。驚愕から怯えを含んだものに変わった女の顔が脳裏から去らず、小四郎はしばらく呆然と立ち尽くしたままだった。

   二

「くろ梵字どの!」
 明金尼の声に、はっと我に返った小四郎は、すぐに明金尼たちのところに駆けつけた。
 くろ地蔵に抱えられたくろ梵字は、力なくぐったりとしている。先ほどとは別人のようだが、無理もない、すでに齢は九十を越えているのである。そのうえ、刀阿弥たちに襲われて体力を使い果たしたのだろう。
「もしや、尼どのは……」
 それでも息を整えつつくろ梵字が問うた。
「千代にござります」
 明金尼ははっきりと答えた。明金尼は、あの二階堂千代だったのである。
「一別以来でござりますな。余りにも、余りにも長かった」
 感に堪えぬように言ったのはくろ梵字である。
 明金尼は、屈んでくろ梵字に対した。
「お会いしとうございました。まさか、このような形でお目に掛かろうとは……」
 後は言葉にならなかった。
 二人はしばらく互いに見合って越し方を振り返っているように見えた。
「お師匠、すでに夜中。それがしの庵で休まれては」
 くろ地蔵が気遣うと、くろ梵字は軽く首を振って、
「道蘊どのの草紙は、あの日間違いなく焼き捨て申した。やつがれの手元には、野馬台詩の写ししかござらぬ」
 と言った。約束は守った、ということだろう。その詩は、今小四郎が譲り受けている。
 明金尼は礼を述べて、
「なれど、今一度見とうて、藁にもすがる思いでここに来ました」
 と言った。
「何故に?」
「我が子のために、未来が知りたかったのです」
 あのとき明金尼は、一命を取り留めたのだ。傷が癒えた名金尼は、頓阿のもとで連歌を学び、さらに兵法の修行に励んだ。そして、縁あって足利直冬に嫁いだのである。
 一頃は西国に大きな力を持った直冬だったが、やがて勢いをなくし石見国で没した。直冬亡き後は、跡継ぎの冬氏を守って備中国井原荘に住んでいる。
「未来を知って何となされる?」
「我が子を征夷大将軍にできぬものかと思ったのです」
 その真意は、直冬、冬氏を擁して天下を取り、二階堂道蘊を滅ぼした後醍醐帝の子孫、すなわち南朝を滅ぼすことにあったのではないか、と小四郎は思った。
「愚かなことを。そのようなものに頼るなど佐殿すけどの(足利直冬)も御子も落ちぶれたものよ」
 くろ梵字は悲痛な面持ちで言った。
「五十年も前の読み解きなど」
 何の役にたつものか、という言葉をくろ梵字は、かろうじて呑み込んだ。
 目の前に居るのは、美しかった若い千代ではなく、我が子の行く末を思う年老いた尼なのだ。頼む守護や大名も居らず、ただ血筋のみにすがる哀れな一人の母親に過ぎない。すでに南北朝も合体し、天下は足利義満のもと不動のものとなりつつある。
「親子水入らずで暮らせることこそ幸福に過ぎることはありますまい。そのことは一族を滅ぼされ、幼くして姉妹二人きりとなった千代どのがよくご存じのはず」
 くろ梵字は、これまで独り身で家族を持ったことがない。
「そうでありました」
 明金尼は、くろ梵字の言葉に何かを感じたのだろう。
「玉金。そなたはここに残って、くろ梵字どのを介抱してたもれ」
 立ち上がって一人の弟子に命じると、もう一人を促してその場を去って行った。
 後に残された女は、桜色の布を解いて、
「明金尼さまの弟子で、玉金と申します」
 と、名乗った。二十歳前の美しい面がそこにあった。短くしてはいるが、剃髪してもいない。
「お休みにならねば、お身体に障りまする」
 玉金はやさしく言って、くろ梵字の身を案じたが、
「よい。やつがれの命は長くない。ここまで生きたゆえこの世に未練はないが、気になるのはこなたたちのことだ」
 くろ梵字は最後の力を振り絞るように、
