孤独を知っているからこそ、「あなたは一人じゃない」と伝えられる。
1970年
自然の中で育まれた、行動力と感性
1970年6月26日、自然豊かな岩手県で、鈴木真輝子は産声を上げた。
幼い頃の真輝子は、とにかく活発な子どもだった。家の中にこもって遊ぶよりも外へ飛び出し、男子に交じって遊ぶことを好んだ。
剣道、ソフトボール、野球、川遊び、ままごと。冬には、山の斜面でそり遊びをした。豊かな自然の中を駆け回り、身体を動かしながら、のびのびと育った。
運動神経がよく、初めてのことでも比較的すぐにできる子どもだった。
姉が習っていたことをきっかけに始めたピアノも、楽譜を一つひとつ読み込むというより、音や感覚をつかみながら弾くタイプだった。練習そのものは好きではなかったが、耳と感覚で覚え、自然に弾いていた。
じっくり考えてから動くのではなく、まずはやってみる。そして、実際に動きながら感覚をつかみ、自分のものにしていく。
現在の真輝子の行動力や、現場で状況を素早く捉える力は、この頃からすでに表れていた。
小学校時代には、選挙で選ばれ、児童会長も務めた。
人前に立つことを恐れず、自分の考えを伝え、周囲をまとめていく。持ち前の活発さだけでなく、人から信頼され、選ばれる力も、この頃から育まれていた。
孤独の種
両親は共働きだった。
学校から帰宅しても、家で一人で過ごすことが多かった。外では明るく活発に遊んでいた一方で、心の奥には、誰にも見せない寂しさも抱えていた。
後になって振り返れば、この幼少期の経験は、真輝子の人生に大きな影響を与えていた。
父は日曜大工を趣味とし、自分の手でものをつくることを好んだ。囲碁や将棋にも親しみ、囲碁では段位を持つほどの腕前だった。
子どもに何でも先回りして与えるのではなく、まずは自分で考え、自分でやらせる父だった。
父は、テレビ番組の「野生の王国」をよく見ていた。動物が子どもを育て、やがて自然の中へ送り出していく姿を見ながら、真輝子は、子どもをいつまでも親のもとに置くのではなく、自分の力で生きられるように育てるという感覚を受け取っていた。
子どもが自立したら、親としての役割もひと区切りを迎える。
いつまでも手をかけ続けるのではなく、自分の足で生きていける人に育てる。
その考えは、後の真輝子の子育てにもつながっていく。
生活の感性
母は洋服が好きで、洋服づくりに関わる仕事をしていた。
真輝子は幼い頃から、素材や縫製、形の美しい洋服を身近に見て育った。流行や価格だけではなく、質のよさや、自分に似合うもの、美しく長く使えるものを見分ける感覚は、母の姿を通して自然に育まれた。
真輝子が良い洋服を選ぶことができるのは、幼い頃から本物を見てきたからだった。
その感性は、現在の服選びだけではない。空間や暮らしの中から不要なものを見極め、自分にとって本当に必要なものを選び取る力にもつながっている。
母は料理をすることも好きで、毎日の食事を手作りしていた。父も手作りの料理を好んだ。
暮らしに手をかけ、自分たちの手で整えることが、家庭の中に自然にあった。
両親には、自分たちが十分に学ぶ機会を得られなかったという思いがあった。そのため母からは、「勉強しなさい」とよく言われて育った。
そこには、娘にはできる限り多くの選択肢を持ち、自分が望む道を歩んでほしいという願いが込められていた。
しかし、当時の真輝子は、とにかく眠く、机に向かって勉強をすることはあまりなかった。
教科書を読んで覚えるよりも、実際に見て、動き、経験することで理解する子どもだった。
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1983年
バスケットボールで頭角を現した中学時代
中学校へ進学すると、真輝子は姉と同じバスケットボール部に入部した。
持ち前の運動神経と、物事を感覚的につかむ力を発揮し、中学2年生にはスターティングメンバーに選ばれた。
身体を動かし、仲間と一つの目標に向かっていく中学校生活は、真輝子にとって充実した時間だった。
幼い頃から、何かに取り組めば比較的すぐにできるようになるという感覚があった。バスケットボールでも、その力を自然に発揮していた。
小学校では児童会長を務め、中学校では部活動で活躍する。人前に立ち、仲間と行動することは、真輝子にとって特別に難しいことではなかった。
しかし、高校へ進学すると、それまでとはまったく違う時間が始まった。
