息抜きに動画で笑った夜、「まあ、悪くないか」と思えた

息抜きに動画で笑った夜、「まあ、悪くないか」と思えた

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コラム
ふと、息抜きにと開いた動画を見て、思わず声を出して笑ってしまいました。その瞬間、画面の面白さに引き込まれていたのと同時に、頭の片隅でこんなふうに思いました。「あ、自分、最近けっこう余裕なかったな」と。

日々の暮らしややりたいことに夢中になっている最中は、目の前のことで頭がいっぱいになっていて、自分が今どれくらいのエンジンで走っているかなんて、意外と見えなくなるものです。ふと立ち止まって初めて、「あぁ、結構カツカツだったな」と自分の現在地に気づく。

そんな瞬間、「もっと上手に余裕を持たなきゃいけないのに」と、どこかで自分を責めてしまうかもしれません。あるいは、「こんなにバタバタしていて余裕がないなんて、ダメな状態だ」と焦ってしまうかもしれません。

けれど、今回の「余裕のなさ」は、どこか少し違っていました。嫌なことに追われたり、誰かに無理やりやらされたりして、心がすり減っていくような「消耗の余裕のなさ」ではありませんでした。自分が「これに向き合いたい」「これをやり切りたい」と思って、自ら進んでアクセルを踏み、夢中で走り抜けた結果としてのバタバタだったのです。

だからこそ、息抜きの動画にふっと心を緩ませて笑ったとき、必死だった自分の姿を思い出しても、苦々しい気持ちにはなりませんでした。むしろ、「我ながら、結構一生懸命やってたんだな」となぜか少しおかしくなり、「まあ、悪くないか」と自然に思えたのです。

私たちは、いつも優雅で、隙がなくて、いつでも心に余裕がある状態が「正しい姿」だと思いがちです。スケジュールが綺麗に整っていて、表情一つ変えずに淡々とすべてをこなせるのが理想だと思い込む。でも、本当に大切なのは、いつも余裕があることなのでしょうか。

自分の意志で「これにエネルギーを注ごう」と決め、夢中になって走り、気づけばちょっと余裕がなくなっているくらい熱中できる時間があること。それ自体が、実はとても贅沢で豊かなことなのだと思います。

他者の基準に合わせてすり減る余裕のなさは、要りません。けれど、自分の意志と意味づけでアクセルを踏み、走り切ったあとの少しばかりの余裕のなさは、あとから振り返ったときに「悪くない」と笑える勲章のようなものです。

今日もまた、目の前のことに夢中になりすぎて、気づけば足元が少し散らかっているかもしれません。それでも、ふと息抜きに笑えたなら、それでいい。自分の意志で選んで、前向きに熱中したその道は、ちゃんと自分で肯定してあげよう。「まあ、悪くない」と思える今を、そのまま軽やかに抱きしめて進んでいけばいいのだと思います。

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