「世の中はこのまま鎮まると思うたが、もう一波乱ありそうじゃ。やつがれもひと働きしたいがそうもいかぬ」
 そう言って、くろ地蔵に、
「小四郎どのを安倍有世どののもとに案内せよ。そして、虚風こふうどののもとに帰れ」
 と、命じた。振り絞るような声音だった。
「お師匠は、如何なされる」
「寿命が尽きたようだ。千代どのに会うて、この世に未練もない。さらばじゃ」
 そこまで言って、くろ梵字の声が尽きた。
「お師匠」
「くろ梵字どの」
 すでにくろ梵字の息はなかった。小四郎とくろ梵字ががっかりしていると、
「遅かったか」
 という声が聞こえて、鶴のように痩せて髪も口ひげも真っ白な仙人を思わせる人物が現れた。右手に杖を持って、十人ほどの者を従えている。
「総帥(おかしら)!」
 くろ地蔵がびっくりしたように叫んだ。
「虚仙(こせん)どのは身罷られたか」
 痛ましげな声で仙人を思わせる人物が問う。
「たった今でございます」
「亡骸を葬らねばならぬな」
 仙人を思わせる人物はそう言って、後ろに従っている者たちに下知した。直ぐにその者たちが四方に散った。
 くろ地蔵は、小四郎と玉金を紹介し、
「我ら暮露の総帥虚風道人にてござる」
 仙人を思わせる人物の名を告げた。そして、虚風が暮露の現在の総帥であり、その先代が虚仙ことくろ梵字であったこと、虚風に総帥の座を譲って後ここ双ヶ岡でひっそりと隠遁の生活に入っていたことを語ってくれた。
 小四郎は虚風道人の面差しにどこか見覚えがあった。その気持ちを察したのか、
「久しいの堀北小四郎よ」
 と、虚風が言った。
「あっ! 修理大夫どの」
 思い出した。修理大夫は、名を山名義理よしまさといい、山名満幸の叔父で美作、紀伊国の守護だった人物である。
 義理は、内野の戦い(明徳の乱)では、山名満幸、氏清に与同した。そのため、大内義弘に紀伊国を攻められ敗北。一族とともに由良湊から逃げようとしたが叶わず、興国寺で息子ら十七人とともに出家したという。その後行方が分からなくなっていたのである。明徳三年のことだった。
「暮露の総帥になっておられましたか」
 小四郎は感慨深げに言った。
「苦労したようだの。満幸どのは何処に?」
「西国を流離い、今は京の近くに潜んで居られまする」
 具体的な地名を告げるのは避けた。例え身内であっても大事を期さねばならない、と思ったからである。
「そうか」と、虚風は肯いたのみだった。次の問いはない。
 しばらくの沈黙があった。
「くろ梵字どのを襲ったのは、刀阿弥と名乗る時衆と十人ほどの黒装束でございました。何者でありましょうか」
 くろ地蔵が虚風に訊く。小四郎もその者たちの正体が気になっていた。
「うむ。吉祥天一味よ」
 虚風は忌々しげに告げた。
「吉祥天一味?」
 小四郎とくろ地蔵は、同時に声を上げたが、二人の言葉の意味は異なる。くろ地蔵は驚きであり、小四郎は疑問のそれであった。
「あれが噂の……」
 くろ地蔵は呟くように言った。

   三

 吉祥天とは、もともとヒンドゥー教の女神だったものが、仏教に取り入れられたものである。須弥山で北方世界を守護する毘沙門天の妃とされていた。また、衆生に福徳を与える高貴で美人の女神とも伝わっている。
 吉祥天一味とは、内野の乱の直後、都で騒がれた盗賊団の名称であった。黒装束に菅の笠、黒布で顔を隠した五人から十人ほどの賊が、京の公家や大名、有徳人(富豪)を襲い、時に貧しい者たちに施しをするというので、義賊として名高い。驚くべきは、その者たちが皆美しい女人だというのである。ゆえに都雀の間で吉祥天一味と噂されているのだった。
「その吉祥天一味が、なぜ道蘊秘帖を欲しがるのでしょう。それに刀阿弥なる坊主と吉祥天一味とはどのような間柄なのでしょうか?」