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高校時代
誰とお弁当を食べよう…。人生で最も孤独だった時間
高校時代の真輝子は、友人との人間関係をうまく築くことができなかった。
「今日は、誰と一緒にいよう」
「誰と一緒にお弁当を食べよう」
毎日のように、そのことばかりを考えていた。
昼休みが近づくたびに、心は落ち着かなかった。周囲の生徒が自然に友人同士で集まっていく中、自分は誰のところへ行けばよいのか。自分を受け入れてくれる場所は、どこにあるのか。
お弁当を食べるという、本来なら楽しいはずの時間が、真輝子にとっては大きな苦痛になっていた。
移動教室の時間も辛かった。
周囲の生徒たちは、友人と話しながら次の教室へ向かっていく。その中で真輝子は、一人で移動することが多かった。
廊下を一人で歩くこと。誰とも話さず、次の教室へ向かうこと。周囲の楽しそうな声を聞きながら、自分だけが取り残されているように感じる時間は、苦痛で仕方がなかった。
幼い頃から外向的で、男子とも自然に遊び、小学校では児童会長を務め、中学校ではバスケットボール部のスターティングメンバーとして活躍していた。すべて無意識でやっていたので、人間関係がシャッフルされた高校で“意識して友人をつくろう”とした瞬間に思考がストップした。
それだけに、集団の中で自分の居場所を見つけられない高校生活は、真輝子にとって非常に苦しいものだった。
部活動も、一つの場所に落ち着くことができなかった。
自分に合う場所を求め、いくつかの部活動へ移った。しかし、どの場所でも自分の居場所を見つけることができず、最後はどの部にも所属しない帰宅部となった。
自習の授業中に学校を抜けて帰宅し、担任から自宅へ電話がかかってきたこともあった。
別れのない卒業式
卒業式の日、同級生たちは、後輩や部活動の仲間たちに囲まれていた。
その中で真輝子は、ただ一人、学校から続く坂を下りて帰った。
誰にも囲まれず、一人で坂を下りたあの日の光景は、長い年月が過ぎても消えることのない記憶となった。
真輝子にとって、高校時代は、人生で最も辛い暗黒期だった。
当時は、なぜ自分がこれほど孤独を感じるのか分からなかった。自分の何がいけないのか、どうすれば人と自然につながれるのかも分からなかった。
しかし、今の真輝子は思う。
あの時代がなければ、人とつながれない苦しさも、誰にも気持ちを話せない寂しさも、心から理解することはできなかった。
誰とお弁当を食べるのかを悩んだ日々も、一人で移動教室へ向かった時間も、卒業式の日に一人で下りた坂も、すべてが今の自分につながっている。
高校時代の孤独は、消したいだけの過去ではない。
孤独の中にいる人の気持ちを理解し、寄り添うことのできる今の自分をつくってくれた、大切な経験の一つとなっている。
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高校卒業後
「私は、優しい看護師になる」
高校卒業後、真輝子は2年間の浪人生活を送った。
国立大学へ進学し、教員を目指していた姉の姿を見ながら、自分自身に問い続けた。
「私は、何になろう」
その時に思い出したのが、幼い頃に病院を受診した際の出来事だった。
病院で、対応のよくない看護師を見た時、子どもながらに思った。
「私だったら、もっと優しく接する」
「私は、優しい看護師になろう」
その思いが、真輝子を看護の道へと導いた。
2年遅れて看護学校へ入学したこともあり、周囲と積極的に友人をつくろうという気持ちはあまりなかった。
高校時代に人間関係で深く傷ついた経験もあり、「誰かと一緒でなければならない」という思いから、少し距離を置いていたのかもしれない。
真輝子は、自分が決めた目標に向かい、看護の勉強と実習に取り組んだ。
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看護師時代
子どもたちに寄り添う仕事との出会い
看護学校を卒業後、真輝子は大学病院に入職した。
配属されたのは、小児科病棟だった。
もともと子どもが大好きだった真輝子にとって、小児科は、自分の力や気持ちを自然に注ぐことのできる場所だった。
幼い頃に「私は優しい看護師になろう」と決めた思いを胸に、病気や不安を抱える子どもたちと向き合った。
看護師は、真輝子が自分で選んだ、人を支える最初の専門職だった。