 くろ地蔵は、吉祥天一味と刀阿弥との関係がもう一つ釈然としないのだろう。それは虚風も同じと見えて、
「分からぬ。刀阿弥は京八流双林派の兵法者で国阿派の時衆でもある。それが吉祥天一味を率いるなど」
 と、思案するように言った。
 そのとき暮露の一人が寄ってきた。
「荼毘の支度が調いましてござる」
 暮露の指さすところを見れば、草庵の燃え後を利用して台が組まれ、そこにくろ梵字こと虚仙が寝かされていた。
「皆の者。先の総帥虚仙どのを弔おうではないか」
 虚風の合図で台の回りに敷かれた枯れ草に火が掛けられた。くろ地蔵が、尺八を吹く。蕭条とした音が辺りに響き渡った。
「齢九十三と聞く。今宵亡くなられたは、天命というべきでござろう。ご冥福をお祈り申す」
 虚風がそう言うと、回りを取り囲んだ暮露たちが、尺八の音に合わせていっせいに声をあげた。
「ぼろん。ぼろん。ぼろん……」
 これが暮露の葬り方であろう。経の代わりに、ぼろん、ぼろんと唱える。ゆえに暮露なのである。
 虚仙の身体が燃え尽き、下火になったとき、東の空が白々と明け初めてきた。
「さて、参ろうか」
 虚風が皆を促したとき、
「お待ちくだされ、総帥」
「どうした? くろ地蔵」
「やつがれはお師匠より堀北小四郎どのを安倍有世どのの邸まで送るように命じられております」
 今ではくろ梵字の遺言となってしまった。
「そうか。ならば小四郎を見送った後、我らのもとに戻るがよい」
 先へ行くぞ、と言い置いて歩を進めた虚風が、「そうじゃ」と言って、小四郎の方を向いて言った。
「山名時清どのが、丹波国宮田荘に潜んで居る。今は確か宮田右馬助うまのすけと名乗っているはず。機を見て訪ねるがよい」
 山名時清は、山名満幸の叔父氏清の子である。小四郎は礼を述べて、
「虚風どののもとも訪ねてもよろしゅうござりますか」
 と、訊ねた。山名義理のことといい、時清のことといい朗報というべきである。満幸に知らせたいと思ったのである。
「その用はあるまい。われらは世俗を捨てて未練はない。こなたにも再び会うことはないであろう」
 虚風は微笑を称えてそう言うと、他の暮露を促して去って行った。山名義理は会いたくないようである。暮露という存在が、いわば遁世者である。
 やむを得ぬか、と小四郎が思っていると、虚風たちを見送っていたくろ地蔵が、
「安倍どのの邸はいつでも参れる。しばらくやつがれの庵で眠りませ」
 と言った。小四郎は夕べから寝ていない。
「いや。大事ありませぬ。このまま参りましょう」
 若い小四郎の体力は、一晩寝ずとも大丈夫なようだ。
 くろ地蔵も若い。
「ならば参りましょう。玉金どのは、如何なされる。お師匠は亡くなられた。備中へお帰りなさるがよい」
 くろ地蔵は、玉金を労るように言った。
「いえ。わたくしもお供させてください。野馬台詩のことを知りたいのです」
 玉金の返事を聞いて、くろ地蔵が小四郎を見た。どうする、と表情が聞いている。
「よろしいでしょう。これも何かの縁。いっしょに参りましょう」
 小四郎は明るく言った。
 三人は揃って双ヶ岡を下りた。
 朝日が昇って双ヶ岡に明るい日射しが差し込んだ。
 くろ梵字の荼毘の炎も収まり、ただ黒い燃え跡があるのみである。
 そこに二人の男女が現れた。男は歳の頃三十くらいか。がっしりとした厳つい身体をしている。烏帽子は被っていない。
 女は二十くらいだろうか。長い髪を後ろで束ねた細面の膚の白い美しい娘だった。二人とも柿色の唐草模様の小袖に同じ色の短袴を穿き、腰帯の後ろに中太刀を差している。
 男の名は板持、女の名を辻風という。二人は楠木党の隠密であった。
「あっけないものだな」
 辻風が荼毘の燃え跡を見て言った。
 どうやら二人は、今までの成り行きをどこかでこっそりと見ていたようだ。
「そう言うな。齢九十過ぎまで生きたのだ。いっそ羨ましいくらいだ。我らは幾つまで生きられることやら」
「未練だな。陰に生きる我らに明日はない」
 今しかないということだろう。
「言うな。おれは生きて南朝が復興し、四郎どのが、楠木の惣領として堂々と京に入る姿を見たいのだ」
 四郎とは、楠木四郎正徳のことである。正儀の第四子で正成の孫にあたる。
「いつになることやら」
 惣領になることか、それとも堂々と京に入ることか。辻風が呆れたように言っとき、
「それゆえ長生きがしたいかえ」
 という、揶揄を含んだ声が聞こえた。
「誰だ。出てこい」
 板持が声のした方を振り向いた。
 向かいの木の陰から一人の男がのっそりと姿を現した。浅葱色の褪せた筒袖と短袴、そのうえ夏なのに獣の皮で作られた袖なしを着込んでいる。顔は隠していない。髭のそり跡の生々しい顔に烏帽子も被っていなかった。
「ぬしはいったい何者だ?」
「猿一族の大猿」と、男は名乗った。
「猿一族だと?」
 板持は訝しげに繰り返した。
「確か頭領は、猿御前さるごぜんと名乗る老婆では?」
 と、言ったのは辻風の方である。
 大猿は肯うべなうように首を軽く振って、
「どうだ、手を組まぬか」
 にっ、と笑って言った。
「何のことだ?」
「決まっておろう。野馬台詩のことよ」
「猿一族が、何故に野馬台詩など」
 板持には、大猿を警戒する様子が有り有りだった。
「我ら猿一族の頭領猿御前は、念大和尚の高弟」
「念流か……」と、呟いた板持には軽い驚きだったようだ。
「いかにも。和尚は南朝の没落を嘆いておられる」
「ふん。念大の弟子は、北朝にもいるわ」
「それはやむを得まい。念流の兵法は、伝授を請う者を拒まぬ。だが、和尚ご自身は、南朝に同情を寄せている。それは我らが頭領も同じ」
「だが、なにゆえ野馬台詩など求める。野晒しには、不要の物であろう」
 野晒しとは、野外で風雨に晒されるしゃれこうべを指すが、決まった寺を持たぬ行脚僧を嘲って形容した言葉でもある。ここでは念大を指している。
「ふふ。こなたたちが手に入れたとて、読み解ける賢人が、今の南朝に居るのか」
 大猿が逆に嘲るような言葉を返したとき、板持は、むっとしたが、次の言葉が出てこなかったということは、痛いところをつかれたのだろう。
「かつて先代の辻風が、二階堂万代を殺して道蘊秘帖を奪おうとした。それをくろ梵字に阻まれ、さらには先代の板持もしくじった」
「ふん。五十年も前の話。それに先代ではのうて先々代よ」
「はは。細かいことはどうでもよい。なにゆえ五十年も過ぎてしくじった野馬台詩を欲しがるのだ」
「喧やかましい。我らの勝手であろう」
「そうだな。闘争を仕掛けるつもりはない。もう一度訊ねる。手を組まぬか」
「念大和尚なら読み解けるというか」
 と、言ったのは辻風の方である。
「仮に和尚ご自身が読み解けなくとも読み解ける者は居るであろう」
 ううむ、としばらく迷っていた板持だったが、
「分かった。我らにとって江湖(こうこ)は敵ばかり。ゆえに半信半疑であったが、敵を増やしても良いことはない。手を組もう」
 江湖とは一般的には、世の中全般のことをいうが、この頃は特に南朝側から北朝の支配する世界を指して使う言葉であった。
「よし。合い言葉は、『さる』に『かぜ』」
 目印は、と言って、大猿は左斜め下に軽く直線を引いて先端を上に上げた。左斜め下は、申の方角(西南)を表す。
「心得た」
「配下の者に伝達を忘れるな」
 そう強く言い置いて、大猿は姿を消した。
「良いのか、板持どの」
「真から信じたわけではない。気は許すで無いが、無闇に敵対することもなかろう」
「分かった」
「では、我らも参ろうか」
 板持はそう言って、辻風とともに燃え跡に手を合わせた。