その後、結婚と転居を機に大学病院を退職。看護師としての人生に区切りをつけ、新しい家庭を築く道へ進んだ。
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結婚
結婚しないと決めていた私が、初めて描いた二人の未来
真輝子は、もともと結婚するつもりはなかった。
しかし、後に夫となる男性との出会いが、その考えを大きく変えた。
夫は営業職を経験していたこともあり、話が面白かった。知識も豊富で、人間的にも尊敬することができた。
何より、一緒にいると、心がほっとした。
何をしてもすぐに怒ることがなく、これまでに出会ったことのない安心感を与えてくれる人だった。
外では活発に振る舞いながら、心の奥に孤独を抱えて生きてきた真輝子にとって、夫との出会いは、初めて安心して自分でいられる居場所との出会いでもあった。
夫は、自分の夢をはっきりと口にしていた。
「自分は社長になる」
「親父を超える」
夫の父は、会社員として歩み始め、その後、大手企業の社長にまで上り詰めた人物だった。
その大きな背中を見て育った夫には、いつか自分も経営者として成功したいという強い思いがあった。
その夢を聞いた時、真輝子は思った。
「この人と結婚して、この人の夢を一緒に叶えたい」
結婚しないと決めていた真輝子が、初めて、誰かと共に歩む未来を描いた瞬間だった。
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結婚後
夫の夢を、10数年かけて現実にする準備
結婚当初、夫は製薬会社を退職し、調剤薬局の管理薬剤師として働いていた。
「自分は社長になる」という夢はあったものの、すぐに起業できる状況ではなかった。
実際に起業するまでには、10数年という年月がかかった。
その間、夫婦は夢を語るだけではなく、結婚当初から少しずつ開業資金を貯め続けた。
やがて、二人の息子にも恵まれた。
夫婦が起業することによって、子どもたちの生活や進路に負担をかけることだけは避けたい。
真輝子は、妻としてだけでなく、母としても、起業に伴うリスクを現実的に考えていた。
開業資金とは別に、起業後3年ほどは、たとえ何が起きても家族が暮らしていけるだけの金額を準備した。
成功する場合だけではなく、うまくいかなかった場合まで考える。
夢や勢いだけでは、家族を守ることはできない。できる準備をすべてしたうえで、挑戦する。
それが、真輝子の覚悟だった。
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子育て期
人間関係に悩み、自分の心を整えた日々
子育て中、真輝子はママ友との人間関係に深く悩んだ。
幼少期から心の中にあった寂しさや、高校時代の人間関係の傷が、別の形で表に現れた時期でもあった。
心が落ち込み、プチうつのような状態となり、心療内科にも通った。
しかし、真輝子は、そこで終わらなかった。
インナーチャイルドセラピーを受け、話し方教室へ通い、自分の心や人との関わり方を学び直した。
夫が起業家を目指すのであれば、人間関係は切っても切れない。経営者の妻としても、人と関わる力は必要になる。
だからこそ、まずは自分自身を整えなければならない。
真輝子は、人間関係が得意だったから、人に寄り添えるようになったのではない。
人との関係に悩み、傷つき、自分を立て直す方法を探し続けたからこそ、人の心を理解する力を身につけていった。
この経験が後に、潜在意識コーチングへとつながっていく。
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2011年
「主人なら大丈夫」迷いなく踏み出した薬局開局
長い準備期間を経て、夫婦は調剤薬局を開局した。
開局を迎えた時、真輝子に大きな不安はなかった。
「主人なら大丈夫」
夫の人柄も、知識も、仕事への姿勢も、長い間そばで見てきた。
万が一に備える資金も準備した。できることはすべてやった。
だから最後は、夫の力を信じることができた。
何も考えずに楽観していたわけではない。現実を見て、十分に備えたうえで、夫を信じて踏み出した一歩だった。
薬局は2026年、開業16年目を迎えている。
夫が結婚当初から語っていた「社長になる」という夢は、夫婦二人の長い準備と積み重ねによって現実となった。