 すでに陽は中天近くにある。珍しく強い日差しに二人の顔は汗ばんでいた。
 応永元年(一三九四)九月十日のことである。三十五年と明治より前で最も長い元号は、七月五日に明徳から改まったばかりであった。

   四

 陰陽頭安倍有世の邸は土御門にある。双ヶ岡を下りた小四郎は、玉金とともにくろ地蔵の案内でその有世の邸に向かっていた。
 くろ地蔵の後に従いながら、小四郎は夕べの戦いを思い返していた。刀阿弥という僧侶に率いられた吉祥天一味という謎の女集団。小四郎は女と刃を交えたのは、生まれて初めてのことだったのである。
 強かった、と正直に思う。念大慈恩に剣を学び、高弟と言われる小四郎ゆえに遅れをとることはなかったが、並の侍なら勝つことは難しいと思われた。
 だが、同時に笠と布が飛ばされ、細面の整った白い顔が、驚愕から怯えを含んだものに変わったときの表情が、小四郎の瞼の裏にはっきりと張り付いて離れることがない。
 何者であろうか、小四郎はその女のことを考えていた。そのとき刀阿弥の声と思しき、
 ――ケイセツ
 と、呼ぶ声がはっきりと聞こえてきた。おそらく女の名であろう。「蛍雪」の字を当てるのだろうか。
 蛍雪とは、苦労して学問をすることで、中国の史書に由来する言葉である。だが、蛍と雪という語が、怯えた表情ながらも美しかった女の名にふさわしい名前のように小四郎には思われた。
 高尾路が千本通りと交わるところまで来たときである。
 千本通は、かつては朱雀大路と呼ばれた幹線であった。大内裏朱雀門と羅城門を結ぶ平安京を左右に分ける大路だったのである。今では右京の衰退によって朱雀大路も荒れ果てていた。往事の姿を全くとどめていない。辺りも農地があるのみである。
「腹が空いておらぬか」
 突然、くろ地蔵が言った。
 夕べ戦った女のことばかり考えていた小四郎の意識が破られた。
「そういえば、昨日から何も食べておらぬな」
 くろ地蔵の言葉で小四郎も改めて空腹を意識した。その途端我慢できないものとなった。無理もない。昨日から満足に食べておらず、そのうえ睡眠も取っていないのだ。空腹と同時に疲労感も広がっていく。
 だが、小四郎にとって、それは初めてのことではない。内野の戦いに敗れ、満幸に従って西国に逃れてからは、しばしば経験したことだった。
「それがしはまだ耐えられるが、玉金どのは如何か」
 小四郎は玉金の身を案じた。
「はい。空いておりまする」
 玉金はうつむきながら小さな声で肯いた。同行を申し出た手前言い出せなかったのだろう。
「はは。尼どのは、正直でよい」
 くろ地蔵は、高らかに笑った。小四郎のやせ我慢は、どうやら見破られていたようだ。
「安倍どのの邸は逃げはせぬ。腹が減ってはなんとやら、ここらで腹ごしらえをして行こうか」
「あてがあるのか?」
「いささか」
 くろ地蔵は答えて左に道をとった。
「ふむ。寄り道をするか。まさか、感づかれたわけではあるまいが」
 小さな声で呟いたのは、小四郎たちの後ろから密かに尾行していた僧侶であった。
 阿弥衣に顔全体を覆う大きな菅の笠、杖を手にしている。その僧侶が、笠を心持ち上げた。くろ梵字を襲った刀阿弥である。
 くろ地蔵は、小四郎、玉金を伴って近くの百姓家に入った。
「すまぬが食い物を恵んでくれぬか」
 百姓家には、女房と思しき中年の女がいたが、暮露に侍そして尼という組み合わせにいささか驚いたのか、ひっ、と小さく叫んで隅に寄った。
「驚かしてすみませぬ。銭はありまする」
 気を利かせて玉金が進み出て言った。
 若い尼に安堵したのか、女は玉金が差し出した銭を受け取ると、瓜を切って出してくれた。
 くろ地蔵は、その瓜の一つにかぶりつきながら、
「我らを尾つけている者がいる」
 と、小さな声で小四郎に言った。
「知っている。笠で顔を隠しているが、阿弥衣から察して夕べの刀阿弥という時衆かと」
 やはりくろ地蔵も気づいていたか、と小四郎は思った。
「どうする。このまま安倍どのの邸まで黙って連れていくか」
 くろ地蔵が空腹を理由にここに誘ったのは、そのための思案のときを稼ぐためであったようだ。
「ううむ」
 小四郎は迷った。刀阿弥の狙いは、小四郎の持つ野馬台詩であろう。だが、盗賊と関係する刀阿弥が、野馬台詩を得てどうするのだろうか。そこのところが小四郎にももう一つよく分からない。
 ままよ、と小四郎は覚悟を決めた。
「それがしが話してみよう」
「待て。剣呑だぞ」
「腕には自信がある」
 小四郎は先に瓜を食い終えて外へ出た。
「刀阿弥どのよ、出てこられぬか」
 百姓家から出た小四郎は、辺りに聞こえるように大きな声で言った。
 その声に応じるように、右手の木陰から菅の笠を取った刀阿弥が現れた。
「なぜ尾つける」
「その声音に敵意はないようだの」
「道蘊秘帖をくろ梵字どのが焼き捨てたは、間違いのないこと。まだ、信じておられぬか」
「いや。それは納得した。だが、野馬台詩は、ぬしが持っているのだろう」
「野馬台詩を得て何とする」
「拙僧は坊主だが、学問は苦手でな。野馬台詩を得ても読み解くどころか詩自体も読めぬであろう。だが、さる高貴なお方が所望なのだ」
「高貴なお方とな?」
 意外であった。
「今はまだ御名は言えぬ。だが、ぬしの持っている野馬台詩を差し上げたいのだ」
「差し上げて何とする」
「さあて、そこからは拙僧にも分からぬ」
 刀阿弥が献上したいという高貴な人物は、山名満幸の敵か味方か。味方であれば、ともに詩を読み解いても良いが、敵ならば……。
 小四郎は迷った後に、
「断ろう」
 と、きっぱりと言った。
「断るか。ならば、写させてくれぬか」
「写す。御坊がか?」
「一応坊主ゆえな。字の読み書きはできる。野馬台詩は、百二十字ほどのものと聞いている」
 刀阿弥の申し出に小四郎は迷った。
 このとき百姓家からくろ地蔵と玉金が出てきた。
「一つ取引をせぬか」
 小四郎は腹を決めた。
「取引だと?」
「そうだ。我らはこれより安倍有世どのの邸に参る」
「陰陽頭のか?」
 小四郎は大きく肯いた。
「安倍有世どのといえば、正三位刑部卿ではないか」
 三位以上は〈公卿〉と呼ばれ、昇殿が許される。小四郎たちのような地下人じげにんとは、身分的に大きな開きがあった。
「それゆえ我らが行っても会ってくれるか、会っても素直に読み解いてもらえるか」
「ははあ」
 刀阿弥は小四郎の取引の意味を覚ったようだ。
「小四郎どの。いかぬ」
 後ろからくろ地蔵が袖を引いたが、小四郎は意に介さなかった。
「よかろう。取引に応じよう」
 刀阿弥が受けた。
「ならば、しばらく我らとともにいっしょに動いてもらおう」
「承知」

   五

 その日、安倍有世はうたた寝をしていた。前日からの泰山府君際を終えたばかりで、着替えて寝殿に戻ったところで疲れを覚えたのである。
 泰山府君際は、中国五山の一つ泰山の神を祀る儀式である。有世の祖安倍晴明が得意とし、陰陽道の最高奥義であった。死者を蘇らせる秘術でもあるといわれている。むろん使者を蘇らすというのは迷信だが、泰山府君は、人間の寿命や福禄を司ることから、有世は足利義満の長寿を願い、五節供には必ず行うこととしていたのである。
 安倍有世は、嘉暦二年(一三二七)の生まれというから、すでに七十に近い老人である。

 幾重にも別れて惣領争いに明け暮れた安倍家にあって、自らを惣領に確定させた辣腕の人物だったが、寄る年波には勝てないようであった。
「有世どの」
 己の名を呼ぶ声で目が覚めた。
「誰じゃ。軽々に我が名を呼ぶ者は」