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開局後
雑務から始め、薬局が回る仕組みをつくる
薬局を開局したからといって、真輝子に華やかな役割が用意されていたわけではない。
最初は、雑務から始まった。
掃除も業者に頼めば費用がかかる。そう考え、自分一人で床のワックスがけをしていた時期もあった。
必要なことであれば、役割を選ばず何でも行った。
その後、経験したことのなかった調剤事務にも入った。
ただ仕事を覚えてこなすだけではなく、現場全体を見ながら、働きやすい仕組みを整えていった。
人が動きやすい導線をつくる。
誰が何をするのかを明確にする。
無駄な動きを減らす。
時間内に仕事が終わる仕組みをつくる。
夫が薬剤師としての専門性を発揮できるように、スタッフが迷わず働けるように、空間と仕事の流れを整えた。
真輝子は、目の前の仕事をただこなす人ではなかった。
人が力を発揮できる環境をつくり、仕事が自然に回る仕組みをつくる人だった。
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経営の現実
正しさだけでは、人は動かない
薬局経営の中では、苦しい出来事も数多く経験した。
スタッフが次々と辞めていった時期もあった。
保険証の確認など、薬局として当然必要なことを伝えているにもかかわらず、患者から反発されたこともあった。
「今まで、そんなことを言われたことはない」
正しいことを伝えているはずなのに、理解してもらえない。
真輝子は、経営とは仕組みを整えるだけではなく、人の感情と向き合うことでもあると知った。
正しいことを言えば、必ず分かってもらえるわけではない。伝え方や関係性、相手がどのように受け止めるかまで考える必要がある。
それでも真輝子は、「自分は経営に向いていない」とは思わなかった。
苦しいことがあっても、ただひたすら、日々を頑張り抜いた。
できない理由を探すより、今日やるべきことをやる。落ち込んでも現場に立ち、仕組みを整え、仕事を止めない。
経営は、特別な一日によってつくられるものではない。
思いどおりにならない日も、心が折れそうな日も、目の前の仕事を積み重ねる。
その粘り強さが、薬局を16年目まで支えてきた。
そして、大変なことばかりではなかった。
苦しい時に応援し、支えてくれる人もたくさんいた。
患者、スタッフ、取引先、家族、周囲の人々。自分たちだけで薬局をつくったのではない。
多くの人とのご縁に支えられ、夫婦は一歩ずつ歩みを重ねてきた。
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二人の息子の子育て
同じ子どもでも、伸びる方法はそれぞれ違う
真輝子が子育てで大切にしたのは、二人の息子を同じ方法に当てはめないことだった。
同じ親から生まれた兄弟でも、性格も才能も、成長する時期も違う。
それぞれが持つ才能を見つけ、その子に合った方法を探す。
親の理想に子どもを合わせるのではなく、その子自身が力を発揮できる道を、一緒に考える。
二人の息子の中でも、特に長男からは、多くのことを教えられた。
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長男
跡継ぎではなく、一人の人間として息子を見る。
長男は、幼い頃から、人の何倍もの集中力を持つ子どもだった。
科学が得意で、一つのことに集中すると、驚くほどの力を発揮した。
中学1年生の時、岩手県から横浜へ転校した。大きな環境の変化だったが、すぐに友人をつくり、新しい場所になじんでいった。
才能や学力はあったが、内申点では十分に評価されにくい部分があった。英語が苦手だったこともあり、一般的な評価基準だけでは、長男の本当の力が見えにくかった。
そこで真輝子は、夫と一緒に考え、世間の基準だけを見るのではなく、長男の才能が伸びる高校を選んだ。
長男は高校時代から、理工学部への進学を希望していた。しかし、現役で合格したのは東京薬科大学だった。
入学後も、「薬剤師にはならない」と、自分の意思を明確にしていた。
そして、大学を自主退学すると決めた時、長男は言った。
「大学って、自分の学びたいものを学ぶところじゃないの!」
真輝子に驚きはなかった。
高校時代から、長男が本当に学びたいことを知っていたからだ。
むしろ、その言葉を聞いて、嬉しい気持ちになった。