 いささか、むっ、として顔を上げた有世は、目前にむさ苦しい侍に暮露と時衆が居るのを知って不快になった。ただ、後ろに控えている尼には惹かれるものがあったが――。
 立て回してあった几帳は、いつのまにか片付けられている。
「突然のご無礼をお許しください」
 くろ地蔵は、名を名乗ってから丁寧に挨拶をしたが、
「こなたは暮露じゃな。誰が寝殿に上げたのじゃ。汚らわしい」
 痩せてひょろりとした顔に剃り落とした眉根を寄せて家人を呼ぼうとした。
「お騒ぎあるな。やつがれは、くろ梵字に命じられて来た者」
「くろ梵字とな……。虚仙のことか!」
 有世は驚いたようにくろ地蔵を見た。
「虚仙どのをご存じか。ならば、話しが早い。我らはお願いの儀があって参ったのです」
 小四郎も己の姓名を名乗ってから言った。
「願い? 何事ぞ」
「この野馬台詩を読み解いて欲しいのです」
 小四郎は胸元からくろ梵字からもらった紙片を取り出した。
「なに! 野馬台詩とな」
「虚仙どのは、有世卿なれば、読めると申しました」
 有世は驚いたようだが、直ぐに、
「断る」と、強い口調で拒否した。
 そのとき庭に警護の侍が押し寄せてきた。さすがに足利義満お気に入りの陰陽頭である。警護の者の数も多い。
 小四郎たちは、それを承知で忍んだのであり、始めから腹はくくっていた。
「お騒ぎあるな。安倍どのは、我らの手にある」
 毅然として侍たちに対したのは玉金である。あらかじめ決めてあったことだが、尼の身でありながら、凜とした処し方は、師明金の教えがしっかりしている証左であろうか、それとも――。
「なにゆえに読み解いてくれぬのです」
 小四郎は有世の喉元に抜いた太刀を突きつけながら訊いた。
「ぬしたちは山名播州の残党であろう。いまさら敗者が、野馬台詩を読み解いたとて遅いわい」
 有世が憎々しげに言い放った。
 むっ、とした小四郎が、太刀で詰め寄ろうとするのを刀阿弥が止めた。
「我らは山名の残党にあらず」
 刀阿弥はそう言って、有世に近づくと何事かを耳打ちした。
 そのとき、小さな声で「タカハシドノ」と、驚きの声で反芻した言葉を小四郎は聞き逃さなかった。その言葉を聞いた有世の表情が一瞬にして変わったからである。驚きは恐怖に近い表情に変わっている。
「真か……」
 哀れなほどに動揺している。「タカハシドノ」とは、それほどに恐れ多い人物かと小四郎が思ったとき、
「読み解けとは申さぬ。読みだけで良い。教えてもらえぬか」
 刀阿弥が丁寧だが、有無を言わせぬ口調で言った。
 有世は言葉もなく、ただ首を縦に振って、小四郎に紙片をよこせと、でも言うように右手を差し出した。
 小四郎が紙片を差し出すと、有世は床に紙片を置いた。
「これは読み始める文字があるのだ」
 そう言って有世は、野馬台詩百二十文字のうちの六行目六文字めの「東」の字を指さした。そこから下へ左へ、さらに上から右へと自在に指を動かしながら一気に読み上げた。
 なるほど吉備真備が、蜘蛛の糸で読んだというのも肯けるものがある。

  始定壌天本宗初功元建
  終臣君周枝祖興治法主
  谷孫走生羽祭成終事衡
  填田魚膾翔世代天工翼
  孫子動戈葛百国氏右輔
  昌微中干後東海姫司為
  白失水寄胡空為遂国喧
  龍游窘急城土茫茫中鼓
  牛喰食人黄赤与丘青鐘
  腸鼠黒代鶏流畢竭猿外
  丹尽後在三王英称犬野
  水流天命公百雄星流飛

 東海姫氏国(東海姫氏の国)
 百世代天工(百世天工に代る)
 右司為輔翼(右司輔翼と為り)
 衡主建元功(衡主元功を建つ)
 初興治法事(初めに治法の事を興し)
 終成祭祖宗(終に祖宗の祭りを成す)
 本枝周天壤(本枝天壌に周あまねく)
 君臣定始終(君臣始終を定む)
 谷填田孫走(谷填まりて田孫走り)