息子が、自分の人生を自分で選び、自分の力で切り開こうとしている。
薬局の跡継ぎがいなくなることへの寂しさはあった。それでも、息子の人生は息子自身のものだった。
家業を継ぐことよりも、本人が本当に学びたいことを学び、持っている才能を生かして生きることのほうが大切だった。
その後、長男は東京都市大学へ編入。さらに慶應義塾大学大学院理工学研究科へ進学し、修士課程を修了した。
社会人となった今では、入社1年目から評価を得ている。
子どもを伸ばすとは、決められた道を外れないように守ることではない。
その子の力を信じ、必要であれば何度でも道を選び直すこと。
長男の歩みは、そのことを真輝子に教えてくれた。
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次男
遅れて花開いた才能。優しい少年が副将になるまで
次男は、幼い頃からおとなしく、喧嘩をするような子ではなかった。
外では穏やかで、自宅に帰るとよく話す。いつも笑顔で、家族を明るくしてくれる優しい子どもだった。
転校した際には、女子から「かわいい子が来た」と言われるほど、柔らかく親しみやすい雰囲気を持っていた。
人と争うよりも、周囲と穏やかに過ごすことを好む、平和主義の子だった。
そんな次男が夢中になったのが、小学校で経験したタグラグビーだった。
父親にもラグビー経験があり、次男は横須賀ラグビースクールへ通い始めた。
しかし、小学生の頃は、スターティングメンバーにもなかなか選ばれなかった。
早くから注目された選手ではなかった。
それでもラグビーを続け、東京高校に進学すると、身体の成長とともに才能が花開いていった。
高校生活はラグビー中心。高校2年生頃から、めきめきと頭角を現した。
花園では、大会直前にメンバー入りを果たした。
中央大学では、入学時から主力選手として活躍。4年間の寮生活を送りながら、両膝の手術を経験しても、チームのために身体を張り続けた。
4年生では副将となり、仲間を支え、チームを引っ張る立場となった。
1部昇格を懸けた入れ替え戦では、2部を1位で通過したものの、惜しくも敗退した。
目標にはあと一歩届かなかった。
それでも、4年間の寮生活とラグビーを通して、穏やかで優しかった少年は、肉体的にも精神的にも大きく成長した。
早くから評価されなくても、続けることで才能は花開く。
次男の歩みは、そのことを真輝子に見せてくれた。
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2025年
二人の息子が同時に社会人へ。子育てをやり切った日
二人の息子は、それぞれに違う道を歩み、自分の足で社会へ踏み出した。
長男は、自分が本当に学びたい道を選び直し、大学院を修了した。
次男は、ラグビーを通して心身を鍛え、副将としてチームを支えた。
そして二人は、同じ年に社会人となった。
その姿を見た真輝子の胸に浮かんだのは、はっきりとした達成感だった。
「子育ては、本当にやり切った」
二人を同じ方法で育てたのではない。
それぞれの才能を見つけ、それぞれに合う道を探してきた。
心配することも、迷うこともあった。
それでも最後は、子どもたち自身が自分の人生を選び、自分の力で歩き始めた。
かつて父の姿から感じ取ったように、子どもが自立した今、親としての役割もひと区切りを迎えた。
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人生の転換点
嫌だった過去も、私を育ててくれた
子どもたちが巣立った後、真輝子は改めて、自分の人生を振り返った。
家族だけの力で、ここまで歩いてきたのではない。
薬局を支えてくれた人。子どもたちを応援してくれた人。苦しい時に声をかけ、力を貸してくれた人。
多くの人の支えとご縁があったからこそ、今がある。
そして、かつては嫌だと思っていた故郷の岩手県や、人生で一番辛かった高校時代さえも、自分を成長させてくれたのだと思えるようになった。
自然の中で育ったこと。
一人で過ごすことの多かった幼少期。
誰と一緒にお弁当を食べるのか悩んだ高校時代。
一人で移動教室へ向かうことが苦痛だった日々。
人間関係に悩み、心療内科へ通った時期。
そのすべてが今、人の気持ちを理解する力になっている。
過去を消すことはできない。
しかし、過去の意味を変えることはできる。