 魚膾生羽翔(魚膾羽を生じて翔ぶ)
 葛後干戈動(葛後干戈動き)
 中微子孫昌(中微の子孫昌なり)
 白龍游失水(白龍游びて水を失い)
 窘急寄故城(窘急故城に寄る)
 黄鷄代人食(黄鶏人に代わりて食み)
 黒鼠喰牛腸(黒鼠牛腸を喰らう)
 丹水流尽後(丹水流れ尽きて後)
 天命在三公(天命三公に在り)
 百王流畢竭(百王の流れ畢く竭き)
 猿犬称英雄(猿犬英雄を称す)
 星流飛野外(星流れて野外に飛び)
 鐘鼓喧国中(鐘鼓国中に喧し)
 青丘与赤土(青丘と赤土と)
 茫茫遂為空(茫茫として遂に空と為らん)

「よし。邸を出るぞ」
 刀阿弥が言って紙片を掴んだ。
「待て。今の読みを覚えたというか」
 小四郎が止めようとしたが、紙片を掴んだ刀阿弥は、身を翻して小四郎たちから離れた。
「待て」と叫んで、くろ地蔵が追う。
「この者たちを逃がすな。邸に上がっても構わぬ。討ち取れ」
 有世が命じた。
 庭でじりじりとしていた侍たちが、一気に寝殿の内になだれ込む。
 小四郎は玉金の手を取り、
「逃げよう」
 と言って、右手に走った。
「時衆はよい。余の者たちを逃がすでない。弓を、矢を放て。討ち取った者には、存分に褒美をとらすぞ」
 有世の命は、ほとんど絶叫と言ってよい。
「小四郎どの。逃げられませぬ。戦いましょう」
 玉金は覚悟を決めたように背の太刀をすらりと抜いた。
 どこに控えていたのか警護の侍が続々と押し寄せてくる。
「これは……! まさか、侍所が?」
 それは安倍邸に雇われた警護の侍たちばかりではなかった。侍烏帽子に腹当、脛巾に足半、長巻で武装し、組織だった動きは、間違いなく兵士というべきである。
 その兵たちの囲みを破れず小四郎と玉金は、安倍邸の南庭に追い詰められた。くろ地蔵は刀阿弥を追っている。離れ離れとなった。
 築地塀の向こうに四つ目結いの旗印が見えた。
「やはり、侍所か!」
 小四郎は合点した。侍所とは、京の治安を守る幕府の衙門がもんである。長官を所司といい、今は京極治部少輔じぶしょうしゅう髙詮たかあきらが務めている。四つ目結は、その京極家の家紋であった。殺到する兵士は、京極家の軍勢だったのである。
 斬っても斬っても、後から後から湧いて出るように新手が現れる。さすがの小四郎も疲れを意識した。見れば玉金の白い法衣と白い頭巾も兵たちの返り血を浴びて赤く染まっている。
「小四郎。外へ出ろ」
 そのとき聞き覚えのある声が聞こえた。
「三郎師兄か」
 おう、という応えがある。小四郎は玉金に「向こうへ」と言って、安倍邸の門へと移動した。
 二人は手を取って安倍邸の表門を出た。そこにも侍所の軍勢が多数待ち構えていたが、
「手を出すでない」
 鋭い声は、馬上の三郎こと京極三郎左衛門高光のものだった。略して三郎と呼ばれ、念流を学ぶ小四郎の兄弟子だったのである。同時に京極高詮の嫡男でもあった。
 表門の前は、侍所の軍勢が遠巻きにして各々の得物を構えている。三郎の指示がなければ殺到していたことだろう。
「三郎師兄!」
 叫ぶ小四郎に、
「この馬を使え」 
 三郎は自ら馬を下りて、小四郎に手綱を渡した。
「若殿。なりませぬぞ」
 しわがれた声が聞こえる。京極家の家臣だろう。
 小四郎は玉金を前にして馬にまたがった。
「行け」
 三郎が右手を指さして、
「手を出すでない」
 再び厳しい声で兵士たちに命じた。
「かたじけない」
 礼を述べて小四郎は、手にした鞭で馬の尻を思い切り叩いた。
 さっと、と兵たちが左右に分かれて道が開く。これで逃げ切れると思ったとき、
「うっ……」
 小四郎の背に深々と矢が突き刺さった。

サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す