嫌だった経験も、孤独だった時間も、自分の人生に必要なものだった。
そんな時代もあったからこそ、今の自分がある。
真輝子は、ようやくそう受け止められるようになった。
そして、心に浮かんだ。
「今度は、私が恩返しをしたい」
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新しい挑戦
自分が成功し、その力を人へ還元する
真輝子が考える恩返しは、自分を犠牲にして人に尽くすことではない。
まずは、自分自身のビジネスを成功させる。
夫婦で築いてきた薬局も、さらに成長させたい。共に働くスタッフの給与を、もっと上げられる経営にしたい。
人のために何かをするには、まず自分が力をつける必要がある。
自分が経済的にも精神的にも成長し、その力を家族やスタッフ、周囲の人へ還元していく。
支えてもらった人生だからこそ、今度は自分が、誰かの力になりたい。
真輝子の人生は、家族を支えるだけの人生から、自分自身も成功し、その成功を周囲へ循環させる人生へと、新しい段階に入った。
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コーチとしての原点
誰よりも孤独を知っているから、気持ちを理解し寄り添える
真輝子は、長い間、孤独を抱えて生きてきた。
両親が共働きで、一人で過ごすことが多かった幼少期。
誰とお弁当を食べればよいのか分からず、一人で移動教室へ向かうことが苦痛だった高校時代。
ママ友との関係に苦しみ、心療内科へ通った子育て期。
外からは明るく、活発で、何でもできるように見えても、心の奥には、ずっと寂しさがあった。
なぜ、自分はこれほど孤独を感じるのか。
その原因に気づくきっかけとなったのが、インナーチャイルドセラピーだった。
そして、自分の感情や思考の仕組みを体系的に理解させてくれたのが、潜在意識コーチングだった。
自分の内側を知ることで、過去の見え方が変わった。
孤独は、自分を苦しめるだけの経験ではなかった。
人の痛みを理解し、寄り添うための力に変えることができた。
真輝子は、孤独を知らずに「大丈夫」と声をかけるのではない。
自分自身が長い間、孤独の中を歩いてきたからこそ、言葉にならない寂しさや、誰にも理解してもらえない苦しさが分かる。
だからこそ、孤独を感じている人の気持ちを理解し、その人の隣に立つことができる。
表面的な励ましではなく、心から伝えられる。
「あなたは、一人じゃないよ」
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これから
今からだって、お友達はつくれる
真輝子がこれから救いたいのは、孤独を感じている人たちだ。
家族がいても、心から話せる人がいない。
人に囲まれていても、自分だけが取り残されているように感じる。
大人になった今から、新しい友人をつくることなどできない。
そう諦めている人に、真輝子は伝えたい。
「今からだって、お友達はつくれるよ」
「あなたは、一人じゃないよ」
高校時代に、一人で卒業式の坂を下りた自分にも、そう言ってあげたい。
過去に人間関係がうまくいかなかったからといって、これからもずっと孤独だと決まったわけではない。
年齢も関係ない。
自分の心を知り、自分を整え、人との関わり方を学び直すことで、人間関係は何歳からでもつくり直すことができる。
真輝子は、自分自身の経験を通して、そのことを知っている。
孤独を抱える人の気持ちを理解し、寄り添いながら、新しい一歩を踏み出す力を届ける。
そして、一人ひとりが自分の可能性を信じ、家族や周囲の人と共に成長していける未来をつくる。
自然の中を駆け回り、児童会長も務めた活発な少女は、人間関係の中で深い孤独を経験した。
看護師として子どもたちに寄り添い、妻として夫の夢を支え、母として二人の息子の才能を育て、経営者の妻として薬局を支えてきた。
そして今、自分の人生で経験してきたすべてを力に変え、誰かの心を照らすコーチとして、新たな一歩を踏み出している。
孤独を知っているからこそ、気持ちを理解し、寄り添える。
辛かった時代も含め、すべての経験が今の自分をつくっていると分かるからこそ、相手の過去も可能性も信じられる。
「今からだって、人生は変えられる」
「今からだって、お友達はつくれる」
「あなたは、一人じゃない」
鈴木真輝子の人生の第二章は、今、始まったばかりである。